本論文では、明代の白話小説『西遊記』の百回本がいつどのようにして成立し(成立)、どのように広まっていって多種多様な版本が出版されるに至ったのか(展開)、という問題の解明を目指す。まず序章において先行研究を概括し、問題意識を述べた。

 第一章では、百回本『西遊記』諸版本の間で、第九十九回に見える三蔵が西天取経を果たすまでに経験した厄難のリストに大きな異同があることを指摘して、それを聖僧歴難簿と名づけた上で、三類型に分類して分析を行った。現存最古の百回本である世徳堂本を含む華陽洞天主人校本では、聖僧歴難簿における話柄の配列順序が実際の作品内容と食い違っている。これを現存の百回本よりも古いテキストにおける物語の配列順序を反映したものと看做して、百回本が成立する過程における話柄の配列順序の変更の可能性を論じた各種の先行研究と対照することや、作品内部から配列変更の痕跡を探り出すことで検証を試みた。その結果、排列順序を入れ替えられた可能性を指摘されている話柄の幾つかが、果たして華陽洞天主人校本の聖僧歴難簿において実際の作品内容とかけ離れた位置に配置されていることを確認したり、百回本の本文に並べ替えの痕跡と思われる作中年代の矛盾を指摘したりすることが出来た。一方、世徳堂本と本文に大きな相違はなく、百回本『西遊記』成立史上でこれといった大きな意義は持たないと言われていた李卓吾評本が、聖僧歴難簿を全面的に改訂して作品内容に沿う形に改める作業を行っていることを確認して、百回本の展開史上における大きな意義を認めた。また、聖僧歴難簿の相違は、版本系統を分類する上でのメルクマールとしても有用であることを確認した。

 第二章では、世徳堂本の版本問題を論じた。金陵(南京)の唐氏世徳堂が万暦二十年に刊行した版として全て一律に扱われることが多かった現存四本の世徳堂本は、実際には互いに覆刻の関係にある二版に分けられることを確認し、その点を論じていた数少ない先行研究で見解が割れていた同版の三本の中での印刷の先後や、どちらの版がより万暦二十年序刊の世徳堂初刻本に近いのかを考察した。その結果、台湾故宮博物院蔵本、日光輪王寺慈眼堂天海蔵蔵本、天理大学附属天理図書館蔵本の順に印刷されている版は建陽の宏遠堂熊雲濵の手による覆刻本であり、広島市立中央図書館浅野文庫に後半五十回分を存するのみの版の方が、画工の署名が見えたり、俗字の使用頻度が低かったり、版心表記の乱れが少なかったりというより初刻本に近い特徴を持つことが分かった。それと同時に、浅野文庫蔵本には補版葉も多く含まれており、そうした葉においては却って熊雲濵覆世徳堂刊本に劣る場合があるために、現存最古の百回本テキストとして浅野文庫蔵本を利用する際には、補版葉を弁別していくことが重要となることを指摘した。

 第三章では、百回本『西遊記』の成立を検討する上では外せない資料である、世徳堂本の陳元之序の内容を正確に理解するために、先行研究で定説を見なかった、その中に見える「唐光禄」という人物が何者であるのかを考察した。その結果、陳元之序に見える唐光禄とは嘉隆間から万暦二十年代前半にかけて刻書活動を行っていたことが確認出来る世徳堂の初代主人と思しき唐廷仁(字国寿、号龍泉)であったことと、唐廷仁の後を承けて万暦二十年代末から天啓年間にかけて兄弟で世徳堂主人として活動していた唐晟(字伯成、号玉予)と唐㫤(字叔永、号貞予)の兄弟のうち、兄の唐晟も唐光禄と呼ばれていることが判明した。その上で、世徳堂主人が二代続けてそのように呼ばれている光禄とは、光禄寺の何らかの官職(この場合は南京光禄寺の下級職)に就いていたことから呼ばれたものであるらしいことを指摘した。

 第四章では、第一章において百回本展開史上の大きな意義を持つと認めた『李卓吾先生批評西遊記』(いわゆる李卓吾評本)の版本問題を論じ、従来は李卓吾評本として知られていた甲本・乙本・丙本という三種の版の中で最も劣る版本であるかのような扱いを受けていた丙本こそが、却って李卓吾評本の初刻本の版木そのものによる逓修本であることが判明した。丙本はもともとは万暦三十年代後半頃の刊行で、天啓五年に李卓吾の著作に対して禁令が出たのを契機に、大多数の葉の版心を削り取る処置を施されていた。一方、その処置を受けた後の丙本を底本として崇禎年間に刊行された翻刻本が従来この系統で最善という扱いを受けていた甲本であることや、従来は殆ど無批判に明刊本だという扱いを受けていた乙本には清刊本である可能性が存分にあることなどを明らかにした。また、この章の初出論文を読んだ研究者によって発見された新種の李卓吾評本について、新たに丁本として版本系統の枠組みに組み込むことを提案する補説を添えた。

