現代朝鮮語において,終声(音節末子音/coda;final)を持つ音節,すなわち閉音節(closed syllable)に,母音(半母音を含む)で始まる音節が続くとき,当該の終声は後続する音節の初声(音節頭子音/onset;initial)として実現する.つまり,朝鮮語において,(C)VC+V(C)という音節連続が生じると,休止(pause)を入れない限り,(C)VC$V(C) と発音されることはなく,必ず(C)V$CV(C)と発音される($は音節境界).これを〈終声の初声化〉(initialization of finals)と呼ぶ.

一方,このような音韻論的環境のうち,後続音節が/i/や/y/で始まる場合((C)VC+i(C),(C)VC+yV(C))には,後続音節の初声の位置に/n/が挿入され,終声の初声化が阻止されることがある.これを〈n挿入〉(ㄴ삽입/ n-insertion; insertion of n)と呼ぶ.

本稿は,現代朝鮮語のこうした〈n挿入〉をめぐる諸問題について様々な視角から論ずるものである.

以下,本稿の梗概を述べる.

まず,第1章では,本稿の主題を提示し,以下の行論について素描した.

第2章では,〈n挿入〉がいかなる現象かについて,〈終声の初声化〉と対峙させつつ,具体例を挙げながら論じた(2.1.).また,〈n挿入〉をめぐる南北の表記法についても確認した(2.2.).

第3章では,〈n挿入〉に関する先行研究を通観し,問題点を批判的に論いつつ,併せて私見を述べた.

3.1.では,〈n挿入〉が本当に「挿入」なのかという問題について,/n/の「脱落」と見做す見解もあることに触れつつ考察し,〈n挿入〉が,後行要素の頭音として本来/n/を持っていなかった語や外来語,句でも生じる点,また,〈n挿入〉には義務的なもののみならず,選択的なものも多くあることなどから,「脱落」ではなく「挿入」と見るのが妥当であることを述べた.

3.2.では,〈n挿入〉が共時的に生産的な現象かという問題について,〈n挿入〉に生産性を認めない論考があることを述べ,検討を行なった.そして,〈n挿入〉が句や外来語でも起きることを根拠に,〈n挿入〉の共時的生産性を否定するのは穏当ではないとした.

3.3.では,〈n挿入〉がいかなる条件で起きるかという問題について,〈形態論的条件〉(3.3.1.)と〈語種論的条件〉(3.3.2.)の2つに分けて論じた.

まず,形態論的条件については,〈n挿入〉が生じるためには「後行要素が自立形態素でなければならない」とする見解と,それを否定する見解の双方が存在することに触れ,また,後行要素が自立形態素であっても〈n挿入〉が起きない語例が少なからず存在することを具体例を以て示し,諸研究の謂う「形態論的条件」とは厳密には「形態論的必要条件」と称すべきものであることを指摘した.

語種論的条件については,先行研究で指摘されている固有語と漢字語の振る舞いの差異(漢字語では後行要素の頭音が/i/の場合には〈n挿入〉が起きないなど)について,具体的な言語事実を挙げつつ,検証した.

3.4.では,〈n挿入〉がなぜ起きるのかという〈契機論〉についての既存の研究を〈音論的な契機〉(3.4.1.)と〈形態論的な契機〉(3.4.2.)に分けて概観した.

3.5.では,〈n挿入〉がいかにして生じるようになったかという,通時的な〈発生論〉をめぐる従前の研覈について略述した.

3.6.では,〈n挿入〉に関する既存の実態調査と社会言語学的考察について整理し,その問題点を剔抉した.

3.7.では,〈n挿入〉と사이시옷(間のs)の挿入の関係をめぐって,先行研究では両者を同一のものと見る立場と異なるものと見る立場があることを指摘した.そして,両者は抑々挿入される環境が異なること,相互排除的な関係にはないこと,通時的な発生が異なることを根拠に,〈n挿入〉と사이시옷(間のs)の挿入は別個の現象であることを述べた.

