論文は18世紀のドイツにおける対位法の捉え方を、J. S. バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)の音楽受容との関わりにおいて検討するものである。全体は序論、7つの章、および結論によって構成される。序論ではバッハ受容と対位法それぞれの研究史を振り返り、バッハの対位法的な音楽が理解される際に音楽思想における対位法観がどのように作用したのか、という二つの研究領域の間隙にある問題がこれまで十分には検討されてこなかったことを指摘した。そして18世紀に公刊された音楽批評、理論書、辞典の読解を通じてこの問いに答えることを本論文の課題とした。

 第1章では予備的考察として、本論文が検討の対象とする18世紀に、ドイツ、イギリス、フランスで公刊された音楽辞典、百科事典における対位法の定義を取り上げた。まずこれらの辞書の定義間の影響関係を明らかにした上で、ドイツで出版されたヴァルター『音楽辞典』(1732)、ズルツァー『諸芸術の一般理論』(1771-1774)、コッホ『音楽辞典』(1802)における「対位法」、およびこれに関連する「調和/和声(Harmonie)」、「様式、書法(Styl, Schreibart)」の定義を比較検討した。ドイツ語で書かれた最初の重要な音楽辞典であるヴァルターの記述において、「対位法」は「作曲(Composition)」や「調和/和声」と非常に密接に捉えられていたのに対し、「様式」という語には対位法との関わりは認められなかった。ところが18世紀後半になると「様式、書法」の分類に際して、規則の遵守の度合い、さらにはフーガ的であるか否かといった尺度が導入されていった。ここには、18世紀前半には作曲行為と対位法の運用がかなり重複したものとして捉えられていたのに対し、時代が下るにつれて対位法が作曲の書法の一つという限定的な位置を占めることになるとともに、厳格さという性格を付与されていく過程が確認された。またヴァルターが対位法の定義を語源の「点対点」から説き起こしているのに対し、1770年代のズルツァーや1800年頃のコッホの記述では「点対点」に関する明確な記述はなく、その代わりに「旋律対旋律」という記述が前面に出てくるようになった。ここには多声音楽を捉えるにあたり、音程に関する事柄に主眼を置く数比的な考え方ではなく、旋律の重なり合いという側面を強調する対位法観が主流になっていったことが読み取れる。

 第2章では、ハイニヒェンの『作曲における通奏低音』(1728)を考察した。ルネサンスの人文主義やルター派神学の影響のもと、古代以来の感性(sensus)と理性(ratio)をめぐる対立が顕在化したのが18世紀初頭であった。ハイニヒェンは理性に対する聴覚の優位を主張する立場から、数学的音楽観に基づく対位法の操作を衒学的であると批判し、対位法規則からの逸脱を新たに「趣味」概念によって正当化しようと試みた。ただし他方でハイニヒェンは規則からの逸脱を慣習にならって「フィグーラ」として捉えてもいた。フィグーラ、趣味という伝統と革新をそれぞれ象徴する概念の使用は、ハイニヒェンの著作が新旧の音楽観の過渡期に置かれるものであることを示している。

 数学的音楽観の是非は1730年代に至ってもなお音楽理論家の関心の重要な部分を占めていた。第3章で検討したマッテゾンは、音楽における数学的思弁を「人為」、反対に、聴覚の快に訴えることを「自然」と位置づけた。マッテゾンにとって旋律は音楽における「自然」を確保するための重要な要素であった。自らの最初の著書『新設のオーケストラ』(1713)以来の数学的音楽観を批判する立場と、対位法理論を記述するという行為を仲介するものとして、『完全なる楽長』(1739)では旋律の重なり合いを意味するSymphoniurgie概念が重要な役割を果たしている。マッテゾンは対位法をSymphoniurgieという語で再定義することによって、旧来の数学的音楽観に拠らず、旋律の観点から多声音楽を説明したのである。ただし経験主義的思考が優勢となり、数学的音楽観の無力化が決定的な様相を帯び始めた1740年頃以降、晩年のバッハはそれ以前にもまして《フーガの技法》に代表される対位法楽曲を多く生み出し始めた。本論文では先行研究を渉猟し、バッハの創作の重心が同時代の趣味に合わせたギャラントな音楽ではなく、時流に逆行するようにして対位法による単一主題の楽曲へと向かっていったことを確認した。