 第五章では、陳元之序と並ぶ百回本成立史を考察する上での重要資料である盛於斯『休庵影語』「西遊記誤」条において、周王府から出た抄本に校訂を加え、百回本とするために新たに一回を加えて出版されたのが現行の百回本だと証言している周如山という人物が、金陵周氏大業堂という書坊の主人であるという説について検証した。大業堂は、現存最古の百回本『西遊記』を刊行した世徳堂から幾つかの章回小説の版木を継承して後印本を出版していたり、『西遊記』の李卓吾評乙本を印行していたりと、周如山との関連がなかったとしても、百回本『西遊記』の展開史上で見過ごせない位置付けにある書坊である。まず第一節では、大業堂や周如山について考察する前段階として、金陵唐氏世徳堂と同じ江西金谿を籍貫とする一族が営み、世徳堂としばしば共同出版を行うなど密接な業務提携を持っていた金陵周氏万巻楼の第一世代の経営者たちの活動状況を整理した。その上で第二節において周如山(名は文煒、字赤之、如山は号で時に字としても用いられる)が万巻楼の第一世代の経営者の一人である周庭槐の長子であり、崇禎十三年の進士にして盛於斯の親友でもあった周亮工の父でもあって、確かに大業堂主人として出版活動に従事していたことを確認し、その兄弟や子孫の刻書活動の状況についても考察を加えた。金陵で刻書活動を行っていた金谿周氏の中でも、周庭槐の家系は周王府のあった河南祥符に籍を移している。第三節では大業堂が実質的に万巻楼の後継書坊として機能していたことを確認し、如山周文煒の妻が周王府の分家筋の出身であることもおさえた。その上で、周亮工が父祖の刻書活動について述べた上で杭州の書坊が周氏刊本『万病回春』の海賊版を出版したことを非難している「重刻萬病回春原本序」を紹介し、非難されている杭州の書坊が汪氏蜩寄還読斎であることを明らかにした。

 第六章では清代に編まれた百回本『西遊記』の諸系統の版本問題を論じた。第五章で名のあがった汪氏蜩寄還読齋の主人汪淇は、百回本『西遊記』の第九回をいわゆる江流和尚故事に改変した汪象旭その人である。その汪象旭箋評本系の諸版本の位置付けを概観したほか、康熙中期に刊行されて清代の通行本となった陳士斌詮解本系の版本につき、これまで殆ど手つかずのままであった初刻本がどれかという問題を検討して、李卓吾評甲本の図の版木を流用している十行二十二字A本こそが現在知られる中で最もこの系統の初刻本に近い(そして初刻本そのものである可能性もある)ことを指摘した。

 第七章では、江戸時代の日本における事例は良く知られていたが、明清の中国における事例はあまり知られていなかった、離れた地域を活動拠点とする同族ではない書坊同士の間の連携の実態を考察した。その結果、従来は一律に海賊版であろうと片付けられがちであった覆刻という現象が、原刊本の版元は自分の刊本の流通圏から外れる地域からも利益を得ることが出来るし、覆刻本の版元は出版コストを抑えて商品を発売出来るということで、双方の了解の上で行われていたと看做すべき事例が、特に金陵の唐氏・周氏の書坊と建陽の余氏の書坊の間に多々認められることを指摘した。世徳堂刊本『西遊記』が建陽で覆刻されたというのもそうした動きの一環であったと思われ、百回本『西遊記』が万暦年間に瞬く間に広まった背景にはそのような当時の商業出版界の状況があったものと考えられる。その一方で、第五章でも触れた大業堂周亮工と蜩寄還読齋汪淇の間での海賊版の出版をめぐっての諍いのような事例もあり、百回本『西遊記』の本文に対して施された最も大きな改訂であった第九回の改変の裏に、そうした対立する書坊間の鞘当てがあったことを指摘した。

 最後に終章において、世徳堂本『西遊記』の陳元之序と盛於斯『休庵影語』「西遊記誤」条とについて再検証し、盛於斯の伝える周如山の言は、世徳堂の提携先書坊の主人にして周王府の分家筋の姻戚という立場にあった人物の証言として重視されるべきであるとともに、世徳堂初刻本そのものの刊行時の状況を伝えているであろうことを、陳元之序との叙述の整合性を根拠に指摘した。その上で、周如山が「周邸から出た抄本を刊行することになった際に、全百回にするために一回が増補された」と証言している点について、再び華陽洞天主人校本の聖僧歴難簿を利用して、西天取経の途上の話柄で唯一聖僧歴難簿に該当する難が見えない第三十六回が周如山の言う増補された回であり、世徳堂初刻本こそがその話を挿入した史上初めての百回本『西遊記』であることを論じた。万暦二十年に成ったばかりの百回本が万暦末には既に各地で大量の版種を生んでいた背景には、従来言われて来た書坊間の競争のみならず、第七章で確認した離れた地域の書坊間の連携があったものと思われる。