本論文が検討したのは,フランスの社会学者,エミール・デュルケム(1858-1917)の近代社会構想である.

 第1章では,デュルケムの社会学をその近代社会構想という観点から検討する意義を提示した.デュルケムの近代社会構想を検討するに際し,本論文が主たる対象としたのは,『社会分業論』や『社会学講義』といったデュルケムの学説の展開における前期のテキストである.これらのテキストにおいてデュルケムは,同時代のヨーロッパ社会を病理的な状態にあると診断した上で,その克服に向けた社会構想を提示している.しかし,この前期のデュルケムが提示した社会構想は,必ずしもその独自の理論的意義を認められてこなかった.というもの既存のデュルケム研究においては,『宗教生活の原初形態』に代表される後期の学説に力点を置き,その萌芽を前期のテキストに指摘する,というパーソンズが『社会的行為の構造』で設定した解釈枠組みが,今もなお影響を持っているからである.本論文では,1970年代に始まるデュルケム・ルネサンス以降の研究が,デュルケム社会学の個別的な主題に関する検討を進めると同時に,社会史的・思想史的な知見に依拠した新たなデュルケム像の提示を行う一方で,パーソンズの設定したデュルケム理解の枠組みを相対化する課題が残されている点を指摘した.

 第2章では,このパーソンズが設定したデュルケム解釈の枠組みの偏りを,デュルケムのテキストとの対照を通じ,明確化した.パーソンズはそのデュルケム論において,『社会分業論』での機械的連帯の重要性や有機的連帯の道徳的基礎を示唆し,デュルケムの近代社会論の根底に道徳への関心を指摘している.この指摘に基づきパーソンズは,有機的連帯における「契約における非契約的要素」とは,『自殺論』での人格崇拝論を意味しているとの理解を提示している.本論文では,前期のデュルケムの学説につき,宗教を典型例とする価値の共有といった側面をパーソンズが強調する根拠は,デュルケムのテキストではなく,パーソンズ自身の理論的な判断に存する点を明らかにした.

 第3章では,デュルケムの近代社会構想の背後に存在する規範的な問題意識を明らかにすべく,『社会分業論』へ至るデュルケムの知的変遷を検討した.具体的には社会主義の特徴づけを巡るシェフレの議論の受容に着目し,『社会分業論』に際してデュルケムが抱いていた問題関心には,国家による上からの介入や共同体への回帰に拠らずして,近代社会に内在的な統合のメカニズムにより社会解体的な傾向を抑制する可能性を示すこと,という,デュルケム自身の思想的な問題意識が存在する点を明らかにした.

 第4章では,『社会分業論』の理論枠組みを明らかにすべく,道徳という『社会分業論』の鍵となる用語に対し,デュルケム自身が与えている意味を検討した.具体的には『社会分業論』の再版に際して削除されたその序論に着目し,デュルケムが道徳の機能として念頭においている特徴とは,社会の構成員が自らのことのみを考えるのではなく,他人のことを考慮するよう導き,社会の調和的な統合を可能とするメカニズムである点を明らかにした.道徳の特徴づけにつき,このような機能的な視点を採ることで,集合意識を共有すべき,という道徳観と,分業は道徳としての意義を持っているのか,という問いとを,同一の平面で論じることが可能となるのである.

 第5章では,『社会分業論』でデュルケムが展開した有機的連帯論の内容を論じた.『社会分業論』にてデュルケムが新たに提示した有機的連帯という社会統合の概念の特徴は,集合意識に基づく機械的連帯とは異なり,社会的分化と個々人の自由を許容している点に存する.しかし社会統合の概念である以上,有機的連帯は個々人の自己利益にのみ基づく経済的な関係から区別されるべきであり,その基礎となる契約関係も当事者間の合意に還元はできない性質を持っている,とデュルケムは考える.このデュルケムの指摘をパーソンズは,「契約における非契約的要素」と定式化したのであるが,しかし「契約における非契約的要素」とは具体的に何を指しているのか.本論文は,「契約における非契約要素」とは契約法である,との解釈を提示した.デュルケムによれば契約法の役割とは,契約当事者間の権利義務を定め,有機的連帯の安定を可能にする,という法の執行に関わる側面のみに限られない.契約法は契約当事者に対し,当事者間で合意が成立したとしても,その合意が契約として法的保護を受けるためには,法により定められた条件,すなわち合意の形成過程において強制が存在してはならない,という条件を満たす必要がある,との規整を通じて,契約関係における調和の維持という積極的な役割をも果たしているのである.この契約法による規整こそ,分業に基づく社会関係において,相対的な強者の自己主張を抑制させ,相対的な弱者の自由を保障し,有機的連帯において社会統合と個々人の自由を両立させ,調和的な協働を可能にするためのメカニズムなのである.

