日本の社会学における家研究は1920年代に始まり、そのピークを作った学者達の死により1980年代はじめに一区切りをつけたが、その後に現れた新しい理論である近代家族論および家=株論は、過去の家研究をひとくくりに、「非政治的」なものとして自分たちの「政治的」な研究と対照的に捉えている。

 家と政治の関係は振り返ってみれば、日本では古く遡ることのできるトピックであった。遅くとも鎌倉時代の『愚管抄』以降、家は政治の基軸をなすものとして語られ続けてきた。近代になっても民法典論争において争われたように、家は国家や政治と深く結びついて語られてきた。新しい家の理論が正しいとすれば、社会学における家の理論は、家族国家観が盛んに語られた戦前においても、「非政治的」なものだったのだろうか。

ここから本論の課題が生じる。すなわち、第一に問われるべきは、本当に社会学における家理論は、戦前期においても「非政治的」であったのかどうかということである。

第二に問われるべきは、こうした理解―戦前期の議論を戦後の議論とともに「非政治的」であると評価すること―がいつ、どのようにして生まれたものなのかということである。社会学における家理論が、その誕生の時からずっと「非政治的」であったというのは、新しい理論が自らの議論の新しさを強調するためにそう主張したのか、あるいはそれ以前から、そのような観方が存在したのかを確認しなければならない。

 そして第三に問われるべきは、社会学における家理論が、戦後のものばかりでなく、戦前に展開されたものもまた非政治的であったという学説史的理解が形成されるのに大きな影響を与えた要因としては何が考えられるのかということである。

 このような問いに答えるためには、政治そのもの、そして家を議論するということと、政治ということの関係をしっかりと捉えておかなければならない。

 以下、本論では政治とは国家の統治にかかわる事項を指すこととする。また、本論の対象とする五人の社会学者、戸田貞三、鈴木栄太郎、有賀喜左衛門、喜多野清一、中野卓が家を語るそれぞれの議論の中に、こうした意味での政治を探すという作業にとどまらず、各論者がそもそも人と人、人と集団や集団同士の関係についてどのようなイメージを持っているのかという社会像を基礎として、政治に対してどのような構えや態度を取っているのかという政治観を探ることをもって上記の三つの課題に答えて行く。

 戸田の家族論、とりわけ家長的家族の議論から明らかになる社会像は、精神的融合を軸とするものであった。家族が精神的融合の範囲にとどまり、それがゆえに小家族とならざるを得ないのと同様に、戸田の捉える社会もまた、その範囲は極めて狭いものであった。精神的融合を作り出すことのできる家族が唯一社会的関係の成り立つ世界であり、家族の外の世界は食うか食われるかの非社会的世界なのである。

 こうしたそれぞれの狭い社会を統合するのは、上位の権力の支配によるのであり、戸田の考える社会においては、すべての個人や集団はより公のものを重視することにより、上位の権力に抵抗することなく従うものとされているのである。戸田は集団を個人へと還元することにより、国家以外の集団について、個人を超えた集団としての存在を認めないので、それぞれの集団のとる姿はその時々の国家の与える諸条件によることになる。こうした見方は家や家族などのあり方を捉える際の柔軟な見方を可能にするとともに、国家の支配に対する従属をもたらすことになるのである。

 鈴木が考える社会像は、平等という価値に基づいている。そして平等という価値を重視するがゆえに、鈴木は当時の民法における家督相続の規定に反対し、嫡男の総取りをやめて他の兄弟姉妹にも一定の権利を認めるべきことを主張した。そしてその平等は村の生活においては、政治的権利、公民権としての平等として主張された。

鈴木による平等の主張は、政治に参加する条件としての平等というよりも、政治に参加することによって平等を獲得するという色彩が強くなっている。これはある段階までは旧来の不平等の下で、支配されていた人々が政治的参加によって平等を獲得するという機能を果たしたであろう。しかし、それがある限界を超えると、人々に平等な参加を強いるようになり、過剰な参加は体制への包摂を意味するようになったのである。

