本論文は、イタリア近代最大の抒情詩人ジャコモ・レオパルディ(1798-1837)の思想と詩の世界を主題としている。レオパルディの「自然」に関する思索と詩論を背景に、その詩想(詩に詠み込まれた意味・メッセージ)を浮かび上がらせ、また彼の生に即した詩作の意義を明らかにする。

 第1部では、レオパルディの詩論および、詩論と不可分の関係にある「自然」観について論じる。第1章では、レオパルディにとっての「詩的霊感」の性質を考察することで、その詩作の方法に迫る。イタリアにおける「古典主義/ロマン主義論争」の文脈で書かれた1818年の『論考』で彼は、近代(ロマン主義)の詩を非難し、古代人の「想像的な」詩を賞賛した。文明化して哲学的・科学的な知を獲得したことによって喜ばしい幻想を失った近代においてもなお、古代の詩作を模範とすべきであるという考えは、しかし、『省察集』の1821-23年頃の記述で変化を見せ始め、近代においてはもはや古代人と同じように詩作することは不可能ではないかと考えるようになる。実際、その時期の一連のカンツォーネは、古代への憧憬を示しながら、幻想が失われたことを嘆く「情感的・思弁的な」色合いを帯びている。それはとりもなおさず、近代の哲学的契機から生まれた詩である。そこで彼は、相容れないはずの古代と近代、詩と哲学の和解を「天才」の「一瞥」に求める。それはレオパルディの「詩的霊感」と同義であり、孤独な瞑想の中で導き出される神懸かり的な熱狂状態において獲得される。

 第2章では、「自然」の問題を扱う。レオパルディの「自然」観は非常にロマン主義的であるが、それはスタール夫人からの大きな影響によるものだと考えられる。とりわけ重要なのは、「自然」の真の姿を捉えるための方法、すなわち世界認識の手段を「想像力」に求めていた点が、両者に共通していることである。レオパルディが想像力によって捉えた「自然」は、スタール夫人もそうであるように18世紀以前の調和に満ちたシステムという見方を継承しているが、しかし、それはきわめてネガティヴなものであり、息子である人間を不幸に運命づける「継母」のごとき存在とされる。しかしレオパルディは、古代的な想像力と近代的な理性の統合を目指すことによって、『省察集』で論じた独自のペシミスティックな自然観に、『カンティ』の中で美しい詩的表現を与えた。

 第3章では、自然観についてのさらに踏み込んだ考察を行なう。レオパルディの著作における相反する性格の2つの「自然」――《自然とアイスランド人の対話》に象徴的に示された、善としての自然と悪としての自然――の意味を、詩的作品『カンティ』『オペレッテ・モラーリ』と理性的思索の書『省察集』を中心に、年代を追って詳細に検討することにより明らかにする。善なる自然は、彼の世界認識において、調和に満ちた体系として宇宙全体の法則を司る。悪の自然は、同じ体系でありながら、人間を幸福にしてくれないどころか、苦悩を与えつづけ不幸に運命づける。前者は全体を見る視点により理性的に捉えられた自然であり、後者は一度限りの短い生を生きる個人の視点により感情的に捉えられた自然である。レオパルディの思想におけるペシミズムの拡大に伴い、悪としての自然が次第に際立ってくるようになるが、それはこれまで研究者たちが論じてきたような、善から悪への移行でもなければ、2つの自然観の間での揺れでもない。レオパルディの中で両者はつねに同居しており、次第にその比重が悪としての自然を表現する方へと傾いていったのである。

 第4章では、レオパルディの詩論と自然観――詩論に修正が加えられ、次いで詩作から神話が姿を消した過程と、自然観において善悪の比重が移りゆく過程――が相互に深く結びついているのではないかという仮定を検証しながら、これまでの考察をまとめる形をとる。1828年、レオパルディは伝統的な「自然の模倣」理論を否定するに至る。そこでは「自然」が詩人の「内なる自然」である感情として、ロマン主義的に読み換えられている。独自の抒情詩論を確立したこの年代は、悪としての自然への感情表出が詩作品中で高まり、『省察集』で自然を「悪の秩序」と呼んだ時期と一致する。

