オランダ領東インドにおける華人の経済活動 ―1900‐1930年のスマランを中心に―

工藤 裕子

オランダ領東インドでは、19世紀末以降に輸出志向経済が一層の進展をみせ、ジャワでは砂糖輸出を主軸にアジア域内との貿易が拡大し、同時に植民地の統治体制も強化されていった。本論文の目的は、移民系住民として扱われてきた華人がこうした社会経済的な変化にいかに対応し、植民地経済の中でどのような機能を有していたのかを明らかにすることである。また、砂糖などの一次産品の輸出地であり、かつ現地住民用の食糧や消費財の一大市場であったジャワにおいて、複数の国家権力や資本と関わりを持ち得る華人とアジア域内での貿易の関与を実証的に解明することにも主眼を置く。

 上記の関心に基づき、本論文では華人が扱ったモノ、貿易や流通に関する資金の流れ、国籍と越境性を手掛かりに、華人の貿易活動が活発だった中部ジャワのスマランを中心とした植民地内外での活動を多角的に検討する。全体を7章に分け、第1章と第2章で、本論文の舞台となるスマランの華人社会の成り立ちと特色を、19世紀末から20世紀初頭に生じた社会経済的な変化への華人エリート層の対応とともに解説した後に、続く第3章から第5章では、華人が取り扱った貿易品に焦点を当て、具体的な活動を流通網や資金的支援者の側面から検討する。第6章と第7章では金融と資金調達の視点から、1920年代以降の海外での活動とジャワ内の華人銀行について論じる。各章の論旨は以下のとおりである。

 第1章では、20世紀初頭のオランダ領東インドにおける華人運動に焦点を当て、スマランの華人社会の特徴を検討する。19世紀末まで華人の統治機構として機能していた公館は、各種請負制度の廃止に伴い権威を失い、儒教復興を掲げる中華会館や、清朝との連携の下に結成された中華商会へと華人社会のリーダーシップが移転したことが知られているが、スマランでは既存の福建系エリート層がこれら新組織を主導したことを、新旧組織の役員や親族関係から考察する。バタヴィアやスラバヤに比べて穏健だったスマランの華人運動は、中国やオランダ植民地政庁との双方ともバランスを保ちながら、植民地内における地位の向上を目指すものであり、その頂点にいたのが、アヘン徴税請負で経済力をつけ、製糖業などに進出したジャワ最大の華人企業家、黄仲涵であった。

 第2章では、華人が設立した株式会社について分析する。華人の伝統的な事業組織である公司から株式会社に移行する動きを企業設立データから数量的に検証し、地域ごとの事業の規模や内容の相違を示す。バタヴィアでは私領地を株式会社化する華人が多かったのに対して、スマランでは商業や貿易事業に大規模な投資を行う株式会社が顕著だったことが指摘される。これは、19世紀末以降に砂糖や米の貿易が拡大したことに伴い、華人が、ヨーロッパ資本からの信用力を高め、より大規模な貿易を行うためと考えられる。また、スマラン華人企業の多くは、少数の株主による一族事業であり、所有の不動産を株式会社の資本に転化した点を各企業の定款から明らかにする。

 第3章で取り上げるのは、19世紀末以降に日本からの商品輸入の先駆けとなった世界商品としてのマッチである。ジャワでは、日本とスウェーデンの二大製造国が激しい競合が繰り広げていたが、日本製マッチの輸入を手がけたのは、生産地の神戸や経由地の香港、海峡植民地などに拠点を有する華人であった。本章では、マッチの商標から華人の貿易事業者の解明を試み、以下の点を指摘する。日本製マッチの輸入業者には地域差がみられ、バタヴィアとスラバヤでは主に広東・客家系の華人が、スマランでは黄仲涵の商社部門がほぼ独占的に日本製マッチを取り扱い、独自の決済と流通のシステムを有していた。後に参入する日本資本は華人との提携を模索するが、現地での流通を支配する華人に商品選択のイニシアチブあった。日本製マッチは一時的に市場を独占しながらも1920年代にはほぼ姿を消すが、マッチの貿易により築かれた流通ルートはその後の綿製品輸入などに引き継がれていったことも示唆する。

 第4章では、主要輸出品であったジャワ糖の輸出について、資金調達の面からオランダ系金融機関やジャワ糖販売組織と華商との関係を検証する。特に1917年に発生した砂糖危機を契機に、それまでのオランダ資本との相互依存関係から、華人への資金供与制限へと移行した過程を論じ、砂糖販売のカルテル化に伴い、スマランでは自己資金力がある少数の大手有力者と小口の取引を行う中小事業者へと華商が二極化した過程を、ジャワ糖の買付量や銀行からの融資状況から裏付ける。また、1920年のジャワ糖輸出拡大期には、大手の華商も主要輸出先であった東アジア市場では、優位性は発揮できなかったことを数量的に指摘する。

