本論文は、日中戦争時期、日本占領地で活動した和平陣営の人々に注目し、彼等の中国の現状に対する意識やその将来構想を検討することを目的とした。和平陣営については従来から協力者(コラボレーター)という分析視角から研究が進められ、事実関係はかなり明らかにされつつある。一方、当事者が日本占領地でどのように自らの活動を意義づけ、中国の将来構想をいかに説明したのか、といった視点からの分析はほとんどない。しかし、その活動を検討すると、彼等が日本との協力を第一義としたのではなく、実情はまず彼等の現状判断と将来への展望があり、その中で日本との提携を選択していった、と考えられる。こうした動きを明らかにすることは、当該時期の中国社会の理解を助けよう。

そこで筆者は対日協力という視角を継承しつつも、日本との協力以外に彼等が議論した諸問題を顕在化させるために、和平陣営という分析視角を意識的に用い、新聞・雑誌その他に表れた議論の分析を試みた。

第1章では、冀東政府を指導した殷汝耕と池宗墨の議論を扱った。冀東政府の成立は厳密には日中戦争時期の直前だが、その議論は和平陣営の議論とも共通点が多い。殷汝耕は1910年代から主に日本で積極的に日中提携論などを唱えたことで知られているが、冀東政府でより積極的に自らの見解を披瀝したのは秘書長の池宗墨であった。池宗墨は孔孟学徒や企業経営者としての経験から、冀東に孔道に基づいた政権を樹立することを訴えた。その国民党批判の議論や国民政府の青天白日満地紅旗を五色旗に改める動きは、日中戦争勃発後の維新政府などとも共通するものであった。

第2章では、日中戦争直後、上海に蘇錫文を市長として樹立された上海市大道政府における展望を扱った。大道政府は、市政府顧問で上海の日本人の間で勢力を持っていた西村展蔵の唱えていた「天下一家、万法帰一」をスローガンに採用し、中華民国を否定した。すでに西村展蔵・蘇錫文らは1935年に河北省で起きた農民自治運動を裏で差配するなど、日本軍の意向を受けて活動した経験があった。上海での宣撫活動にも西村展蔵の関係者が多く参加した。しかし大道政府の方針は、民衆の支持が得られないだけでなく日本軍とも衝突した。そのため、日本の占領地経営が安定化し、維新政府さらに汪政権が樹立されると、西村展蔵や蘇錫文の主張は退けられていった。

第3章では、「五族解放」を掲げ、漢民族による大漢国樹立を主張した張鳴について検討した。張鳴は、1920年代から主に福建で政治活動を行った。張鳴は中国国民党の西山会議派・胡漢民派との関係を築き、『阿含日報』を発行して反蔣介石の議論を展開した他、福建で樹立された中華共和国や、内モンゴルの綏遠事件では王英部隊の挙兵にも関係した。張鳴は辛亥革命の五族共和のスローガンで成立した中華民国が理想とは程遠いことを問題視し、満洲国や内モンゴルの動きを睨みながら、五族それぞれが独立すべきことを主張し(五族解放)、漢民族の国家(大漢国)建設を唱えた。張鳴は維新政府や汪政権とも一貫して距離を保ち、その活動からは和平陣営の多様性もうかがえる。

第4章では、華中の日本占領地に成立した中華民国維新政府の指導層4名(梁鴻志・温宗堯・陳羣・王子恵)の議論を取り上げた。その議論は、日本との提携、反共、日中戦争の原因を蔣介石や国民党政府に帰した点などで共通し、維新政府の議論の基調を成した。彼等は、譲るべき点は日本に譲りながらも、そこに中国の主張を織り込み、間接的に日本を批判・牽制しており、日本を無批判に認めていたわけではなかった。それはまた、中国が敗戦したという現状認識に基づき、長期的視野の下、漸進的に国力回復を図ることに力点を置いた点に特徴があり、中華民国という体制を否定するような議論とは一線を画するものであった。

第5章では、1939年から1940年にかけて上海で活動した興亜建国運動(興建運動)を扱った。興建運動は、汪精衛らが新政権樹立を模索する中、その支援を目指して袁殊を中心に組織された運動であった。袁殊は、国民党との人脈を基盤にジャーナリストとして活躍する一方、共産党にも入党し、その意向を受けて日本とも情報をやり取りした。興建運動は日本の要請で組織されたものの、活動を担ったのはそれまで抗日陣営にあった活動家や文化人で、労働団体や学生・青年を積極的に組織しようとした点などで、従来の和平陣営の民衆運動とは異なっていた。活動は基本的に中国側に任され、その自主性が認められた点にも特徴があった。興建運動は汪政権成立後に解散したが、関係者はその後も汪政権の一翼を担い続けた。