 第6章では,有機的連帯という概念の提示を通じ,デュルケムが実現を試みた社会統合のあり方を特定した.具体的には,デュルケムの同時代認識が伺える『社会分業論』の第3部に着目し,有機的連帯を可能とする社会的規整の特質を検討した.19世紀末のヨーロッパ社会につきデュルケムは,諸機能間の協働関係を定める均衡の条件が定められておらず,労使の対立といった病理的な現象が生じているとの診断を下している.その原因としてデュルケムが考えているのは,労使の分業関係に強制の契機が介在しており,当事者間の自由な合意,契約内容の自発的な履行が損なわれている実態である.従って社会的規整が担うべきなのは,契約当事者間の不均衡な関係を是正し,分業の関係から強制の契機を排除する役割なのであり,有機的連帯とは協働関係における相対的に弱い立場の側の自発性を保障した上で成立する社会統合のあり方なのである.

 第7章では,デュルケムがなぜ,職能団体論という別の近代社会構想を提示するに至ったのか,その背景を明らかにすべく,『社会分業論』以降のデュルケムの知的変遷を検討した.実のところデュルケムは『社会分業論』の公刊直後から有機的連帯論につき,理論的に不十分な点を自ら認めている.まず有機的連帯論では契約法による規整に期待が向けられていたが,当時のフランス民法学の通説的な解釈では,このデュルケムの理解は異端的であった.次に,『社会分業論』においては,分業の展開と安定的な社会統合とを両立させるために必要となる社会的規整は,諸機能間の継続的な相互関係から自然と形成されると主張されていたが,『社会分業論』の第2版の序文においては,デュルケム自らが明示的にこの発想を批判している.最後に,『社会分業論』においては,事実として拡大を続けている国家の役割を,個々人の自由と社会統合との調和という自らの近代社会構想に照らし合わせてどう評価すべきか,その態度をデュルケムは明確にしておらず,結果として国家の位置づけが不明確であった.ただし職能団体論においても,社会関係における不均衡を見据えた上で,相対的に弱い立場の人々に実質的な自由を保障するための条件を追求するという『社会分業論』での問題意識は一貫している.本論文では,職能団体論をデュルケムが導入したのは,『社会分業論』からの問題意識を引き継ぎつつ,先の3つの有機的連帯論の難点を克服するのが目的であった点を明らかにした.

 第8章では,デュルケムが新たに提示した近代社会構想である職能団体論の内容を論じた.職能団体概念の導入によりデュルケムは,『社会分業論』では適切に概念化できていなかった近代社会における国家と経済活動との関係につき,国家に対して一定の自律性を保った職能団体を社会的規整の執行主体と明確化し,国家による直接的な規整に頼ることなく,分化を続ける経済活動を実効的に規整する枠組みの提示に成功している.次に使用者に対して相対的に不利な立場に置かれている労働者の実質的な自由の保障については,職能団体の内部構成の工夫により,労働者の側の自由な意思形成を保障した上で,職能団体を通じて,労働者が直接的に社会生活へと参与しうる仕組みをデュルケムは提案している.しかし職能団体論では有機的連帯論とは異なり,国家や職能団体といった具体的な集団を積極的な存在として位置づけているため,その近代社会構想の内部に個々人の自由を脅かしうる要素が含まれることになった.『社会分業論』では,社会の規模の拡大と個々人の自由の伸長とが,機械的連帯の弱体化を媒介として直接的に結びつけられていたのに対し,職能団体論では,社会の規模の拡大は,その内部に二次的諸集団という小規模な社会を成立させる余地を開くため,集団による個々人の自由の抑圧の可能性がなおも存在しうるのである.本論文では,集団による抑圧に対して,個々人の自由という価値を保障するための制度としてデュルケムが提案するのが,職能団体を公的に制度化し,国家と職能団体との拮抗関係を法的に形成する構想である点を明らかにした.国家と二次的諸集団との複合的な組織化として政治社会を把握するこの視点によりデュルケムは,近代社会において国家の担う役割が拡大している現実を踏まえた上で,職能団体の制度化により,国家権力を抑制し,個々人の自由を実効的に保障する理論的な枠組みを獲得したのである.

 デュルケムの近代社会構想の意義とは,個々人の自由と社会統合との両立という思想的な課題に対し,近代社会の現実の中で応答する道筋を示した点に求められるのである.