 第2部では、代表作である詩集『カンティ』に表れた詩想を「無限」をキーワードとして詳細に解読する。第1章では、有名な短詩《無限》を中心に分析する。レオパルディは『省察集』の中で、たびたび「無限なるもの」に言及し、「漠然とした非限定的なvago–indefinito」というキーワードとともに、それが齎す快楽について語っている。「無限なるもの」とは、すなわち、「遠さ」(時間的距離にかかわる場合には「永遠性」や「過去・未来」)「夜と薄明」「死」「幸福」「愛」などにかかわる諸概念のことである。たとえば遠くにある事物、あるいは暗闇の中にある事物は、その輪郭が非限定的であり、現実には知覚不可能であるため、想像力の発動を促す。彼の「無限」をめぐる詩想が集約された《無限》を分析してみると、その表面的な内容からだけでなく、語法や文体からも「無限」を志向する様々な要素=“無限の標示”が含まれていることがわかる。該博な古典学者でもあったレオパルディは、イタリア語の「無限infinito」に対応するギリシア語「アペイロンάπειρον」の原義が「境界の不在」であることを意識していたのであろう。この詩においても、「無限の標示」の徹底した使用により、あらゆる境界の消失する絶対的な無限を表現している。レオパルディにとっての「無限」の快楽は、天上における忘我脱魂のエクスタシスときわめて近いものである。そして、そのような快楽の経験を詩という想像世界に託して表現することは、不幸な現実世界で失われてしまった生命力を取り戻す営為であり、幸福への強い希求と深く結びついている。

 第2章では、レオパルディの「無限」に関する思想をふまえた上で、「無限」なるものに分類される概念のうちでも特に彼の詩作にとって重要であると考えられる「追憶」をテーマとして扱い、それが詩作にたいして果たす役割について論じる。たとえば、《シルヴィアに》と題する詩は、「シルヴィア、おまえはまだ覚えているか?」という問いかけによって「追憶」を導入している。そこで語られるのは、自らの幸福な幼年時代である。過去の幸福は否応なしに現在の不幸を際立たせるが、それにもかかわらず詩人が追憶へと向かうのは、過去の記憶が「漠として不確定的」であるために「心地好い」からであり、また召還される過去の記憶がたとえ不幸なものであっても、追憶の中では「甘美な」ものとなるからである。また彼は『省察集』の一節で、「世界は二重である」という考えを呈示し、耳や目で捉えられる事物の他に、想像力によって捉えられる事物がある旨を語っている。まさに「追憶」の世界のことである。「追憶」は、正確には「記憶の呼び戻し」ではなく、想像力による過去の「再現」だからである。それゆえ、自らの経験をもとにした彼の詩は、すべて想像力による創造世界を描いたものだということができる。「追憶」がレオパルディの詩作の源泉になっている事実は、《タッソとジェニオの対話》の内容と“genio”の語義を検討することによっても確認される。つまりこの作品において、詩人タッソの対話者であるジェニオとは、詩的霊感の寓意像であり、また神と人間を仲介するダイモン――実際、境界の消失する薄明の中でタッソにエクスタシス的快楽を齎す――でもあるだが、そのジェニオはタッソに、かつて愛した女性の「追憶」を喚起する者なのである。

 第3章では、《嵐の後の静けさ》と《村の土曜日》における「回帰・反復・継続」のモチーフを文体とイメージの両面から詳細に分析する。現在形で語られるこれらの詩もまた、詩人によって繰り返し体験された記憶にもとづくが、しかし現実とは異なる、いわば「非-時間」の詩的想像世界を描いている。「回帰・反復・継続」のモチーフは、レオパルディの「追憶」の中で奏されることにより、追憶自体が内包する非-時間性を増幅し、直線的時間論に還元されることのない「永遠性」――それは「無限」の快楽を齎す――を喚起している。それを踏まえた上で、彼の詩想がけっしてネガティヴなものではなく、むしろ生にたいする意志を示している可能性を論じる。

 第4章では、「愛と死」をテーマとする一連の詩を取り上げる。まず、レオパルディの作品に頻出する死の瞑想(願望)が、「無限」の観想や「眠り」などの「擬似的な死」として表現されていることを明らかにする。次に、愛の「無限性」と、愛の思いが詩人におよぼす作用――彼は実人生においても愛と幻滅の体験をしている――について分析を行なう。愛は「無限」の快楽を齎すものではあっても、「擬似的な死」とは違い、レオパルディに生き生きとした激しい感情を呼び覚まし、「真に生きている」と感じさせる唯一の幻想であった。それゆえ詩人にとって「愛と死」のテーマは、ロマン主義的な「愛と死の甘美な融和」を表現するものではなく、「愛か死か」という激烈な二者択一に関わるものであった。

 レオパルディの「孤独な生」は、『カンティ』を覆い尽くす夜の闇と薄明の世界に他ならない。その闇のうちにあって、彼は透徹したまなざしで自分を取り巻く世界を見つめ、不幸な真実を見抜いた。その苦悩に耐えるために、「無限」の観想に慰めを見出し、生きる力を得た。そして彼は、孤独と観想の夜の闇の中から、現世の昼の光に向かって『カンティ』という美しい歌をさし出したのである。