近代中国における日本企業の労務管理―内外綿株式会社を事例として―

芦沢 知絵

本論文の課題は、近代中国において大規模な工場経営を行った日本紡績企業(以下、在華紡)の労務管理について、詳しい形成過程と実態を分析することである。その上で、日本企業が労務管理を通じて、中国の労働者や現地社会と直接かつ相互にどのような作用を及ぼし合い、近代中国の社会経済にどういった影響をもたらしたのか考察する。

近代中国の社会経済を特徴づける重要な一面として、沿海地域を中心とした近代紡織業の発展が挙げられる。その発展に大きな影響を与えたのが、1910~20年代に中国へ一斉進出を果たした在華紡であった。もっとも、これまでの先行研究では、そのうちの負の影響のみが強調されがちであり、中国綿業「衰退」論や日本「帝国主義」論の文脈において、在華紡は国家や資本力を背景に中国市場を圧迫し、また厳しい労務管理による中国人労働者への「搾取」が、1925年の五・三〇事件に代表されるナショナリズム的労働運動を引き起こしたとされてきた。

こうした従来の在華紡像に対して、近年は各企業の経営活動を一括りに捉えず、詳細な個別分析にもとづき、中国の企業や労働者との関係性をより実証的かつ多角的に再検討し、その歴史的位置づけを見直そうとする試みがみられる。本論文も同様の研究視角を共有するものであるが、市場戦略や技術改良に関しての分析が進む一方、在華紡の工場経営の基盤であり、現地の中国人労働者との直接的接点ともなった労務管理の実態については、一次史料の不足もあって、なお十分な検討がなされていない。よって、本論文では在華紡の代表的企業であった内外綿株式会社(以下、内外綿)の上海工場を具体的な事例として取り上げ、中国の档案館(文書館)に残された同社の内部経営史料を新たに用い、その労務管理の形成過程と実態を、雇用管理・組織管理・福利施設の三点から詳しく分析する。

まず、第1章と第2章では、工場を操業する上で最も重要な、現地の労働力を確保するための雇用管理について分析を行った。

第1章では、労働者の採用制度の成立過程を追い、これまでの通説であった「包身工」と呼ばれる半請負的雇用制度の実態を再検証した。内外綿は中国進出当初より、現地で慣習的に用いられてきた労働請負制を廃し、労働者の直接募集を含めた直接的労務管理(直轄制)を導入した。さらに、1922年からは市場競争の激化と労働力不足にともない、本格的な「日本式」の養成工制度を実施した。しかし、十分な数の養成女工の獲得が困難であったことや、1925年の五・三〇事件で既存労働者の不満が表面化したために、その後はむしろ、大量に募集した経験者の中から一律の試験によって「優秀」者を選抜する独自の採用制度へと転換し、正規労働者の少数精鋭化が図られるようになった。

第2章では、第1章で示された経験者中心の採用制度が、どのような労働市場を背景に成立したのかを詳しく検証した。特に、内外綿の上海第3・4・5工場で作成された中国人労働者の名簿を分析し、工場の具体的な労働力構成と労働需給構造の解明を試みた。その結果、内外綿に勤める女工の多くが蘇北地域から内外綿周辺の工業地帯に集まった移住者であり、地縁・血縁・職縁などの私的「関係」を仲介に各工場を移動し、内外綿への入退社を繰り返していた状況が明らかになった。そこから、内外綿をめぐる上海の労働市場の特徴として、日本国内とは異なる経験者の大量供給・大量需要という循環的な労働需給構造があったといえる。

次に、第3章と第4章では、生産現場において労働者の働き方を規定し、作業能率を維持し向上させるための組織管理について分析を行った。

第3章では、組織管理の根幹ともいえる、賃金制度の成立過程とその運用方法を検証した。内外綿は中国進出当初より、すでに他社が導入していた出来高給制と日給制を併用し、これらの基本給に各種の賞与・手当や罰金を含む附属給を組み合わせて、作業能率の向上と勤続促進を図った。しかし、五・三〇事件の際にその複雑な賃金体系が批判対象になったことで、1930年代には等級制にもとづく基本給のみの体系へ一本化されていった。一方、実際の運用方法としては、工場全体の平均賃金の均衡を保ちつつ、個人賃金額を差別化することが求められた。さらに、実質賃金の保証が社会的課題になると、生活物価に合わせた目標平均賃金額が定められ、個人の成績・技能を査定基準としながらも、実際は各現場の相対評価によって等級や賃率が微調整されるようになった。