 有賀は統治権力およびその作用のことを「公法的」と呼んでいる。家は公法的なものから区別して考えられているのだが、それは全くの無干渉・無関係という意味ではない。有賀は家を形成する社会関係の中核として親方子方関係を重視しているが、その成立の端緒として有賀が考えていたのは、公領を押領して私領とすることであった。すなわち、家は「公法的」なものとの対抗によって生み出されたというのである。

 有賀の理解する家とは直接的に統治権力と関わるものではないのだが、家に属する人々を自然災害や政治権力の荒波から守るための防波堤として捉えられていた。その限りで、むしろ政治と深い関係を持つものだったのである。

 このように、戦前の家理論は決して「非政治的」なものではなかった。(第一の課題への答え)

 政治と密接な関係を持っていた戦前の家理論が、「非政治的」なものとして理解されるようになったのは、それぞれの議論を展開していた論者たちの弟子たちによってであった。(第二の問いへの答え)

 喜多野と中野がそれぞれ戸田理論について、本質論と構成論という『家族構成』の内容にのみよる叙述を行ったために、戸田理論が狭く捉えられ、その政治性を見失った理解が強化された。

 喜多野は鈴木理論の特徴をもっぱら理論の中で語り、その背景にある実践的意図については全く考慮しなかった。鈴木が戸田が集団として家族を捉えることを批判し、家や村に存在する「統合性」を精神や規範と呼ぶことに込めた、平等を獲得するための政治参加については問うことがなかったのである。こうした観点を受け継いだ学説史は、鈴木の家理論の観念性を、一般の家・家族論に対して特異なものとしてのみ理解することになった。

 有賀喜左衛門の家理論が戦前の議論をも含めて「非政治的」であると理解されるようになった一つの大きな原因は、有賀・喜多野論争によってであると思われる。有賀の議論は有賀・喜多野論争というフィルタを通ることによって、非親族成員を家の固有の成員と認めるのか、それとも「擬制」として認めるにすぎないのかという、親族論という視角から理解されることとなった。

 喜多野や中野による先人達の議論の「非政治化」は、彼ら自身の議論が「非政治的」であることによっても強化された。(第三の問いへの答え)

 喜多野が同族関係を具体的な支配の関係とは独立のものとすることは、戦後改革による厳しい批判から同族関係、ひいては家というものを守ることを意味した。その過程で喜多野は、支配の持つ具体的な歴史的関係を家と同族から排除する理論化を行い、家と同族を親族関係と理解する道を開いた。こうして家とは、具体的な歴史を捨象して、ただ続いているということを価値とするものとして受け止められることとなった。

 中野にとっての家の本質とは、主家家族と奉公人との心と心のふれ合いであり、戸田の家族本質論と精神的融合という意味では同一であった。こうした親密な関係を保証する領域を明らかにすることこそが社会学の役割であるとして、中野は生活の領域を重視する。しかし、有賀が上位権力の支配に対して家の成員の生活保障の領域を作り出すことに注目するのに対して、中野はこうした領域を所与のものとして捉え、そのあり方や質、すなわち政治と切り離された生活を問題としてきたのである。

 喜多野や中野の理論の形成には戦後の社会のあり方が大きな影響を与えていたと思われる。1960年代から70年代にかけて、日本では政治とは利権の分配争いであると捉えられ、エコノミック・アニマルと言われるような、政治とは無縁な経済活動が盛んである一方で、一億総中流と言われるような形での平等が実現していた。そこでは、統治としての政治によって作られた、「家庭」と言われるプライベートな親密空間としての「生活」が、それを作り出した政治とは無縁なものとして謳歌されていた。

 この時代、一方では喜多野が政治的・歴史的要素を排除する家理論を形成するとともに、中野は喜多野に対抗しながらも、喜多野によって政治的・歴史的要素が排除された場を「生活」で埋める理論を形作っていた。彼らの家の理論には戦前に戸田が展開したような、素朴に政治に追従してしまうような議論もなければ、鈴木のように積極的に政治に参加する主張も見られなかった。また、有賀のように権力の圧力から自律した領域を作り出すという意味での政治の領域も顧みられることはなかった。そして、こうした理論を色眼鏡として、過去の議論を振り返ることが行われるようになったのである。(第三の問いへの答え)