第4章では,〈n挿入〉の形態論的条件について仔細に論じた.〈n挿入〉が生じるためには「後行要素が自立形態素でなければならない」という形態論的条件の反例となる「後行要素が補助詞요の場合」,「後行要素が漢字語接尾辞の場合」等について,〈形態素の自立性〉とは何かという,言語学にとって極めて基本的かつ重要な問題を検討しつつ詳論した.前者については,服部四郎(1950/1960)の〈附属語〉,〈附属形式〉という概念を援用しつつ,〈結合要素の非選択性〉,〈分離性〉,〈交換可能性〉という,形態素の自立性に関するメルクマールに照らすことで,補助詞요がいわゆる拘束形式の中では自立性が相対的に高いことを闡明した.後者については,漢字語接尾辞を形態論および意味論的な視座から照射し,漢字語接尾辞は固有語接尾辞などと大きく異なり,形態論的にも意味論的にも自立性が高いことを指摘した.こうした事実は,とりもなおさず,〈n挿入〉の形態論的条件として,後行要素の自立性に対する着目が正しいことを意味しており,「後行要素が自立形態素でなければならない」という形態論的条件が穏当であることを立証し得た.

第5章では,〈n挿入〉がなぜ起きるかという問題を,〈通時的側面〉と〈共時的側面〉,すなわち〈発生論〉と〈機能論〉の双方から論じた.

まず,〈発生論〉については,고광모(1991,1992)の説に基づき,〈n挿入〉の起源を18世紀後半の,語頭における/i/,/y/の直前の/n/の脱落に求めた.そして爾来,〈類推〉(analogy)によって,合成語における子音の後という環境で,元来/n/がなかった語にまで/n/が挿入されるようになり,それに伴って,〈再語彙化〉(relexicalization)が進行した.この再語彙化によって,基底形から/n/がなくなり,/n/を含む形は「挿入規則」によって派生されることとなる.これが音韻規則としての〈n挿入〉の成立である.

そして,この成立過程は,音声学的蓋然性に支えられている.後行要素が自立形態素の場合のみに〈n挿入〉が起きうること,漢字語において後行要素の頭音が/i/で始まる場合には〈n挿入〉がほとんど起きないことも,この発生論的視座から説明可能である.

〈機能論〉については,〈n挿入〉を〈終声の初声化〉と対峙させて考えることで,その機能が〈形態素境界の表示〉にあることを明らかにした.また,〈n挿入〉の機能的剰余性の問題についても言及した.

第6章では,現代ソウル方言における〈n挿入〉の実態調査の結果記述およびその分析を行なった.就中,若年層(20代)のソウル方言話者33名をインフォーマントとして調査を行ない,その結果を詳細に記述,分析した.調査語句全1025個を「固有語」(6.1.),「漢字語」(6.2.),「外来語」(6.3.),「混種語」(6.4.),「句」(6.5.)の5種に分けて各々を論じ,〈n挿入〉の実現如何には,総じて後行要素の頭音が最も大きく関わっていること,また他にも,後行要素の長さ,先行要素の末音,なじみ度,語構造,後行要素の第1音節の音節構造,語句の長さ,発話速度など,多種多様な要因が抗衡しつつ,重層的に関与していることを明らかにした.〈n挿入〉のかかる実現様相はいわゆる規範と大きく乖離したものである.そして,こうした調査資料とその分析結果は,非母語話者に対する朝鮮語教育にも向後直接的に裨益しうることは贅言を要しない.

第7章では,本稿で述べたところを要約し,総括した.

以上,本稿で論じてきた〈n挿入〉をめぐる問いは,換言するならば,〈形態素〉と〈形態素〉が接合するときに一体何が起きるかという,いわば〈形態素接合論〉的な問いであったと言ってもよい.朝鮮語にはこのような,〈形〉と〈形〉が接合する際に生じる〈音韻論的現象〉ないし〈形態音韻論的現象〉が数多存在する.本稿の〈n挿入〉攷は,朝鮮語のそうした厖大な目眩く音韻システムの一端を描き出さんとしたものである.