中国農村における社区福利の成立と供給構造に関する研究

張 継元

本論は理論編、歴史編と実証編の三部から構成されている。

第一部の理論編は本論の研究背景と分析視角について検討した。第一章では、本論の研究背景とする未富先老の特徴、課題とその対策を検討した。未富先老は中国のような発展途上に高齢化してしまうことをさし、1980年代に中国に産まれた概念である。政府と社会に高齢化の深刻さを警告する役割が期待されていた。2000年代に入り、中国経済の著しい発展と社会保障制度の遅れに対し、中国が本当に未富先老なのか、中国の高齢化の本質的な問題は富の問題ではなく、再分配の不公平にあるという主張が出現し、未富先老論争が起きた。論争の結果、中国においては未富先老が依然として存在し、特に農村においては顕著であることを再確認し、社会保障制度の未整備も重要な側面であることを強調するようになった。このような課題に対処するために、中国は社区福利を拠り所とする高齢者ケアシステムの国家戦略に乗り出した。

第二章では、中国における福祉ミックスの議論を整理し、従来の福祉ミックス論の問題点を指摘し、本論の分析視角を提示した。中国における最初の福祉ミックスの議論は欧米の福祉ミックス論(福祉多元主義)に依拠せず、自国の文脈で資源論や養老モデル研究が展開されていた。しかし、徐々に欧米の福祉ミックス論と合流し、中国型の福祉社会についても議論されるようになってきた。中国に限らず、従来の福祉ミックス論は供給主体の多元化を主なテーマとして、公私二元モデルから公私協三元モデル、官(政府)・民(市場)・協(市民社会)・私(家族)四元モデルへ発展してきた。供給手段についての議論は現金給付と現物給付にとどまり、規制という供給手段が軽視されてきた。しかし、福祉国家危機以降、政府の役割が供給者から規制者へと変容してきたことに伴って、規制という福祉供給手段が重要視されるようになってきた。だが、規制の主体は政府に限定して検討されてきた。本論は規制の社会学的な定義に基づき、福祉供給の四主体と三手段による福祉ミックスの分析枠組みを提示し、規制は政府に限った供給手段ではなく、民・協・私セクターにも用いうる手段であると主張する。

第Ⅱ部の歴史編では中国における社区福利と農村福祉政策の発展の合流として農村の社区福利が成立する過程を検討する。第三章では、都市と農村の社区の変遷をたどり、社区の概念を整理したうえで、社区福利の概念が官製概念としての社区服務、社区建設、社区治理、社区養老から構成され、日本の地域福祉における地域の組織化、在宅福祉、住民参加型福祉と同じ理念であることを確認した。これから社区養老が増加し、市場による供給が増加するなかで、利用者主体の理念も形成されると考えられる。

第四章では中国農村の福祉政策を改革開放前(1949~1979)、改革開放期(1979~2006)、ポスト改革開放期(2007~現在)に分けて、それぞれの特徴と課題を検討し、ポスト改革開放期における激変の要因を多元的政策流路モデルからその政策立案過程と政策執行過程を分析した。改革開放前の農村社会福利の特徴は集団経済に依存する「集団福利」であった。改革開放期に入ると、人民公社の解体に伴って、集団経済が崩壊したにもかかわらず、政府が農村の社会福利は集団に押し付けようとするが、農村の社会福利が悪化したため、迷いながらも「集団福利」から「国家福利」へ移行しつつあった。ポスト改革開放期に入ると、医療保険も年金も最低生活保障も一気に整備されるようになってきた。政策立案・決定が迅速であっただけではなく、政策執行も急速に行われてきた。政策立案が迅速にできたのは、農村における福祉の危機が深刻化し、それに対処しようとする専門家集団の働きと地方政策の蓄積があるなかで、国家目標としての社会建設が登場し、「三農問題」が政府の「重中之重(最重要課題)」と位置づけられるようになってきたことが「機会の窓」(Window of opportunity)となって、農村の福祉制度が一気に立案されるようになってきたからである。これらの政策は、家族まで浸透した「社会主義的統合」、特に強固な政治システム統合によって、迅速に実施され、全国的に展開するようになった。

第五章では、農村の社区福利の成立と課題を検討する。農村の社区福利は全国の社区建設と農村の福祉政策が合流する形ではじまった。社区養老に注目すると、敬老院を地域の多機能的なサービスステーションと、各村に住民の互助による高齢者ケア施設によるケアサービスのネットワークを構築しようとしている。しかし、社区福利の主体として、敬老院も農村の住民自治組織としての村民委員会も多くの課題を抱えている。

