近代日本の「国家イデオロギー」、いわば「正統(orthodoxy)」とはいかなるものだったのか。近代を生きた人々の言葉から浮かび上がってくるのは、それが存在しつつ不在であるという奇妙な性格のものだった、ということである。このような「正統」の成立背景の一端を、前近代にまで遡って明らかにすることが本研究の大きな目的である。

 近代日本の「正統」は、時に「国家神道」という一つの宗教として説明される。現在の国家神道に関する研究は、いわゆる「広義の国家神道」論が「狭義の国家神道」論の批判にさらされ、存立が難しくなっているという状況にある。しかしそこでは「広義の国家神道」論が有していた「イデオロギー」への問いが主題化されないという問題がある。そこで本研究では、「国家神道」の「イデオロギー」の領域とされてきたものを「日本神学」という概念によって取り出し、その歴史的形成過程と「神道」との関係を考察するという方法をとる。「日本神学」とは日本国家や日本人の「本来性」について語り、その回復を主張する言説を意味する。その本来性の中核は皇統の無窮性にあるとされる。日本神学を「言説」としてとらえることで、その形成過程を明確にたどることができ、またイデオロギー論とは異なり、多様で複雑な文脈に即して対象を理解することが可能となる。

 しかし日本神学に該当する事例は膨大な数にのぼる。そこで本研究では対象を絞りこむため、『神皇正統記』(以下『正統記』と略す)の受容史という問題を取り上げる。南朝方の公卿・北畠親房が延元4(1339)年に執筆した『正統記』は(興国4〈1343〉年改稿)、日本神学を明確に言説化したテクストであり、近代に至るまで日本神学の典拠として扱われてきた。『正統記』の受容史はこれまで後世の人々による「精神」の継承という視点に規定されてきたが、本研究は各解釈の間にある断絶に着目するという立場をとる。

 第1章ではまず予備的考察として『神皇正統記』を取り上げ、その言説構造について分析を行う。これまでの研究で中世神話や中世神道、とりわけ神国思想の登場として語られてきたことは、日本の本来性に関する言説の出現としてとらえ直すことができる。特に南北朝時代の皇統の分立という状況が本来性の明確な言説化をうながし、『正統記』の出現に至ったのである。

 本章では『正統記』の言説構造、とりわけ様々な面に見られる両義性に着目する。かかる両義性が『正統記』に関する多様な解釈を可能にしているからである。『正統記』の日本神学と応報史観が組み合わさることで『正統記』独特の「正統」論が生まれる。それは君徳を有する天皇の血統が「正統」になるという言説であり、それにより南朝の正統性を立証するという目的があったと推測される。しかしそれは北朝が「正統」となる可能性を排除できず、『正統記』の言説構造は不安定さをはらんでいたのである。

 第2章では近世前中期における『正統記』の受容史を取り上げた。近世日本は様々な宗教が競合しつつ多元的に共存する社会であったが、そこで『正統記』は主として史書と神書という二つの側面から受容された。具体的な受容の例としてはまず林羅山を取り上げ、羅山によって摂取された日本神学が儒家神道の基本的枠組みとなったことを明らかにする。また、山鹿素行が『正統記』の日本神学だけでなく、「正統」論も受容していた可能性を示す。素行はそれを近世の二元的な王権のあり方を説明するために用いたのである。新井白石の『読史余論』で『正統記』が度々引用されていることはよく知られているが、白石は『正統記』の史書的側面しか受容していない。それは白石の神典解釈の方法論によるものだが、一方で白石は日本神学も共有しており、二元的王権を肯定する言辞も残している。皇室が君徳を失った結果事実上の易姓革命が起こり、武家政権が成立したという解釈が素行や白石には共通して見られる。近世前中期までは『正統記』もそのような枠組みのもとで受容されえたのだった。

 第3章では闇斎学派の南朝正統論の問題を取り上げる。山崎闇斎は、日本でも「神道」という形で朱子学に相当する「道」が実践されてきた結果、皇統が守られたと考え、また天皇自身も「道」の担い手だったと見なした。そうした立場からは武家政権の成立をある種の「革命」と見なす解釈は容認できず、南北朝時代の問題は一つのアポリアとなった。『倭鑑』目録からは、闇斎がそのアポリアを神器正統論によって克服しようとしていたことがわかる。闇斎直門の浅見絅斎や佐藤直方らは神器正統論を排除したが、第三世代の門弟の間ではむしろ神器正統論が興隆していく。本章ではそこから歴史主義の興隆という知の布置の変動を明るみに出す。

