コプト聖人伝に見る十四世紀エジプト社会

辻 明日香

一般に、14世紀はマムルーク朝下(現在のエジプト、歴史的大シリア)のズィンミー、すなわちキリスト教徒やユダヤ教徒にとり困難な時代であったと理解されている。十字軍やモンゴルの脅威が去り、マムルーク朝のスンナ派政策が進展し、スーフィーやムスリム聖者の活動が本格化すると、政府はズィンミーを取り締まる法令を繰り返し発布し、ムスリム民衆はズィンミーの礼拝の場を襲撃、破壊した。エジプトのコプト教会信徒(以下コプト)の場合、14世紀半ばに起きた大迫害を機に、その大半はイスラームに改宗したと言われている。同時にこの時代、コプトに信仰の保持を呼びかけ、その行いにより「聖人」として崇敬された隠修士や修道士の活動が目立つようになり、彼らの生涯と奇蹟を記した聖人伝が著された。

 これら聖人伝の最大の特徴は、聖人の死後まもなく編纂されたと考えられること、同時代のムスリム知識人が著した年代記から裏づけが可能な、聖人が生きた時代の歴史的事件や人物に関する正確な情報を得られることである。本研究は、これら聖人伝テクストの生成理由に着目し、聖人伝の著者や聴衆、(資金を提供したであろう)修道院や有力信徒など、テクストの生成に関わった集団について考察した。その上で、聖人伝に著された内容―理想とされた聖人像、聖人崇敬の実践やそれを取り巻く政治社会状況―や執筆の意義、そしてそこから浮かび上がるエジプト社会の様相を検討した。

 本稿の構成は以下のとおりである。第1章ではマムルーク朝期のエジプトにおいて、聖人伝の記述の中心となる「奇蹟」の存在自体は疑問視されず、それを記録したのは知識人であったことを確認した。また、14世紀に著されたアラビア語コプト聖人伝について、東地中海世界における聖人伝叙述の伝統の上に位置づけ、さらにはその独自性について指摘した。第2章から第8章の各章においては、各聖人伝の手稿本についてその特徴や問題を整理したのち、聖人伝に著された内容を分析した。

 第2章と第3章では13世紀後半から14世紀初頭にかけて下エジプトで活動した2名の聖人の生涯から、デルタ地方におけるコプトの信仰生活、すなわち聖人崇敬のあり方や聖人に求められる奇蹟の内容、そして彼らを取り巻く政治社会状況について明らかにした。第4章から第6章では舞台をカイロに移し、都市やその近郊に在住する聖人に求められた役割を、各時代において人々が求めた奇蹟や、ムスリムや政府高官との関わり、奇蹟録に込められた戦略から検討した。第7章と第8章では上エジプトにおける聖人の生涯の記述から、14世紀後半の修道院における生活や、当時コプト社会を揺るがしていた信仰の問題(改宗や殉教、再改宗)に関するコプト教会の対応について考察した。

 本研究において得られた知見は以下のとおりである。長い14世紀、すなわち13世紀後半から15世紀初頭にかけ著されたコプト聖人伝は、ある地域で生涯の後半部分を過ごし、その修行生活や奇蹟により人々から崇敬された人物について、その生涯と奇蹟を記録し聖人として讃える、という性格をもった文学である。著者(あるいは編纂者)は聖人の弟子であった修道士や司祭、在家信徒であり、彼らは生前の聖人を知る人々から証言を収集し、聖人伝を著した(あるいは編纂した)ものと看做される。

 聖人伝作成の背景には、聖人がその余生を過ごした修道院や、聖人と関わりのあった主教が、その地位向上や影響力の拡大のために、聖人への崇敬を利用しようとする働きかけが読み取れる。また、アイユーブ朝期以降、コプト教会の有力信徒(アルホン)が、官庁やアミールのもとに出仕し教会を支えるという図式が見られたが、聖人伝執筆の背景にも、諸学問に通じたアルホンの存在が窺われ、彼らの世界観がその内容に影響を与えている。

 各聖人伝は「教会で読み上げる文学」という性格上、信徒への規範を示すという目的で聖人の姿が描かれている。それは祈りや断食に励むキリスト教徒としての理想像であったり、修道士としての模範であったり、「キリストの苦しみに倣う」殉教者としての姿であった。そのため、聖人伝の記述から、聖人のありのままの生涯を知ることは困難である。

