本論文では、辺境地域やその人々に対する国家の認識や施策を分析した。本論文の特色は、古代国家の辺境認識(対外認識)、特にその基礎に据えられてきた律令の検討や、それを下敷きとして諸史料を検討にすることで提示されてきた辺境認識について、根本的な見直しを試みたことである。大宝律令はあくまで八世紀初頭という限定された時代の産物であり、またそれは唐律令によって規定されているという視角が本論文全体の基礎となっている。また、辺境における様々な危機や課題に対する対応で最も顕著な分野である軍事、特にその展開を分析しやすい平時の辺境防衛体制を考察対象とし、九世紀までの日本古代国家と辺境との関係を明らかにした。各章の内容は以下の通りである。

 

第一部 古代日本の辺境認識と律令

第一部第一章「大宝律令の制定と「蕃」「夷」」

 律令とその註釈書がもつ同時代性と、日本律令がもつ唐律令からの継受の側面とを主な立脚点として、古代日本で明確に法制化されていたとされてきた「諸蕃」や「夷狄」という概念に対して批判を加えた。日本律令の制定段階においてそのような独自の対外認識を構築したことは認められず、むしろ古代日本においても「蕃」と「夷」とは明確には区別されてはいなかったことを明らかにした。八世紀前半には「蕃」を朝鮮諸国とする意識が成立したことは認められるが、唯一「諸蕃」と「夷狄」という概念を明確にできるのは九世紀前半の『令義解』を待たなければならない。唐にならって「小帝国」たらんとした古代日本は、自らを「中華」とする意識だけは明確にしていたが、「化外」の存在は、朝鮮諸国・列島内の諸種族それぞれとの歴史的関係・現状に基づいた個別的な認識がまずあったと考えるべきである。そうした状況において、「華」と「蕃・夷」の二分法からなる中華思想は、古代日本の「小帝国」においてはうまく存立しえず、それが「小帝国」構造の実態であった。

 古代国家の対外認識の問題について問い直し、「諸蕃」と「夷狄」という、これまで研究者による古代国家の対外認識として当然のものとなっていた枠組みの見直しを図った。また、古代国家のあり方や理念を規定したものとみなされてきた大宝律令そのものについても、相対化することとなった。

 

第一部第二章「日唐律令における「帰化」規定」

 第一章で論じ残した日唐律令の間で差異が大きいとみられてきた「帰化」規定について、律令が元々もっている理念性やフィクション性を実際の状況と対照することで、その性格を明らかにした。

 日本賦役令没落外蕃条は、唐令の「夷獠新招慰」についての規定を削除して成立しているが、その理由は「招慰」という語のもつ意味によるのではなく、唐初から特殊な賦課規定をもっていた「夷獠」という存在による。天聖令公開以前に考えられていたように、「夷狄」についての規定を削除したわけではない。唐律令が基本法典としての規範性や行政法としての性格をもっていることに注意して、唐の遊牧民に対する現実的な「帰化」への対応状況なども踏まえると、律令規定通りの手続が行われない「帰化」も想定でき、そうした様々な「帰化」に対する賦課規定などが唐には存在していた。一方、日本令の「帰化」規定の適用対象となったのは結果的に朝鮮諸国からの人々のみであったが、日本令自体は蝦夷・隼人などの「帰化」を否定はしていない。律令「帰化」規定は「帰化」の際の行政的な手続きの規定にすぎず、その適用の有無は「帰化」の対象かどうかという問題とは別次元である。そしてそのこともまた、唐令の文章を継受した結果と言える。

 

第二部 辺境防衛体制の展開と辺境支配

第二部第一章「律令における辺境防衛体制と古代山城」

 古代国家の辺境防衛体制は、大宝律令の段階では防人や古代山城など、北部九州を中心とした西日本に大陸からの侵攻を意識して構築された点に特徴があり、地続きの辺境である東北方面や南九州における特別な辺境防衛制度は構想されなかった。こうした唐制とは構造上大きく異なる状況は、蝦夷の「反乱」などの軍事的緊張の高まりを受けて変更を余儀なくされるが、相対的に地続きの辺境に対する軍事的危機意識が弱い、八世紀初めの古代国家の辺境認識を浮き彫りにする。七世紀後半に百済亡命貴族の関与により築造された古代山城は、重要な存在として律令にも規定されたが、大陸との軍事的緊張のなかで構築されたもので、予期される戦闘の質の違いから東北の城柵とは区別されていると考えられ、養老律令編纂期にあたる八世紀第一四半期には大半の山城はその役割を終えつつあった。

 

第二部第二章「八世紀における辺境防衛体制の展開」

中国の軍事・軍制に関する日本側の知識の問題や、防衛施設の地勢的問題に注目しながら、八世紀における辺境防衛体制の展開を考察した。養老四年(七二〇)からの対蝦夷戦争の本格化・深刻化を受けて、八世紀初めには取り入れられなかった唐制が鎮官・鎮兵制などとして改めて導入されていった。東北では、蝦夷に対する前線地帯にまで城柵が構築され、長上兵の鎮兵が配備された。また東北だけでなく、対新羅関係の悪化も背景に、節度使により沿岸警備体制が整備されるなど、西日本の辺境防衛体制にも新たな動きがあった。その中での鎮・鎮所という語の登場は、養老の遣唐使との関係を明瞭に指摘できる。その後の吉備真備による怡土城の造営も中国からの知識の移入という流れに位置づけられ、これらは七世紀の対外的な緊張の高まりから築造され、既に存在意義を失いつつあった多くの古代山城と好対照をなす。やや前線からは奥まって位置する西日本の古代山城の立地に対し、東北の城柵は前線地帯にまで構築され、防人と同様に長上兵であった鎮兵は、主に前線の城柵に駐屯する兵力であった。

 

第二部第三章「胆沢城鎮守府と九世紀の北辺支配」

 前線に駐屯した鎮兵を統括する役割を基本とした鎮守府は、九世紀以降、胆沢城において陸奥国から一定の独立性をもって北辺の支配を担当する機関に変質する。これは地方官制としても軍事制度としても異例であるが、特に九世紀の胆沢城鎮守府の機能や北辺情勢をめぐっては議論があり、その止揚を図った。

 これまで注目されてこなかった鎮守府府掌について検討を加え、九世紀の胆沢城鎮守府においては軍事的職掌のほかには蝦夷との関係、特に饗給による服属関係の維持・構築が役割として重視されるようになったことを明らかにした。鎮守府は「征夷」や公民支配領域の拡大という八世紀以来の古代国家の辺境政策が放棄される中で、陸奥国の一部として北辺支配に責任を負う存在として存続した。古代国家の公民支配が貫徹した地域は胆沢城周辺の胆沢・江差二郡までだったと考えられるが、その外側に関しても服属関係の構築などにより影響力の維持・行使が行われたとみられる。

 

以上の各章での検討を通して、中国王朝の制度・思想の直接的影響を受けながら展開した七世紀後半以来の古代国家の辺境との関係に新たな光を当て、その特質を明らかにした。