アダム・スミス『道徳感情論』をめぐって、多くの研究者を困惑させてきたのは、神学的・目的論的言説をどう位置付けるかという問題だった。一方の(そして主流派の)研究者は、スミスの道徳哲学が、ニュートン的方法を導入して道徳的事実を説明する経験論的な「科学」である点を重視する。そして彼らは、神学・目的論を、スミス道徳哲学にとって本質的でないものとして切り捨てようとする。他方、前世紀から今世紀への変わり目に声を上げた反主流派の研究者は、神学・目的論が、スミスの道徳哲学に不可欠であることを強調する。

 このような背景のもと、本論文は次のことを目的とする。すなわち、第1に、スミスの道徳哲学と目的論――特に人間本性の合目的性――とが不可分であり、目的論は自然神学によってスミス内在的に担保されることを示す。そのうえで、第2に、自然神学を切り離したとしても、スミス道徳哲学における目的論を維持でき、ひいては、その理論の現代的意義を見出せることを明らかにする。

 本論文は5章から構成される。第1章から第3章までは、スミスによる道徳的事実の説明を検討し、それと人間本性の合目的性とが不可分であると論じる。第4章では、かかる人間本性の合目的性が、スミスにおいてどのように自然神学的に説明され、保証されるのかを示す。第5章では、目的論から神学を切り離し、スミス道徳哲学の現代的価値を見出す可能性を追求する。以上の概観をふまえ、各章の内容をより具体的に以下に記す。

 第1章の主題は、「スミスと動機付けの内在主義/外在主義」である。動機付けの内在主義/外在主義の問題には、道徳の存在それ自体に関わる、道徳哲学にとって本質的な問題が隠されている。かかる着眼のもと、まずは、(1)本章で扱う動機付けの内在主義/外在主義とは何かを明確にする。次に、(2)道徳判断と行為の動機付けとの間の結び付きに関するスミスの立場を、『道徳感情論』第3部のテクストに即して検討する。最後に、(3)この立場が動機付けの内在主義/外在主義のいずれなのかを考察する。本章では、スミスが動機付けの外在主義を採っていたと結論付ける。だが、この立場は同時に、道徳の存在に対する懐疑論へと陥る危険性を内包する。言い換えれば、外在主義的理論を採用することは、徳の実在性に対する懐疑論、さらには利己主義へと直結する可能性を秘めている。

 第2章、「スミスと徳の実在性」では、スミスが同時代人の批判を受けて、徳の実在性を否定する利己主義と自己の理論とをどのように区別しようとしたのかを考察する。本章ではまず、(1)マンデヴィルの利己主義に対するスミスの批判を概観する。次に、(2)この批判と同様の批判がスミス自身の学説に向けられたことが、『道徳感情論』第6版における「称賛への愛」と「称賛に値することへの愛」との区別の明確化に帰結した蓋然性が高いことを示す。最後に、(3)かかる区別が、スミスの学説をマンデヴィルのそれから区別することに成功しているのかを検討する。本章では、スミスの道徳哲学理論が、快への欲求を有徳な行為の究極的な動機付けとみなす利己主義的理論だと明らかにする。他方、人間本性の合目的性により、「称賛」から得られる快とは別種の、「称賛に値すること」から得られる快が存在すると説明することで、スミスは徳の実在性を確保できる。そして、この徳の実在性には、社会効用の観点から合目的性が見出される。しかし、道徳が慣習的・規約的に作り上げられたと説明する立場によれば、道徳の合目的性は、人間本性の合目的性からではなく、人間自身の目的や意図から説明される相対的なものに留まる。そして、仮にスミスがこの規約説的立場を採っていたならば、人間本性の合目的性から徳の実在性を説明することはできない。

 第3章、「スミスと道徳規約説」では、ハーマンの見解を手がかりにして、スミスの学説を相対主義的な規約説とみなす解釈を検討する。まず、(1)道徳規約説やその他の立場についてのハーマンの整理を見る。次に、(2)18世紀スコットランドの3人の哲学者の理想的観察者理論に対するハーマンの評価と、彼によるスミス理論の規約説的解釈とを概観する。最後に、(3)『道徳感情論』第5部のテクストに即して、慣習によりもたらされる道徳の相対性に関するスミス自身の見解を確認し、ハーマンによる解釈の妥当性を検討する。本章では、スミスの学説は相対的な道徳規約説ではなく、普遍的な人間本性に基づく、まさに道徳感情説だと結論する。それゆえスミスは、人間本性の合目的性から道徳の合目的性を説明し、動機付けの外在主義および心理的利己主義を採りながらも、徳の実在性を確保できる。しかし、さらなる問題は、この人間本性の合目的性をいかにして説明するのかである。人間本性の合目的性を説明できなければ、道徳の合目的性を説明できない。これは、徳の実在性を確保できないことを意味するだけでなく、道徳的事実に関する説明として、スミスの道徳感情説が道徳規約説に劣ることの証拠ともなる。このことは、道徳的事実の説明を課題とするスミス道徳哲学にとって、致命的な弱点となりうる。

 第4章、「スミスにおける効用と功利的デザイン論」は、人間本性が合目的性、すなわち「効用」を有することが、いかにして論証されるのかを検討する。まず、(1)スミスにおける効用の概念がいかなるものかを明らかにし、(2)人間のレベルでの効用と区別される、神のレベルでの効用がスミスにおいて重要な位置を占め、人間本性がそのレベルでの効用を持つと示す。次に、(3)人間本性を生み出した神を論証する際に、スミスが功利的デザイン論を用いていたことを見たのちに、(4)ヒュームの功利的デザイン論批判を検討する。最後に、(5)神は規則功利主義者であると論じることで、スミスが功利的デザイン論の難点を回避することを明らかにする。スミス哲学においては、功利的デザイン論により仁愛ある規則功利主義者の神が論証される。そしてそのことにより、神の目的に沿って創造された人間本性の合目的性も、スミス内在的に説明され、保証される。そして、人間本性の合目的性が担保されるからこそ、道徳の合目的性は説明され、徳の実在性は確保され、道徳感情説が道徳的事実に関する最善の説明である可能性も維持されうるのである。

 最終第5章、「目的論とスミス道徳哲学の現代的意義」は、スミス道徳哲学から神学・目的論を切り離そうとするスミス研究主流派の主張と、その可能性を検討する。まず、(1)スミス研究主流派の見解の妥当性を検討したうえで、どのような動機のもとで彼らがスミス道徳哲学と神学・目的論とを切り離すことを願うのかを考察する。次に、(2)目的論を維持したスミス道徳哲学の現代的意義を探るため、スミス内在的なところを離れ、人間本性の合目的性の事実に対する代替的説明としての自然選択の可能性について検討する。最後に、(3)実際にスミス道徳哲学理論をそこなうことなく、功利主義者の神を自然選択に置き換えることが可能かどうか、スミスのテクストに即しながら検証する。本章の結論は、こうした置換は可能だが、スミス道徳哲学の現代的価値を主張して神学を排除する側には、自然選択が人間本性の合目的性の最善の説明であると証明する立証責任が伴う、というものになる。

 以上の議論を経て、最後に、スミス道徳哲学の動機が自然の合目的性への驚きだったことを示しながら、目的論がスミス道徳哲学と不可分であることをあらためて確認し、本論文を結ぶ。