 第4章で考察したマールプルクの批評は、まさにこの難解とされるバッハのフーガを主題としたものであった。マールプルクは1750年代初頭のイタリア人歌手フィナッツィとの間の国民様式をめぐる論争の中で、フーガはドイツ人作曲家が得意とするジャンルであるという主張を打ち立てたが、他方では『フーガ論』(1753, 1754)において、フーガの普遍性を提唱した。マールプルクにとってフーガのドイツ性と普遍性は矛盾しなかったが、これは彼が、どのドイツ人作曲家よりもドイツ的であるバッハこそがフーガの歴史の継承者たりうると考えていたためである。こうしてマールプルクは「ドイツ、フーガ、バッハ」の三つを結びつける批評のトポスを形成した。

 確かに上述のマールプルクの批評は「対位法の巨匠」というバッハ像を明確に提示するものではあったが、18世紀後半のバッハ受容は必ずしもこの延長線上に展開していったのではなかった。たとえば第5章で検討したバッハの弟子キルンベルガーは、ズルツァーをはじめとする同時代の芸術思想と共鳴しつつ、『純正作曲の技法』(1771, 1776-1779)の執筆を通じてバッハの作曲技法を後世に継承しようとした。このとき彼がいわゆる対位法的な側面にのみ光を当てるのではなく、バッハの作曲技法全般を四声書法として理論化しようと試みたことは注目すべき点である。キルンベルガーは作曲において、規則を遵守する「純正さ」のみならず、表現の「多様性」を重視した。これを達成する方法の一つとして、「調」ではなく「教会旋法」を積極的に選択することが推奨され、また彼が作曲の基本とした四声書法自体も和声付けの多様性を確保する枠組みと説明された。

 他方、第6章で取り上げたライヒャルトは、バッハのフーガと直接対峙し、批評を行った。ライヒャルトはゲーテの随筆「ドイツ建築について」に感銘を受けて、バッハのフーガに肯定的な意味でのゴシック性を読み取ろうとしたにもかかわらず、結果として生み出されたバッハ評価は限定的であった。ただしライヒャルトが同時代の文芸批評に感化されてパレストリーナをはじめとする過去のイタリアの教会音楽に関心を寄せていたことを考えに入れるならば、バッハ評は音楽批評における疾風怒濤思想の表明として肯定的に解釈可能である。またライヒャルトの影響のもとで19世紀のバッハ受容のいくつかの萌芽が形成されていたことも指摘されなければならない。

 バッハの鍵盤楽曲の多くは18世紀を通じて主に筆写譜によってヨーロッパ各地で受容されたが、1790年代に入るとバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を「作品」として保存する、すなわち印刷譜を出版する動きが現れた。この機運の中でバッハの作品をその「厳格書法」という特徴に着目して出版したのが、第7章で取り上げたネーゲリであった。『音楽講義』(1826)にある通り、ネーゲリは基本的に厳格書法を、自由書法と対置される過去の作曲技法と見なしていたが、楽譜シリーズ「厳格様式の音楽芸術作品」出版予告(1801)の中では、第一級の優れた作品であれば厳格書法による過去の音楽でも時代の流行を超越した崇高な価値を持ちうると主張している。このような考えからネーゲリは、他の優れた対位法作曲家の作品とともにバッハのフーガの出版を計画したのであった。ネーゲリの動機はレルシュタープやコールマンが1790年代に企図したバッハの作品出版の動機と共通点を有しており、バッハの「作品」保存、および厳格書法が纏う学識性への注目は、18世紀後半のバッハ理解の一つの到達地点と見なすことができる。

各章の議論を総括すると、まず対位法観に生じた変化として、18世紀前半に感性と理性の対立という伝統的な関心の中で論じられた対位法が、18世紀後半にはギャラント書法と厳格書法との対比において後者の側に置かれ、過去の、あるいは時代を超越する価値を有する音楽と密接に関わると見なされるようになったことを指摘できる。対位法への関心は筆写譜を通じた楽曲研究や理論書、批評の中で維持され、これが18世紀末のバッハの作品出版を準備する要素の一つとなった。またバッハの音楽の顕彰については、その作曲技法全般を18世紀後半の音楽にも適用可能な模範とする立場と、とりわけ対位法的側面に着目してこれを高く評価する立場の二通りがあった。特に19世紀以降の活発なバッハ受容の端緒である1800年頃の作品出版の動機となった後者の立場は、対位法を過去に由来する優れた書法とする、歴史意識を伴った18世紀後半の対位法観を端的に示している。本論文が行った以上の考察からは、18世紀を通じて対位法の捉え方は決して固定的ではなく、同時代の音楽美学的関心を反映して変遷したこと、そしてバッハの音楽がそのような対位法観との緊密な連携のもとで理解されていたことが明らかにされた。