本論文は、「宮中・府中関係」という観点から、明治立憲制の統治のあり方を考察するものである。

 大日本帝国憲法と皇室典範という二つの「法」(「典憲」)の成立によって、近代日本は明治立憲制という新たな歩みを始めることとなった。しかしながら、典憲の位置づけを如何に捉えるのかという明治立憲制にとっての根本的な問題は、具体的な運用の中で模索がなされる必要があった。

 典憲の運用をめぐっては、解釈の余地が大きく、状況に対応し得る弾力性を有する一方、争点化の可能性を秘めていた。全く異なる所管や権限を持った機関同士が自身の固有の領域を前提として提携・競合を演じるだけではなく、所管の重複もしくは権限関係の整理もしばしば紛議を生む。輔弼する機関、財源、それらに附随する法令や官制によって区分が行われるのみならず、むしろ両者を架橋する制度や人格という何かしらの結節点が要請される。運用を経る中で、各機関・勢力のみならず、個々の人々も、明治立憲制のあり方を模索すると共に、自身の役割を発見する。

 加えて、明治国家の統合の基軸である天皇・皇室制度を「立憲制」という秩序に定置して行くという、立憲制導入以前から取り組んできた課題も、立憲制が開始されることによって、より実質的な意味を帯びるようになる。明治立憲制という秩序がそれ自体として作動し始めると、天皇・皇室制度も対応を余儀なくされ、その過程において天皇・皇室制度も変容して行く。明治立憲制における天皇は、各機関の輔弼に従って裁可を行うことで国家の意思を創出する、まさに君主という制度であると共に、各輔弼機関の調整を行い得る素養や力量が要請される存在であった。天皇は、こうした新しい国家の立憲君主として、そして皇室の家長としての役割を果たさねばならなかった。

 こうした明治立憲制の特徴を踏まえた場合、その領域の位置づけが課題となったのは、宮中であった。本論文では、「宮中・府中関係」という、君主制である明治立憲制が発する問いを起点として、明治後期・大正期に天皇・皇室制度関係の法整備を担当した帝室制度調査局(明治32(1899)年設置、伊藤博文総裁)と帝室制度審議会(大正5(1916)年設置、伊東巳代治総裁)の活動に注目する。この二つの審議会が行った天皇・皇室制度をめぐる法制度の整備過程を中心に、「宮中」という言葉をめぐる解釈、宮中・府中間の権限の配分に関する議論などに注目することで、当該期における明治立憲制の統治のあり方への近接を試みる。

 上記の目的を達するため、本論文では、以下の三つの章で考察を行った。

 

 第一章「明治後期の宮中」では、典憲の制定から帝室制度調査局による公式令の制定までを論じた。

 典憲の規定に対応する必要から、天皇・皇室制度についても、典憲に即した天皇・皇室像に適合する新たな制度設計が要請される。特に、典憲の制定に尽力した井上毅の周辺では、典憲の規定に対応した秘書官・恩赦・請願などの仕組みが、実際の天皇・宮中とはやや遊離しながらも提示されていた。天皇・宮中も典憲の文脈の中にあるということが、立憲制導入直後に確認されたのである。

 明治32年に設置された、伊藤博文を総裁とする帝室制度調査局の活動の特徴は、皇室に関する事務をまずは法制度によって位置づけようとすることにあった。宮中と府中という二分法からは零れ落ちる曖昧な領域を、そうした存在であると承認し、立憲制という文脈で捉えることをめざした。公式令制定の目的は「皇室の令規」も「国家」に対して有効だと明確化することにあった。公式令の制定の過程からは、明治立憲制における「皇室の事務」の位置づけや宮中と府中の関係についての認識が、彼我を区別する第一に論じられるべき違いの一つとして存在したことが確認できる。宮中と府中の関係をめぐり、内閣が宮中を切り離すことで、具体的には国務大臣と宮内大臣とは異なるのだということを徹底させることで、内閣は存立の基礎を確認しようとする。このように、帝室制度調査局は、天皇・皇室制度関係の法制化を進め、天皇・宮中それ自体をも立憲制の文脈で解釈が可能となるように位置づけて行くと共に、公式令の制定によって、宮中と府中の関係における両者の間の曖昧な領域を現実のものとして受け入れ、宮中と府中とが協同して領域の劃定を行うよう求めたのである。

 

 第二章「大正前期の宮中」では、明治天皇の崩御と大正天皇の即位という代替わりの時間・空間における混乱について、宮中という言葉の解釈および宮中・府中関係という視点で分析を加えた。