 第5章は、オランダ領東インドにおける華人の法的地位や国籍問題にも影響を与えた台湾籍民の存在に着目する。台湾籍民は、日本の臣民籍を得た在外の台湾出身者のことであるが、オランダ領東インドでは1899年に日本人の法的地位がヨーロッパ人と同等に引き上げられたことで、福建系の華人らがその同質性を利用して、あえて台湾籍民となる動きがみられた。本章ではジャワの台湾籍民について、現地の華人社会に与えた影響と、台湾籍民が行った経済活動として台湾産の包種茶の輸入と流通、第一次世界大戦期前後から急速に強まった日本との相互利益関係の視点から論じ、華人にとってオランダや中国に代わる、新たな支援者として日本の存在が浮上し、植民地経済から自立した独自の流通圏を形成したことを示す。

 第6章では、スマランの大手華商の対外的な活動と金融業への傾倒について考察する。1920年代以降にスマランを離れた2人の華人を事例として、中国との関係を論じる。ジャワからの移転要因は、戦争利益税の負担や、華人に対するジャワ糖取引の厳格化などにより、オランダ領東インドでの事業環境が悪化したことが挙げられる。移転先の中国では、出身地である廈門周辺の事業にとどまらず、上海での銀行業や香港での精糖業などに規模を拡大し、オランダ領東インドで蓄積した資本を中国での投資事業に充当した。特に金融面では、域内華人との提携が急速に広がったことを特徴として指摘する。

 第7章では、スマランで設立された2つの華人銀行の分析と、ジャワ銀行との提携関係を通じて、華人の経済活動の中で果たした両行の役割と、華人の資金調達の問題を検討する。一族の複合事業の金融機関として機能した閉鎖的な黄仲涵銀行と、ジャワ銀行から資金的な支援を受けて地元華人に資金を供給する役割を担った馬森泉銀行の2行の経営内容をそれぞれの財務報告から分析する。後者は1927年に破綻するが、1920年代初期の輸入拡大期においては華人によるアジア製品の流入を資金面で支え、中部ジャワにおける流通の円滑化を支える機能を有した。1920年代半ば以降、華人を取り巻く経済環境が悪化する中で、2行はより大資本の華人銀行の設立を目指すが、これは華人自身が資金調達力を高める動きと捉えることができる。

 以上の各章を通じた結論として、植民地経済の中で華人の活動の変化を次のように要約することができる。スマランでは、土地所有などの資産蓄積や、株式会社化などの近代的制度の取り入れ、砂糖の生産と貿易量の拡大と後背地の巨大な市場を背景に、20世紀初頭から福建系の富裕層を中心に貿易業への参入が進み、ヨーロッパ資本との相互依存関係を深めた。しかし、第一次世界大戦期を境に華人への信用は収縮し、1920年代以降の貿易活動は大きな制約を受けた。また台湾産包種茶などにみられた華人の自立的な貿易も植民地経済に包摂されていった。海外への移転や華人銀行の設立は、こうした制約に対する反動であった。

 

 アジア域内の交易圏における華人の位置づけについては、一次産品の輸出ではオランダ系銀行からの資金的な支援を受けてアジア市場向け輸出業に参入が可能となったものの、第一次世界大戦後には英領インドや中国向けの輸出を担う一部の大手華商と海峡植民地などの小口の輸出業者へと二極化したことが指摘できる。ただし、1920年代半ばの中国砂糖市場の拡大期では、日本商社の参入などにより大手華商も優位性は発揮できず、中国ではむしろ投資事業の機会を模索した。一方、消費財や嗜好品の輸入では、華人はジャワでの市場拡大に伴い、ヨーロッパ製品の代替品として安価で現地社会の嗜好に合わせたアジア製品をもたらした。ジャワ内の流通網を掌握していたために、特に中国と台湾、日本などの東アジアからの商品輸入については、華人が優位性を維持し、これは日本の流通網がジャワ内陸部にまで浸透する1920年代後期まで続いた。

 このような経済活動を行う上で、華人は居住地の宗主国であるオランダ、台湾を植民地化し南進政策を取る日本、故地としての中国という3つの国と、それぞれの利害のもとに関わりを持った。複数の国家的制度の枠組みのはざまにいた華人は、その時々の保護者と手をつながざるを得ず、完全にひとつの枠組みに収まることはなかった。その結果、華人の取引は、短期的であり、状況に応じて可変的でもあり、また絶えずリスクを分散させるために移動性が高いものとなった。それゆえに、華人の経済活動は貿易品ごとにいくつもの流通圏が重なり合い、その規模や範囲も保護者との関係により変化したと考えられる。

 

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