南京国民政府時期における刑事司法

久保 茉莉子

19世紀から20世紀にかけて、中国は、「西洋」や「近代」との本格的な接触や摩擦を通して、大きな自己変革を遂げていった。変化の様態は多様かつ重層的であり、連続する部分も少なくないとはいえ 、様々な方面において旧来の秩序形態が転換を迫られたことは疑いないというべきであろう。本論文は、こうした時代の中国における秩序形成について、近代法、とりわけ近代西洋型の刑事司法制度の成立過程と運用状況に焦点を当てて分析し、当該時期に、いかなる法秩序が求められ、つくられたのか、その意味は何かを明らかにすることを課題とする。

中国では、19世紀に条約や国際法を通して西洋の法学・法律が伝わり、20世紀初年以降、諸外国の法を範とする法制改革が本格的に進められた。そこでは、18世紀末以降に西洋諸国で形成された法と同型の、すなわち「近代西洋型」の法を早期に完成させることが目指されていた。そして1930年代半ばまでに、南京国民政府の下で、憲法を除く主要法典が公布・施行され、立法作業は一定程度実を結ぶこととなった。先行研究では、その過程について、「法制整備は進展したが、財源・人材不足や伝統的な道徳観の影響によって新たな法の運用は難しく、実際には伝統的な訴訟方式が大いに利用されていた」とされるなど、清末民国期の司法改革における理想と現実、成果と課題が指摘されてきた。しかし、法の制定過程及び運用状況のいずれも、なお検討すべき余地がある。具体的には、誰がどのように立法作業を進めたのか、新たな法制をめぐっていかなる議論が展開されたのか、そして日々の事件がどのような手続を踏んで処理され、人々がいかに法制を利用していたのかといったことについて、不明瞭な点が残されている。そのため、近現代中国における法整備の意義について、なお十分に理解されていないというのが現状である。

そこで、本論文は、中国で初めて近代西洋型の刑法典・刑事訴訟法典が公布・施行された南京国民政府時期に注目し、刑事司法制度の制定過程と運用状況を分析することによって、中国における近代法形成の歴史的意味を示すことを試みる。各章の概要は以下の通りである。

第一部「南京国民政府時期における刑事司法制度の制定過程」(第一~四章)では、南京国民政府が1935年に公布・施行した刑法・刑事訴訟法の制定過程を中心として、各時期の法案やそれらをめぐる議論を分析する。まず、第一章「清末民国期における刑法・刑事訴訟法の立法過程」では、法律制定過程及び訴訟の実態を分析するための前提として、清末民国期における刑法・刑事訴訟法の立法過程を整理する。次に、第二章「刑法改正と保安処分」では、刑法制定の意義について、新たに保安処分章が設けられたことに焦点を当てて検討する。そして、第三章「刑事訴訟法改正と検察制度」では、刑事司法改革の重要項目の一つ、検察制度の改正に着目し、清末以降、中国で検察制度が整備されてきたことの意義を分析する。さらに、第四章「自訴制度の成立過程」では、南京国民政府時期の刑事訴訟法改正過程について、その要点の一つとなっていた自訴制度(被害者訴追制度)の制定と議論に注目し、当該時期に目指されていた刑事司法のあり方を考察する。

第二部「南京国民政府時期における刑事司法の実態」(第五~七章)では、刑法・刑事訴訟法改正時期における刑事司法の実態に着目し、1930年代当時の中国における秩序のあり方と、それまでに進められた法整備の意味を明らかにする。まず、第五章「検察制度の実施と検察官の機能」では、第三章での分析を念頭に置きながら、当該時期の刑事司法において検察官の果たした役割を示す。次に、第六章「自訴制度の機能」では、第四章での分析と連関させる形で、自訴制度が実際にどの程度利用され、当時の人々や司法機関にとっていかなる利害が生じていたのかを検討する。そして第七章「地方法院の刑事裁判―ある殺人事件を中心に」では、第二~六章までの分析を基礎として、刑事事件をめぐる裁判官や検察官、警察、弁護士、被告・被害者・証人等、各機関や様々な立場の人々の言動や相互関係について検討を加え、捜査から判決に至るまでの刑事司法の全体像を見ていくこととする。

