本論文は近代中国の社会や医療に大きな影響を与えたプロテスタント医療宣教師の団体である中国医療伝道協会(The China Medical Missionary Association)を取り上げ、その活動を明らかにするとともに、医療伝道事業の土着化について論じたものである。本論文でいう医療伝道事業の土着化とは、ミッション系病院及び医学校における運営∙管理権が、外国人医療宣教師から中国人に移っていくことを意味している。医療伝道事業の土着化に関する研究は、中国におけるキリスト教の土着化問題を考察するために不可欠であるのみならず、近代中国の社会や医療界を理解するためにも必要な作業である。

まず第一章では、医師と宣教師という二つの顔を持った医療宣教師のアイデンティティ問題について考察し、医療宣教師の活動の重点が、時代とともに福音伝道から医療活動及び医学教育に移っていったこと、そのような変化がとくに1920年代から加速したことを明らかにした。医療と伝道の分離が1920年代に入ってから急速に進んでいった理由としては、①教会や学校のような伝道機関が普及してきたことによって、病院の伝道機関としての役割が小さくなったこと、②キリスト教とは関係のない病院が増えており、もしミッション系病院が専門化しなければ、淘汰されるという危機感が生じたことが挙げられる。

医療宣教師が医療活動に精力と関心を集中していく過程は、病院や医学校における伝道活動の大きな部分が中国人の影響下に置かれるようになったこととも密接に関連する。この現象は、中国における医療伝道事業の土着化の一つの表れとして理解できる。またこのような医療宣教師の性格の変化は、中国医療伝道協会にも大きな影響を与えたのである。

第二章では、1907年から1932年までの中国医療伝道協会の変化及び中華医学会との合併に至る過程を考察した。1907年に中国医療伝道協会は、雑誌名からMissionaryという一語を削除するとともに、協会名として「博医会」、機関誌名として『博医会報』という中国語名称をつけた。そのため本論文では、1886年から1906年までは中国医療伝道協会、1907年からは博医会と表記する。また1925年には、英文の協会名や会則を変更し、宗教色の強い医療宣教師の団体から、医療活動中心の医学団体に生まれ変わろうとした。このような変化は、第一章で述べた医療宣教師が医療に専念するようになっていく傾向とも関連する。また、反キリスト教運動や民族主義の影響によって、中国人西医(西洋医学を修めた中国人の医師)がミッション系団体への加入を忌避していたため、協会名や会則を変更することで、より多くの中国人医師を会員として受け入れようとしたのである。

1932年、博医会は中華医学会に合併された。合併の原因としては、教会を中国人主導にしようとする運動の拡大や国民政府の教会病院や医学校に対する統制とともに、ミッション系病院や医学校において中国人の影響力が強くなったことが挙げられる。中華医学会の立場からみると、国民政府との協力を図る中で、影響力を強めつつあった中華医学会を中心に、医学界を統合しようという目的があった。このような博医会と中華医学会の合併は、医療伝道事業の土着化過程が最もよく表れた出来事ともいえよう。

第三章では、医療宣教師が実際に活動していた場であるミッション系病院や医学校における土着化について、病院の経済的自立や医学校における教授言語をめぐる議論を中心に分析した。まず、ミッション系病院や医学校における運営費をなるべく外国からの資金に依存せず、中国現地での支援や治療費によって確保するという経済的な自立は、医療伝道事業の土着化にも直接かかわる問題であった。しかし実際のところ、1930年代にも外国から何らかの支援を受けている病院が多く、経済的な自立は達成されていなかった。もちろん病院の収入からみると、外国からの資金がほとんどであった当初とは異なって、現地からの支援や治療費が占める割合が大きくなっていたことは事実である。

また、土着化を進めるためには、経済的な自立と同様に中国人医師の養成も重要であり、そのため医療宣教師は医学生教育に力を注いでいた。医学校の運営において最も議論になったのは、医学を英語で教えるか中国語で教えるかの問題であった。医学教育を土着化させるためには、中国語による教育が必要であることは明白だが、一方で英語による医学教育のほうが高い水準の医師を養成できるという意見も根強かった。1930年代になると、ミッション系医学校の多くは中国語と英語を併用するという方法を選んだが、それはある意味で現実と妥協したとも、ミッション系医学校としての特徴を生かしていたともいえよう。