第Ⅲ部の実証編では、マクロデータとミクロデータの二つアプローチから、中国農村の社区福利の実態と供給構造を分析した。第六章では、『中国民政統計年鑑2015』のデータに基づき、施設養老と社区養老の養老サービスの供給実態と都市農村間、地域間の格差を確認した。都市と農村を問わず、施設によるサービスと社区による高齢者ケアサービスの双方が不足し、特に農村ではより深刻である。また、地域間の格差が大きく、その規定要因を考察した結果、都市と農村において異なるメカニズムを発見した。都市においては経済的資源と制度的資源が規定要因であるが、農村では経済的資源と制度的資源が不足していることもあり、二つの変数との相関関係が確認できず、高齢化率が唯一の統計的に有意な変数である。

マクロデータの数字から地域間は具体的にどのような格差があるのかを把握できないため、第七章では、北京市、浙江省、河北省、甘粛省の四地域調査のデータに基づき、各地の農村社区福利の実態を明らかにした。第八章では、供給主体という分析視角から農村の社区福利の供給構造を明らかにする。特に行政のコミットと住民参加の二つの側面から、四地域の農村社区福利の実践の特徴と課題を分析する。主な供給主体としての村民委員会や老年協会、またはボランティア組織は住民組織でありながらも政府との関係も深く、その「曖昧な」福祉ミックスはモデルの全国普及にも影響を及ぼしている。

第九章では、福祉供給の三手段の視点も取り入れて、これまでの議論を参照しつつ、官(政府)、民(市場)、協(コミュニティ)、私(家族)による現金給付、現物供給と規制という供給構造の全貌を浮き彫りにした。現金給付においては、私セクター(家族)が依然として主な担い手であるが、年金や最低生活保障などを通じて、官セクター(政府)による供給も増加しつつある。土地の集団所有制度によって、協セクターも集団経済の状況に応じて、独自の年金制度や医療救助を行って、現金給付を行っている。また、寄付などによって、協セクターによる現金給付も行われている。サービス供給においては、家族が主な担い手であり、官セクターは五保戸など特別な対象のみボーダーラインの保障を提供し、従来の敬老院が一般向けに改革するように進められてきているが、同時に公設民営化が進み、官セクターが担い手から支援する役割に変わりつつある。協セクターは各地に多様な形で食事、デイケア、見守りなどのサービスを提供するようになりつつある。しかし、カリスマ性のあるキーパーソンへの依存性や専門的なケアの不足など多くの課題を抱えている。規制については、官セクターは法律による規制だけではなく、精神文明建設や道徳建設、法制化を通じて親孝行の規範の強化を図ることによって、家族扶養を規制しようとする。また、協セクターも当事者の公共圏の形成、村の輿論などを通じて、家族への規制の強化を図ろうとしている。

未富先老型の特徴として、現金給付・サービス給付・規制のいずれの側面においても、市場がほとんど空白である。また、官・協とも規制を通して、家族や個人の扶養義務の実行を促そうとする点から考えると、官・民・協による高齢者福祉の発展をケアの社会化と称するなら、このケアの社会化は同時に家族の責任を強調するものである。「未富先老」地域が高齢化に対応するための大きな特徴の一つと言えよう。

最後の終章では、本論が中国の福祉研究、福祉ミックス論における位置づけと貢献を提示し、今後の課題と展望を示し、本論を締めくくった。中国の福祉研究における貢献は、社区福利の概念を精緻化した点、これまで空白であった農村の社区福利の発展経路、供給構造を明らかにした点などが取り上げられる。福祉ミックス論における貢献は、従来軽視されてきた供給手段としての規制に関する理論構築である。具体的に、規制概念を拡張することで、四主体と三手段による福祉ミックスの分析枠組みを提示し、福祉制度の成立期にある中国農村の社区福利を対象として分析した結果、規制は政府が独占した供給手段ではなく、コミュニティも規制を通じて福祉供給を行っていること、政府は法律だけではなく、規範による規制も活用していることなどを発見した。重要な発見が得られたが、規制概念の精緻化や福祉制度の成立期にある地域の調査方法など多くの課題がある。これらの課題をクリアし、中国にとどまらずタイやベトナムなど発展途上国の福祉政策に寄与することを展望し、本論を締めくくった。

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