第4章では、組織管理上の中間管理的職務を担った中国人職員・労働者に注目し、中国人管理者=「特選工」と監督的労働者=「役付工」が階層組織化される過程、及び各層の位置づけと役割を明らかにした。内外綿は1910年代より「日本式」階級制度を導入し、一部の中国人技術工を「特選工」として末端職級に位置づけ、日本人職員による生産管理を補佐する役割を担わせた。さらに、1919~25年にはこれらの中国人管理者の増員策を打ち出し、工務・事務を含む「特選工」階層が組織化された。しかし、五・三〇事件後は「特選工」の特権化が問題となり、より下位職級である「役付工」が管理的職務を代替し、監督的労働者として増員されるようになった。その結果、1930年代には日本人職員-「特選工」-「役付工」という分断・細分化された階層組織が形成されていった。

第5章では、工場の生産現場以外の労務管理の場として、社宅・工場付属施設・子弟学校といった福利施設に注目し、その導入過程と施設経営の展開を追った。福利施設は「日本式」労務管理の最大の特徴ともいえ、日本国内の工場では労働意欲の増進を目的とした「温情主義」的慰労設備として拡充が図られてきた。一方、中国では生活習慣や価値観の違いからすぐには普及せず、内外綿は労働者の勤続推進や工場内の規律・衛生の管理、また日本的な文化・道徳観念の浸透を目的に、労働者の便宜を図りつつも半ば強制的に施設を導入した。しかし、五・三〇事件の際にはそうした方法がむしろ労使対立の一因として批判され、その後はわずかな改善を除いて福利施設が拡充されることはなかった。

これらの分析から、内外綿の労務管理の特徴として以下の三点が示された。

第一に、内外綿の労務管理は主に四つの段階を経て形成された。第一段階の1911年~1919年前後は、工場開業に際して直接的労務管理の導入が進められた時期である。第二段階の1920年前後~1925年は、市場競争の激化もあってより積極的に「日本式」労務管理の方法が移転された時期である。第三段階の1925年~1937年は、五・三〇事件を契機として「日本式」によらない独自の管理方法が模索された時期である。第四段階は1937年~1945年の日中戦争期である。

第二に、このうちの第三段階の模索期は、内外綿がある種の「現地化」を試みた過程であったといえる。第二段階で日本国内から移転された「日本式」労務管理は、そのままでは中国の労働事情に馴染まず、五・三〇事件によって各種の問題点が明らかになった。よって、その後は中国人労働者との摩擦と譲歩を重ねながら、より現地社会に適応した独自の労務管理が形成されていった。ただし、それらはあくまでもストライキ防止や労働能率の向上を目的としたものであり、中国人労働者の反発を受けずに生産性を高めるための最も「効率的」な管理方法が選択された結果にすぎなかったとも捉えられる。

第三に、一方こうした「現地化」の過程において、中国人労働者に対する「勤勉」観念の伝播がみられた。第二段階の「日本式」労務管理も、労働の規律化・能率化を目的とするものではあったが、その方法は中国人労働者の反発を招いた。しかし、第三段階で模索された独自の労務管理方法には、作業能率や労働意欲を向上させるためのしくみが内包されており、中国人労働者は工場での実際の作業を通じて、体験的かつ短期的に「勤勉」観念を受容していくことになったのである。

このように、日本企業と中国人労働者の相互作用を経て、試行錯誤の末に形成された在華紡各社の労務管理制度は、「中国に適する」方法として他の中国企業にも模倣されていった。さらに、それは同時代だけでなく戦後の中国紡織業にも継承され、その点で在華紡の労務管理は近代中国の紡織業史及び社会経済に深く関わったと結論づけられる。

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