 なぜ14世紀にこのような文学作品が著されたのかということであるが、これには14世紀当時、コプト教会の聖人暦である『シナクサール』が編纂されていたことと密接に関係していると考えられる。『シナクサール』の記述は聖人伝、あるいは聖人伝と共通する情報源をもとにしていることが窺われ、聖人伝は列聖された聖人を讃美するために著されたというよりは、列聖の働きかけとして著された可能性が高い。

 コプト教会においては7世紀から9世紀にかけ、殉教者伝が多数編纂された。これら殉教者伝は、イスラームの支配下に入ったエジプトにおいて、「殉教者の教会」という自己定義のもと、コプト教会が信者の流出を防ぐ戦略の一端を担うこととなった。14世紀に著された聖人伝についても、同様の戦略を見いだすことができる。すなわち、聖人に帰せられる奇蹟を記録することで、著者(とその周囲の人々)は、困難な時代においても神は聖人を遣わすことを示し、地名を奇蹟録に織り込むことにより、聖人の崇敬が及んだ地域的範囲を記録し、さらには自分たちが住む地域がいまだキリスト教の地であることを再確認した。このようにして教会はその信徒を鼓舞し、教会内に留めようとしたのであろう。

 また、聖人伝の著者らは、当時エジプト社会でその活動が目立ちはじめていたムスリム聖者の存在を意識していたようである。各奇蹟録においては、ムスリムによる参詣について言及が見られ、ムスリム聖者と共通するような行動をとる聖人については、キリスト教文学の伝統に位置づけた上で描写されている。

 上記のような聖人伝の戦略的要素を考慮に入れた上でも、聖人伝の記述は、マムルーク朝期エジプトにおける人々の生活について、生き生きとした情報を伝えている。それは主に聖人が生きた地域の特徴であり、またその時代における、人々に影響を与えた事件や出来事についてである。『ハディード伝』はナイル川に面した土地の特徴上、航海の安全といった移動に関する奇蹟について伝え、『ユハンナー伝』は13世紀末にエジプトを襲った飢饉と、それに対する人々の反応について、『バルスーマー伝』はカイロにて政権と人々との間を仲介する聖人の姿を伝えている。

 さらに、聖人伝の記述からは、13−15世紀におけるコプト社会を取り巻く状況、そしてその変化の過程を追うことができる。13世紀後半には、コプト社会は重税や教会破壊、改宗圧力といった問題に直面していた。『バルスーマー伝』からは、1301年に公布された法令に強く抗議する聖人の姿が読み取れる。『アラム伝』は教会破壊について伝え、『ルワイス伝』では聖人自身の父親が改宗したとされている。『ルワイス伝』、『ムルクス伝』、そして『イブラーヒーム・アルファーニー伝』では、聖人の逮捕や拷問、改宗問題への対応が主題となっている。聖人伝の内容には、それが著された時代において共同体にとり最も差し迫った政治あるいは社会情勢が反映されているのである。

 14世紀後半にはイスラームへの改宗が相次いだが、コプト教会は急激に勢力を失ったわけではない。14世紀を境に下エジプトにおけるコプト教会の影響力は縮小していき、カイロにおいても官僚は改宗を余儀なくされたが、彼らの一部は信仰を保持していた。カイロとその周辺では14世紀後半以降も聖人伝文学が著わされ、上エジプトの修道院は修道士が溢れるほど繁栄していた。

 本研究においては、コプト聖人伝の描写から、当時のコプト社会において、理想とされた聖人の姿、聖人崇敬のあり方、そして彼らを取り巻く社会状況について考察した。古代に成立した聖人伝文学の伝統は、イスラーム支配下以降も東方諸教会にて受け継がれ、その時代の要請に応じて新たな文学が生み出されていた。それは各教会内の閉じた世界で成立したものではなく、コプト聖人伝の内容には、ビザンツ教会文学やシリア教会文学の影響が見られた。

 ムスリムとキリスト教徒との関係においては、この時代、コプトに対する改宗圧力は存在したものの、聖人崇敬という側面においては、ムスリムとコプトとの間に確固たる差異を見いだせなかった。コプト聖人伝は、マムルーク朝期エジプトにおける、ムスリムとキリスト教徒との間で重なりあう聖人崇敬のあり方を示唆している。

 聖人伝の奇蹟録に記された人々の要求は、改宗問題を除けば、大概治癒といった一般的な内容であり、「コプト」であるからこそ要求する、といったものではない。本研究で取り上げたコプト聖人伝はキリスト教文学の伝統に則った作品であるが、その内容からは、14世紀のナイル川渓谷に住む人々が、その日常生活において希求したものが浮かび上がるのである。

一覧へ戻る