第四章では、中国医療伝道協会が1890年に設立した医学用語委員会の活動を中心に、医療宣教師が医学用語の翻訳や統一に尽力し、統一された用語に基づいて医学書を編纂するなど、中国での西洋医学教育の体系化に努めていたことを明らかにした。その過程において、注目すべき点は、彼らが中国人との協力を最も重視していたことである。それは、医療宣教師自身が、中国人との協力なしに医学用語を普及させることは無理であると認識していたからであるといえる。1915年の中華医学会や中華民国医薬学会の設立、さらに医学用語審査会の組織をきっかけとして、医療宣教師の役割は欧米や日本への留学経験を持つ中国人に代替された。一方、博医会は審査会の中で唯一の外国人中心の団体として、外国語を中国語に訳す際に重要な役割を果たしていたと考えられる。

医療宣教師の用語は、完璧なものではなく、その中には中国人から批判されたものも少なくないが、西洋医学用語を訳せる中国人の人材が存在しなかった状況下で、彼らが医学用語を造り出すために努力していたことは、正当に評価すべきであろう。

第五章では、医療宣教師の中国医学、特に中薬に対する研究や認識について考察することで、西洋医学の土着化過程における西洋医学と中国医学の相互作用の一面を示そうと試みた。初期の医療宣教師の中薬に対する研究は、薬の不足という現実的な問題を解決するための手段として、必要に応じて行われた。中国医療伝道協会が中薬委員会を設立して、実際に使える中薬を調査することに力を入れていたのも、そのためである。しかし、1920年代前後からは、学術的な目的から中薬に対する体系的な研究が始まった。学問的な研究が進むなかで、中薬に関する認識も変化していった。たとえば、薬理学の発展によって貴重なホルモンが発見されたことによって、以前は嫌悪感を引き起こすとして批判された中国の動物性薬物に対する認識も、そのなかから治療効果のあるものを発見できるかもしれないという肯定的な見方へと変化した。

そして、先行研究では、医療宣教師の中国医学に対する認識が時代によって変化したと指摘されているが、実際の医療活動に役に立つものは高く評価し、西洋医学の見方からは理解できない理論については否定するような態度は、基本的にはあまり変わらなかった。もちろん時代が経つにつれ、中国医学を理解する必要性は高まった。医療宣教師は医療活動に集中していくなかで、中国人患者と交流するためには、中国人が最も信頼していた中国医学の理論や用語を自ら理解する必要があることに気が付いたのである。また、中国医学のなかに効果の大きい治療法もあることは、医療宣教師も否定できなかった。しかし彼らは、基本的には西洋医学の優越性を固く信じ、中国に必要なのは科学的な西洋医学に違いないと考えていた。

本論文は、中国医療伝道協会が成立した1886年から中華医学会に合併される1932年までの期間を主な考察対象とし、中国医療伝道協会が中国の社会や医療に大きな影響を与えていたことや、中国における医療伝道事業の責任が、西洋人医療宣教師から中国人クリスチャン医師や牧師に移っていったことを明らかにした。しかし、博医会と中華医学会の合併によって、中国における医療宣教師の役割が完全に終わったわけではない。この時点で教会医療伝道事業の土着化は、まだ進行の過程にあった。それは医療宣教師が目指していた土着化が、あくまでもキリスト教の慈善事業としての性格が守られた形での土着化であったことと関連する。つまり、中国教会や中国人クリスチャン医師がミッション系病院を直接管理、運営できるまでは、外国人医療宣教師が必要である、と彼らは考えていた。キリスト教とは関係ない中国人西医の増加、反キリスト教運動やナショナリズムの影響のなかで、医療伝道事業の土着化は医療宣教師の予想より速く進んだが、医療伝道事業への医療宣教師の働きかけは、その後も続いた。一例として、博医会と中華医学会の合併後、新しい中華医学会のなかには、キリスト教会の医療伝道事業を担当するための教会医事委員会が設置されたが、1950年まで、この委員会のなかで主導的な役割を果たしていたのは、中国人ではなく、外国人医療宣教師であった。

本論文で述べた教会医療伝道事業の土着化過程からみると、中国人クリスチャンが医療伝道の必要性を十分に認識していたこと、医療宣教師の活動が中国人クリスチャン医師によって継承されたことは明白である。つまり、医療伝道の効果という問題においては、単に改宗者の数から判断するのではなく、中国人クリスチャンや中国教会の観点から見直す作業が必要ではないかと考えられる。