本論文でとりあげるのは、世界で初めて十二平均律理論を発明した、明代後期の朱載堉(一五三六-一六一一年)である。朱載堉、字は伯勤、号は句曲山人、鄭王朱厚烷の世子である。朱厚烷が冤罪で投獄されたことが遠因となり、朱載堉は爵位を継承せず、懐慶府において学問に没頭する。朱載堉の大著『楽律全書』(一六〇七年)は、楽律学(音律学)・天文暦法・舞踏論・数学など十四種の著作を収める。

  朱載堉は、これまでの儒者が三分損益法とよばれる理論に依拠し、楽律を計算してきたことを批判した。その著作『律学新説』(一五八四年)の中で、新しい方法「新法密率」を提唱した。これが、現在の十二平均律理論にあたる。

三分損益法には、大きな問題があった。三分損益を繰り返し、黄鐘律から数えて十二番目に算出される仲呂律に、もう一度、三分損一を行って得られる音律は、もともとの黄鐘律のちょうど半分の長さになることはできない。もともとの黄鐘律の八度上(オクターブ上)と比べ、やや高くなってしまう。この問題は「往きて返らず(往而不返)」と呼ばれた。

朱載堉は、十二律の隣り合う二つの音律の律長比をすべて1:                         に統一した。十二律を計算し終わった後、再び1:の比を利用して計算すれば、もともとの黄鐘律の、ちょうどオクターブ上の黄鐘半律を算出することができる。つまり、朱載堉は平均律の発明によって、「往きて返らず」の問題を技術的に解決したのである。

 本論文は、思想史的観点から描いた中国音楽史、すなわち「経学としての楽」の歴史の中で、平均律を含めた朱載堉の音楽理論全体を捉えなおす。本論文の論述範囲は、孔子の音楽観から、老荘と玄学の楽論、漢代の律暦思想、隋・唐の外来音楽観、朱子学の楽律論、明代楽論、清朝の官製音楽理論書、江永の平均律理解、凌廷堪の燕楽研究に渡る。朱載堉が影響を受けたという楽論や、批判しつつも強い影響を受けている楽論と、朱載堉自身の楽論とを比較することで、また、朱載堉の楽論と、清代の楽論とを比較することによって、朱載堉の音楽理論の特徴を明らかにする。

 江文也が指摘するように、儒者の楽論は、象数易学の思想に彩られた楽律理論を中心に形成される。中国において楽は、基本的には経学のひとつとして認識された。『楽経』を持たない以上、楽はさまざまな議論を許容する可能性を有する。楽のうち、何を経学として扱うのかという問題は時代ごとに変化した。その中でも楽律学は、基本的には経学とみなされ続けた。劉歆の三分損益法に基づく楽律学は、易学・天文暦法・度量衡制と結びつき、その後の律暦思想の大きな枠組を作った。朱熹は蔡元定とともに三分損益律を整理し、『儀礼経伝通解』では楽律論を経として扱った。ただし、清代より前(『明史』芸文志、『四庫全書総目提要』より前)は、楽律論以外の著作も、たとえば琴の楽譜や歌詞、「胡楽」の楽器でさえも、経部に配される歴史を持っていた。すなわち、「経学としての楽」は、楽律論を中心としつつも、それ以外の楽論を内包する可能性を有していたのである。

 孔子が雅声と鄭声を厳しく区別する一方で、『周礼』が外来音楽をつかさどる官職を列挙するように、雅正でない楽もまた、「経学としての楽」の中に位置づけられてきた。そのため、しばしば誤解されるが、歴代の儒者たちは、決して「俗楽」や「胡楽」といった、当時流行した魅力的な楽――今楽を無視したのではない。中国音楽史は最初から、外来音楽との交流を持っており、儒者たちもまた、今楽を常に意識し続けたのである。ただし、彼らは無秩序に今楽を取り入れたのではない。演奏する機会や場所に制限を設け、つまり、雅正なる楽と差異化した上で、今楽を取り入れ、今楽を好む人々との調和をはかったのである。そもそもなぜ、雅正でない楽を取り込む必要があるのか。それは、『孟子』が論じたように、今楽の「人々とともに楽しめる」側面を重視するがゆえである。今楽が人々を調和させる力の大きさは見過ごせないものであった。

『荀子』もまた、楽を人間の「楽しみたい」という欲望に基礎づけた。楽の起源は礼と同様に、人間の欲望であり、楽は自然発生的に生まれたとみなしたのである。楽には、「人為」が介入しない「自然」な状態であることが強く求められた。この点に敏感に気づき、楽から「人為」をとりのぞき、「自然」に戻そうと試みたのが、『老子』や『荘子』であった。また嵆康は、人間の感情と楽とを切り離そうとした。しかし彼らの最終的な目的は、人間を何らかの境地に導くことであった。そのため、楽は聖人によってプログラムされなければならない。「自然」を志向しながらも、「人為」を完全に取り除くことはできない――「移風易俗」を宿命として背負うこともまた、楽の大きな特徴である。