 代替わりは、君主制に内在する大きな区切りである。崩御・即位という君主制の行事と府中の混乱とに伴い、天皇の「詔勅」が氾濫する。その時々に、それぞれが立場に応じて、「立憲」、「宮中・府中」、「挙国一致」などの観点から「詔勅」の解釈を行い、提示し合うことで、当事者たちの意図では、休戦の意匠として作用することを期待されていたにもかかわらず、天皇の言葉は思わぬ方向に作用した。議会において宮中問題を持ち出す有効性が、再発見されたのであった。すなわち、議会での尾崎行雄の発言に代表されるように、「詔勅」の争点化は、第三次桂内閣に対しては有効に機能した。ただし、府中側はその馴致と接し方に留意する局面が見られた。こうして、各機関・勢力間の調停手段としての君主は、選択肢として安全性を低減させることとなる。また、「詔勅」の争点化の背景には、「詔勅」に関して詔書・勅書という規定を設けた、公式令による「詔勅」の法制化が一因として作用していたと見ることができる。

 即位の大礼を掌る大礼使の官制を如何なる形式で定めるのかを論点とする大礼使官制問題においても、宮中と府中について議論がなされた。そこでは、府中を構成する内閣と議会が、宮中との関係や宮中と府中の位置づけをめぐる解釈を争っていたのが現状であった。宮中と府中という、言葉の上では截然たる区別があるように見える対概念の中に、実の所、明確に分けがたい領域があることが、即位の大礼を前にして、宮中と府中それぞれの人々に理解されていった。さらに、論争の中で提示された、「宮中」を「府中」と対置する概念ではなく、具体的な場所を意味すると捉える解釈は、臨時外交調査委員会の設置においても用いられた。

 また、帝室制度調査局の想定した国務と宮務の両者を相取り持つ存在としての内大臣が、実体的な制度として認識され、新たな役割が付与されてくる過程が、大正前期だとも言えよう。内大臣兼侍従長から首相となった桂太郎への批判の中で、内大臣の具体的な職掌が「詔勅」に関係すると言及されたことは、内大臣という制度の運用が意識される起点でもあった。そして、帝室制度審議会によって大正6年に制定された請願令は、国民と天皇を結ぶ結節点としての役割を内大臣に求めることとなる。

 

 第三章「大正後期の宮中」では、大正前期に続いて、宮中をめぐる論点が府中に跳出するという状況とそれへの対応を論じた。

 原敬内閣は、宮中問題の府中とりわけ議会での争点化を防ぐため、元老と政府という分有の論理を活用した。これに対して、宮中問題を論点としたい府中の勢力は、「宮中・府中の別」という截然とした区分の論理によって、首相の宮中関係の事案への関与を批判するだけではなかった。宮中某重大事件での犬養毅の言説に見られるように、公式令によって提示された、宮中と府中が相互に乗り入れて宮中の領域にも首相が関与するという輔弼のあり方、すなわち宮中・府中とが協同するという実質を捉えて、宮中問題での首相の関与と責任を問うという批判の論理を示していた。

 また、大正後期には、内閣は「栄典」の再編を企図していた。帝室制度審議会による位階令の審議は、この動きと同期する。明治立憲制における栄典の一つである位階は、その他の栄典とは異なり、内閣と宮内省との間での領域がやや曖昧であった。加藤高明内閣による「恩賞局」構想は、位階関係の所管をすべて内閣の領域へと移すことを企図するものと解され、宮内省側は反発する。内閣と宮内省を代表する形で参加していた各委員・御用掛たちが、位階令を審議する帝室制度審議会という場で、「奉宣」の解釈、勅令・皇室令といった法令形式などの論点を、内閣と宮内省の関係や憲法と典範の関係を視野に入れた形で討議していた。

 

 このように、帝室制度調査局の活動によって、宮中と府中の関係は、截然とした区分ではなく、両者の架橋を試みる路が開かれた。しかし、それは内閣や議会などで構成される府中において、宮中に関する論点を活性化させるものであった。内閣は、宮中との協力を行うと共に、府中とりわけ議会での宮中問題の争点化を抑制できるような議会運営を要請されていた。こうした統治のあり方からは、明治立憲制の根底に存在する天皇の定置化をめぐる争点が、立憲制の定着と連関しつつ、くり返し論議されていたことがあらためて読み取ることができる。

 さらに言えば、そうした議論の存在は、内閣や議会などの各機関が、法制度の構築と運用を通じて天皇・宮中と各々との関係を積み重ねていったことをも意味する。そして、この営みは、明治立憲制に限定されず、天皇・皇室が国家の統治のしくみから完全に自由ではない限り、継続を余儀なくされる。明治以降の日本において、宮中をめぐる問題は、争点化が限りなく抑制され、微弱であったとしても、時に現出し得るものとして、あり続けているのである。