 本論文の結論は、以下の三点にまとめられる。

 第一に、南京国民政府の下、1935年に制定された刑法・刑事訴訟法は、近代西洋型の法として、1920年代までに公布・施行ないし起草されてきた諸法に比べ、条文が整理され、極めて完成度の高いものであった。当時の中国にとって、最重要課題の一つとなっていた不平等条約改正を実現するためには、国際的潮流に適応し、近代西洋型の法を実施していくことが必要条件であったことがこの背景にある。但し、刑法・刑事訴訟法の制定事業は、外国法の単純な模倣に終始したわけでは決してない。その過程では、様々な国の法を精査・取捨選択・補整しながら、中国の既存の法意識や秩序維持のあり方、さらには実際の訴訟における人々の行動様式と、うまく融合させていくという試みがなされていた。こうした過程を経て成立した法こそが、「中国で運用するための近代西洋型の法」、すなわち「中国近代法」であった。そして、このような法が成立したことの最も大きな要因は、立法・司法を担う人材養成の進展である。よって、1930年代に成立した中国近代法は、不平等条約撤廃のための切り札として用いる外面的なもの、或いは机上の空論に過ぎないものであったのではなく、実際に運用していくべき法として整備されたといえる。

なお、19~20世紀前半は、中国だけでなく、西洋諸国や日本においても、自国に適した法秩序のあり方が模索されていた時代である。中国は、それらの国々に遅れ、その影響を大いに受けながら法整備を進めながらも、自国に適した法を追求し続けた。そして、法律家のみならず、一般の人々も、新たな法制の利用を試みるようになっていたことで、それまでとは異なる特徴を持つ刑事司法のあり方は、社会に漸進的に浸透した。この背景に、清代の中国社会において、すでに一定の法秩序が確立していたことがある。清代には、犯罪と刑罰を詳細に規定した基本法典(「律」)や、その内容を修正・補充・細目化する付加条文(「条例」)、判例集が編纂されており、訴訟が頻繁に行われ、官の裁判によって秩序維持を図るという方法が定着していた。だからこそ、20世紀初年以降、法の形式や内容が変化しても、新たな法の下で、秩序を形成していくことが可能であったのだと考えられる。

第二に、1935年に制定された刑法・刑事訴訟法は、国家権力による法秩序を強化する法であった。すなわち、刑事事件については、重罪事件はもちろん、微罪事件においても、民間の紛争解決方法に任せるのではなく、国家機関が法に基づいて処理することで、秩序を維持するという方針が示された。但し、それによって紛争解決をめぐる民間の力が衰退していったわけではない。当時の人々にとって、秩序の維持は、単に国家に任せておけばよいというものではなく、民間の力もなお重要であった。

また、国家権力による法秩序の強化を、安易に「国民党の独裁強化」に結びつけるべきではない。成立したばかりの南京国民政府が統治を安定させるため、そして不平等条約改正に向けて新たな法制を機能させるためには、日々膨大な量の事件処理を抱える司法官たちにとって運用しやすい司法制度を構築することが急務であった。そうした時期において、全体的には、清末以降の施設整備や人材養成の進展状況に鑑みて、実現可能な近代西洋型法制の制定が目指されていた。そして、刑事司法制度の整備は、少なくとも1930年代半ば頃までは、満洲事変以降の「国難」意識にともなう政治的・軍事的状況の影響をそれほど受けずに進められた。

第三に、1920~30年代、中国の法律家の間では、「刑事事件の被疑者・被告の人権を一定程度擁護しなければならない」という意識が萌芽・浸透しつつあった。このことは、清末民国期における「人権」「民権」をめぐる議論の展開と密接に関わっており、当該時期の中国の法意識の特徴を示すものとして、大きな意味がある。

但し、実際に刑事事件を処理する立場にあった司法官にとっては、管轄地域の秩序維持が最も重要であったのであり、被疑者や被告の人権擁護という理念の実現が、日々の訴訟において推進されていたとは考えにくい。それよりも、司法官は、人々が「冤抑」(自己の側が不当にも押しへこまされている)と見なすような状況を極力生じさせないよう、適切に事件を処理することで、社会秩序の維持・回復に努めていたと解釈する方が、より実情に近いといえる。そして、裁判に対して「道徳的な正しさ」を求める人々が少なくなかった当時において、司法官たちは、基本的に法的ルールを重視して刑事事件を処理していた。

以上のように、南京国民政府時期、1930年代半ばまでの司法整備の過程で中国近代法が成立していたこと、すなわち基本法典の制定や施設整備、人材育成などの事業が一定程度実を結び、新たな法秩序の基盤が形成されていたことは、戦時・戦後の動乱時期においても国民政府が法制改革を進めることができたことの背景として、非常に重要な意味を持つ。

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