 第4章では闇斎学派における神道の問題をさらに掘り下げるため、絅斎の弟子の若林強斎を取り上げる。強斎は『正統記』でいう「神皇正統」を学問の準拠としているため、『正統記』受容史の一環として扱ってもよいだろう。これまでの研究では、強斎は朱子学から神道へと回帰した人物として位置付けられてきた。しかし実際に強斎の思想をたどってみると、むしろ神道を「日本固有の道」としての「神道」と同一視することにより、朱子学の実践を正当化しようとしていたことがわかる。それは神道に傾倒していったと見なされてきた享保9年以降でも変わらない。しかし強斎は次第に日本中心主義に陥っていき、また晩年には自身の「罪」をめぐる問題に直面することになる。

 第5章では前期水戸学における神器論争について論じる。前期水戸学の三大特筆の一つである南朝正統論は、神器正統論によって根拠づけられていた。それを決定したのは徳川光圀だったが、神器正統論の解釈をめぐって彰考館の史官の間では議論が戦わされていた。神器正統論の推進派は闇斎学派の栗山潜鋒であり、潜鋒は皇室復興を目指すという自身の政治実践との連関で、神器正統論により天皇の正統性を確かなものにしようとしていたのである。潜鋒を批判した三宅観瀾も闇斎学派であり、従来は儒学派といわれてきたが、実際には考証主義的な視点から『正統記』や垂加派の教説を批判し、それを超える神道論を提示していたことが明らかになる。

 第6章ではこれまでの議論をまとめ、その後の考察につなげるため、17世紀末から18世紀初頭を境に起きた知の布置の変動について説明する。それは歴史主義の興隆とでもいうべき変化であった。歴史主義という知は、真理の歴史化、方法としての考証主義、「政治的なもの」の発見、日本の本来性の浮上といった要素から成り立っている。この変化を示す具体例として、まず垂加派における『古事記』研究を取り上げ、「付会」的な研究から考証主義的方法へと移行していく過程を示す。次に、徂徠学派による神道批判以降の「神道」概念の再構築も取り上げる。徂徠学派の批判により旧来の神道教説は存立が難しくなり、新たな「神道」を求める潮流はやがて宣長に至るが、同時にその潮流は神書としての『正統記』の命脈を断つことにもなるのである。

 第7章では後期水戸学における国学批判と『正統記』受容との関係について論じる。後期水戸学の出発点たる幽谷は、幕藩制国家の危機に対処すべく「国体」を重視し、『正統記』をその典拠として再解釈する一方、国学を批判した。「国体」の書としての『正統記』の重視と国学批判という組み合わせは、会沢正志斎や藤田東湖といった幽谷の弟子たちに受け継がれる。正志斎は宣長の非政治性を批判し、考証主義と「道」との矛盾があることを指摘して、「国体」による明確な規範を示そうとした。他方、東湖も同様に国学の考証主義と「道」の矛盾を批判したが、正志斎とは異なり、「神道」概念の再構築を摂取して「斯道」という概念による新たな神儒一致論を提示した。

 第8章では明治期における『正統記』の受容史について考察する。慶応2(1866)年に刊行された川喜多真彦の『評註校正神皇正統記』を起点として、明治期に入ると数多くの刊本や注釈書が刊行されるようになる。とりわけ明治20年代以降、近代国語教育の確立に対応して出版された刊本・注釈書を手掛けたのは、考証派を中心とする明治国学の人々だった。彼らの解釈の特徴は、「国体」の書という後期水戸学以来の解釈を引継ぎつつ、明治15(1882)年を転機とする教学分離を背景に、日本神学と『正統記』の「宗教性」を分離するということにある。それは、明治国学者と密接に関わっていた井上毅の『正統記』解釈とも共通する。「神道」から分離された日本神学は、井上が関与した大日本帝国憲法や教育勅語にも生かされたのである。

 以上のように『正統記』受容史をたどってきた結果明らかになるのは、近代における「国体」の書としての『正統記』の復権は、近世における知の集積の上に成り立っていたということである。『正統記』は元来多様な解釈が可能なテクストであったが、それは歴史主義の興隆という知の布置の変動と社会状況の変化を経て、「国体」の書として再定義されることにより、近代国民国家としての日本に適合的なものとなったのだった。それは同時に近代日本にはそぐわない『正統記』の側面を切り落とすことでもあった。

 一方で歴史主義の興隆は日本神学の解釈をも変化させた。歴史主義は普遍的理法に還元できない日本の本来性に目を向けさせ、そこから国学も形成される。しかしそれは他面で国学における考証主義と「宗教的」な「道」との矛盾を生じさせる。そこで後期水戸学と明治国学の人々、そして井上毅が共通してとった解決策は、「宗教的」な「道」と「国体」にもとづく倫理との分離、いいかえれば「神道」からの日本神学の分離であったのである。