自然主義的意味論の研究

次田 瞬

本稿の主題は、信念・欲求のもつ志向性という特徴である。信念・欲求は、社会的動物であるわれわれの日常生活において重要な役割を担っている。信念・欲求をめぐって認識論者や認知科学者が議論を積み重ねてきた。しかし、哲学では、信念・欲求の概念は本当に現代人の抱いている科学的世界像に適合しているのか、という根本的な疑惑にもさらされてきた。この根本的な疑惑は、自然主義(naturalism)に由来する。

自然主義は現代哲学の大きな潮流をなす一つの考え方である。自然主義者は、実在(reality)がほかならぬ自然科学の方法によって探求できる事柄ですべて尽くされていると主張する。したがって、もしも哲学が実在について何らかの知識をもたらしてくれる営みだとすれば、哲学も自然科学と連続した営みであるということになる。現代の哲学者は、こうした帰結をすすんで受け入れる傾向にある。自然科学が発達し、われわれの日常生活にまで大きな影響を与えている現在、自然科学が原理的に扱うことのできない超自然的な現象や存在者を認めないという態度は、ほとんど常識であるようにも思われる。

それにも関わらず、自然主義はさまざまな挑戦を受けてきた。ここでいう自然主義に対する挑戦はおしなべて次のような形をもつ。自然科学が原理的にすら扱うことができないが、実在にとっての不可欠の部分であるような、そういう現象がたしかにある。反自然主義者によれば、われわれが信念や欲求といった心的状態にあるという事実はそうした現象の一つである。心的状態のどのような側面がそれほど物議を醸すのか?

伝統的に哲学では、心的状態は志向性という物的状態にはない特徴をもつと言われてきた。志向性とは何かについてのものである、という特徴である。志向性を持たない心的状態もあるかもしれないが、信念や欲求は志向性をもつ典型的な心的状態である。信念・欲求は何かについての信念・欲求であり、単に信じている・欲している、ということはない。例えば、冷蔵庫に向かって歩いている人は、はっきりとそう意識してはいなくても、冷蔵庫の中身についての思考をめぐらしている。冷蔵庫の中にはチョコレートが入っていると信じている。チョコレートを食べることを欲求している、などなど。

信念・欲求がもつ志向性は、一見するとどうということのない特徴だが、問題は、この「何かについてのものである」とか「何かに向けられている」という関係性は何なのか、である。いくつかの点で、志向性は物理的世界の中に見出されるような種類の相互作用とは異質であるように思われる。例えば、因果性は物理的世界の中に典型的に見出される相互作用だが、志向性は因果性としばしば対比される。冷蔵庫の中にはチョコレートが入っているという信念は、冷蔵庫の中にチョコレートが入っていることを原因として形成される必要はない。冷蔵庫の中にはチョコレートなどないかもしれないからである。そういう場合ですら、われわれは冷蔵庫の中のチョコレートについて、つまり、冷蔵庫の中にチョコレートがあると信じることがある。こうした信念は偽であり、存在していないものに関わっている。偽な信念を抱くときのように、外界のあり方を誤って捉えることがあるという特徴は、志向性に特有だと言われる。物的状態にはそもそも誤りというものが存在しない。物体が自由落下するとき、電子と電子が反発するとき、そこには重力法則やクーロンの法則といった物理法則にしたがって物質が運動するだけで、そこに例外はない。

こうした考察は、志向性は物理的世界の中に見出されるような種類の相互作用とは異質であり、それゆえに、心的状態の志向性は自然主義に対する挑戦となるということを示唆する。さて、もし志向性が世界の基本的な特徴ではないとすれば、志向性を科学的世界像に適合させるには、志向性を世界のより基本的な特徴へと還元すべしという研究課題が立てられるだろう。これが本稿で取り扱う研究課題である。本稿は、科学的世界像に適合するような志向性の理論を構築するために提案されてきた従来の理論を比較検討し、利点と難点を冷静に見極める。その上で、最も有望な選択肢を選びだし、擁護することを目指す。

本稿は二部構成になっており、前半(1−3章)では心の機能主義を扱う。機能主義は現代の心の哲学において、心的性質についての標準的な理論とみなされている。それゆえ、心的なものに関心があるならば、まずは機能主義の検討から始めるべきだからである。後半(4−8章)では信念・欲求の志向性を論じる。