朱載堉の音楽理論も、以上のような楽論の延長にある。朱載堉は、楽律・天文暦法・度量衡、この世界を構成するあらゆる制度、そして人間までもが、河図・洛書の理によって同貫される世界を理想とした。朱載堉は、劉歆の楽律学と、『漢書』律暦志に依拠した蔡元定を厳しく批判するが、朱載堉と劉歆の、朱載堉と蔡元定の世界観は非常に類似する。楽律・易学・天文暦法・度量衡を同貫させる枠組は、劉歆の律暦思想の影響を受け、河図・洛書を用いた象数易学は蔡元定の影響が大きい。たしかに朱載堉は、漢の律制に「人為」が介入し、律暦の合一を妨げているとして批判した。しかし、朱載堉の構築した世界もまた、果たして本当に「自然」であっただろうか。明初に造られた鈔、すなわち今尺という、明らかな「人為」を信頼する朱載堉の態度には、彼の理論がいかに「自然」を装おうとも、結局は緻密な「人為」によって構築される美しい世界に過ぎないことを示唆する。

朱載堉の今楽観にも、先秦以来の差異化と調和という楽の二つの側面が現われている。朱載堉は「古今融合」の楽舞を目指した。「音の起こりは、人の心から生まれたものである」ゆえ、人の心が変わらない以上、楽も変わらない。それゆえ、今楽により積極的な役割を付与し、人々にとって実践しやすい身近な存在として楽舞を構想した。もはや、礼が失われて、「仕方なく」野に出るのではない。野にある楽は、古楽を探究するための重要資料であった。今楽は、明代を経てさらに大きな意味を持つようになったのである。ただし、朱載堉はあくまで、古楽の精神をとりもどすために、今楽を取り入れたに過ぎない。つまり『孟子』と同様、「人々とともに楽しめる」点において今楽に価値を認めるのであり、今楽そのものに古楽以上の価値を認めたわけではない。楽舞においても、今楽はあくまで旋律を利用するに止め、歌詞は『詩経』を利用することをふまえれば、朱載堉もまた、雅正でない楽を差異化した上で、自らの理論の中に組み込んでいる。

朱載堉の音楽理論を概括するならば、先秦以来の、差異化と調和を重んじる礼楽思想にのっとり、『漢書』律暦志の律暦合一の枠組を、宋学の象数易学理論によって構築しなおし、「自然」たる世界を志向したものであると言えよう。このように考えれば、朱載堉の理論は、楽の思想史を着実にふまえた、儒者による「経学としての楽」のまさに典型であると言える。しかし、それではなぜ、朱載堉の理論はその後の清代において、すんなりと受容されなかったのだろうか。

 清代に入ると、『律呂正義』など官製楽律書は、三分損益法の「往きて返らない」数の変化こそを「自然」とみなし、平均律は、あまりに整えられた「人為」であると判断した。朱載堉にとっての「自然」な世界は、緻密な「人為」によって構築された、いつわりの「自然」とみなされてしまったのである。一方、江永は朱載堉の理論を支持した。江永は朱載堉の意図を奥深く理解していたがために、河図・洛書に描かれるあらゆる数理を、朱載堉の楽律理論の中に徹底的に読みこんでいった。江永は、楽律学と象数易学の連関を追究しすぎたのである。平均律は、より一層象数易学的に彩られ、その後、象数易学が放棄されると同時に、平均律も放棄されていく。三分損益法は、朱熹・蔡元定によって慎重に、象数易学との距離が保たれていた。このような象数易学との距離感こそが、「経学としての楽」における、三分損益法と平均律の命運を分けた原因ではないだろうか。

 清代後期になると、平均律も含めた数理的な楽律学そのものが低調になる。「経学としての楽」が大きく転換したからである。今楽重視の流れは、清代にさらに加速した。毛奇齢や凌廷堪は、これまでのような数理的な楽律研究自体を批判し、唐代以降隆盛を極める「俗楽」や「胡楽」の研究に没頭した。毛奇齢の笛譜研究も、凌廷堪の燕楽研究も、隋・唐以前の楽に遡ることはできない。彼らには、隋の鄭訳や唐の杜佑が行ったような、外来音楽と古楽を何らかのかたちで結びつけ、意図的に「経学としての楽」の中へ位置づけようとする態度すら見られない。また、朱載堉のように、黄鐘律管を『尚書』と『周礼』に結びつけ、経学的な正統性を持たせようとする意志すら見られない。清代後期に至って、「経学としての楽」は、数理的楽律論を中心とする楽論から、音楽一般に対する歴史的考証へと転換したのである。確かに梁啓超のように、毛奇齢や凌廷堪の革命的精神を評価することもできよう。しかし、このような転換をもたらした根本的な原因は、『楽経』を持たず、経学でありながらも、比較的自由な発想で議論をする余地を残した、楽の性質そのものにあるのではないか。「経学としての楽」の転換は、象数易学的要素を強く有する平均律への興味を放棄したが、新しく開かれた音楽研究は、「経学としての楽」の枠組を残しつつ、近代における中国音楽史研究へとつながっていったのである。