第6章では、雑誌『興建』月刊を中心に、興建運動の議論を分析した。興建運動は、盧溝橋事件以来の中国の抵抗は正しく、日本も中国の抵抗力を正当に評価するべきと主張した。さらに、日本が中国の自主独立を認めない場合は、再び抗戦陣営に戻ることも言明した。管見の限り興建運動の主張は、和平陣営の中で最も強硬に中国の独自性を主張していた。この背景には、現地の日本軍が中国認識を大きく転換させたこともあった。日本に迎合する議論や独善的な組織では、民衆の支持獲得が難しいことに日本側も気づきはじめていたのである。日中の戦争はこの後5年間継続するが、議論のレベルでは1940年前後に大きな転機を迎えていたのである。

第7章では、汪政権成立前後活発に議論が交わされた憲政実施の動きを扱った。国民政府は1936年に五五憲草を発表し、その早期実施を予定していたが、盧溝橋事件の勃発で日程は延期されていた。汪精衛は憲法草案も審議した国民参政会の議長だったこともあり、重慶を離れた後も憲政実施を目指した。こうして和平陣営で憲政を巡る議論が活発化した。時を同じくして重慶国民政府でも主に共産党の要求で、憲政実施の議論が高まり、結果、南京と重慶の2つの国民政府が互いを意識しながら憲政実施を目指す事態となった。結局、双方の国民政府は憲政実施延期を表明したものの、汪政権の事例は、1940年前後は和平陣営も積極的にその展望を披瀝し、抗戦陣営もそれを無視できなかったことを示している。

第8章では、辛亥革命前夜から1910年代にかけて、アメリカや東南アジアで革命運動に奔走した伍澄宇の活動と議論から、中華民国維新政府・汪政権の意味を考えた。伍澄宇はアメリカで機関紙『少年中国』の発行に携わり、孫中山に民徳主義を加えた四民主義を提唱するなど、積極的に政見を披瀝した。しかし、孫中山死後は国民党政府と相容れず、政界を離れた。維新政府・汪政権が成立すると、伍澄宇はこれに招かれ、立法院委員、県政訓練所教官、憲政実施委員会委員として主に法律方面で政策に関わった。伍澄宇は積極的に維新政府や汪政権に参画したわけではなかったが、出来得る限り自らの政見(孫中山の建国大綱に基づいた地方自治及び憲政)を披露するなど積極的であった。維新政府や汪政権の存在は、こうした人々の活動と発言の場でもあった。

第9章では、1942年から翌年にかけて日中の総合雑誌上で展開された「道義的生命力」を巡る日中知識人の応酬から、和平陣営の知識人の意識やその背景に迫った。和平陣営では日中相互の協調が前提とされていたこともあり、基本的に日本に対する明確な批判が公表されることはなかった。ところが、京都帝国大学助教授高山岩男が雑誌『中央公論』に掲載した「歴史の推進力と道義的生命力」は黄菩生・張資平・胡瀛洲・呉玥ら中国人知識人を刺戟した。何故なら、高山は中国の文明社会は福禄寿を中心とする現世的享楽主義の性格を有しており、中庸を基礎とする倫理はあるものの、ヨーロッパ列強の蚕食以来ほとんどなすところがなく、世界史的転換の事業に参じえなかったのは、中国に道義的生命力が欠乏しているため、と論じたからである。この経緯は、戦局が悪化する中で、具体的な中国の将来像が描きにくくなった和平陣営でも京都学派の議論が注目されていたこと、また日本との提携は認めながらも、中国人として譲ることのできない彼等の矜持の在処をも示すものであった。

 以上より次の3点が明らかになった。第1に、日本の中国占領という事態により、日本との和平では共通するものの、中国の政治の表に表れにくかった多様な政治主張や発想が顕在化した点である。こうした主張も中国の国家建設を標榜する点では抗戦陣営とも共通するものであった。第2に、和平陣営の議論は、抗戦陣営にも影響を及ぼした点である。第3は、日中戦争当初の議論が段階を経て、中国の事情に寄り添ったものになり、最終的には汪政権が「国民政府の還都」という形式で南京に政府を樹立した点である。これは日本の当局者が中国社会の事情を把握しつつあったこと、また和平陣営の人々もまた、「国民政府」による統治を中国の在るべき姿として受け入れていたことを示している。

 日本の敗戦により、和平陣営は消滅するが、その議論の一部は、大陸とも台湾とも相容れない人々によって戦後も継承されていったのである。