1, 2章では、機能主義とはどのような立場であるか、詳細に検討する。「○○とは何か?」という問いに答える一つの方法は、○○が何でないかを述べることで、○○の本質的な特徴を浮かび上がらせることである。1章では、機能主義を行動主義と比較し、どのような点において機能主義が行動主義の弱点を克服したのかを考察する。2章では、機能主義と同一説の関係を考察する。機能主義には同一説と両立する実現者機能主義と、両立しない役割機能主義の二種類がある。ここでは役割機能主義を擁護し、実現者機能主義を支持する議論に反論を加える。

3章では、行動主義と同一説を否定した機能主義に依然として残された課題について論じる。機能主義に残された課題はさまざまだが、その中には、命題的態度の本性は依然として不明瞭であるという問題が含まれる。命題的態度は志向性を持つとされる典型的な心的性質であるから、このことは、機能主義単独では志向性を科学的な世界観と折り合いをつけることができないことを示唆する。そこで、命題的態度の本性を明らかにするには機能主義とは別立ての補完的な理論が必要であると結論づける。

第2部では、第1部の結論を踏まえて、命題的態度に関して自然主義者たちがこれまでに提出してきた諸見解を検討する。議論の見通しをつけるため、まず、命題的態度に関する自然主義者の諸見解を

 

  • ・消去主義
    ・解釈理論
    ・信念ベースの理論
    ・欲求ベースの理論

 

の四種類に分類することを提案する。第2部の諸章では、この分類枠に沿って、それぞれの立場の典型的な議論を批判的に検討していく。

4章では、意味や命題的態度に関する消去主義として、クワインの言語哲学を考察する。クワインの言語哲学は行動主義的な前提を措いており、この前提から指示の不確定性のようなパラドキシカルな帰結を導いているので、クワインの議論は帰謬法なのだとよく言われる。私はこの診断に基本的に賛成だが、4章では、ここでいう「行動主義的な前提」の意味するところを明確にし、なぜその前提が指示の不確定性を帰結するのかを分析することに主眼を置いた。

5章では、測定理論との類比に基づくルイスの解釈理論を考察する。その弱点として、高度な合理性を仮定しなければ命題的態度を帰属できないこと、そして、動物にも備わるような内在的志向性を取り扱えないと指摘する。

6章では、信念ベースの理論としてドレツキの議論を取り上げる。ドレツキは情報意味論の創始者の一人として知られ、彼の情報意味論は生物学の哲学における機能の起源説と組み合わせることで、知覚的信念の内容を決定するのに応用できるかもしれない。このアイデアを「ドレツキ型の目的意味論」と呼ぶ。しかし、ドレツキ型の目的意味論は、自然選択による進化が最適にデザインされた外界の認知能力をもった生物を生み出すという非現実的な前提を抜きにしては成功しないと考えられる。この難点ゆえに、本稿はドレツキ型の目的意味論を退ける。

こうして、残される選択肢は欲求ベースの理論だけとなる。これまでに提案されている欲求ベースの理論は、生物学的機能を利用するタイプと、オペラント条件付けを利用するタイプに分けられる。

7章では、生物学的機能を利用するミリカンの理論を取り上げる。ただし、ここでは信念・欲求について論じる代わりに、蜜蜂のような比較的単純な動物にみられるコミュニケーション行動について考察する。一見単純な動物も複雑な行動を行なうことがあり、そうした複雑な行動を説明する上で、彼らが何らかの内容を伝達するコミュニケーションを行なっていると考えることは直観的にもっともらしいところがある。ミリカンは動物のコミュニケーション行動において伝達される内容についての理論を提案しており、この理論は彼女にとって信念・欲求についての自然主義的意味論を展開するための基礎部分に位置づけられている。

8章では、オペラント条件付け、とりわけ強化の概念を利用するホワイトの理論を取り上げる。ホワイトは強化の概念を利用して、彼が「基本的欲求」と呼んでいる一部の欲求に関して内容を決定する方法を提案している。8章では、このホワイトの理論を参照しつつ、基本的欲求と関連する信念の一部分に関して、その内容を決定する方法を提案する。

本稿の議論(とりわけ7章と8章)が成功しているとすれば、動物のコミュニケーション行動、そして信念と欲求のうち基本的な部分に関しては内容を決定できたことになる。つまり、少なくとも志向性をもつ心的状態の一部に関しては、それらがどのような物理的事実によって成立しているのか解明される。このようにして本稿は、ごく一部とはいえ、志向性をもつ状態を自然主義者が良心の呵責なく取り扱えるようになる道筋をつけた。

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