春秋戦国時代の燕国と遼寧地域に関する考古学的研究

石川 岳彦

燕国は西周時代から春秋戦国時代にかけて、現在の中国河北省北部、北京市、天津市を本拠地とした国である。本研究では「戦国の七雄」と称されるまでに勢力を拡大する前6世紀以降を中心に春秋戦国時代の燕国と、燕国が勢力を拡大した遼寧地域(中国遼寧省、内蒙古自治区東南部)を対象として考古学的考察をおこなった。さらにその後の漢時代以降に遼寧地域の東部、遼東に春秋戦国時代の燕国が残した影響についても考察をこころみた。

燕国については『史記』をはじめとする文献史料に記載がある。しかし、その記述は概略的かつ断片的で、春秋戦国時代の燕国史全体を詳細に知ることは難しい。このように文献史料の乏しい燕国の歴史を探るには、調査成果の蓄積が進む燕国の遺跡や出土遺物にもとづく考古学的研究は重要なアプローチである。

本研究では、まず序章で研究の意義と枠組みを示し、続く第1部(第1章~第6章)では燕国関連遺跡や出土遺物の調査成果をもとに、各種遺物について相互の併行関係を明確にした総合的編年をおこなうとともに燕文化の特徴を明らかにした。

1章では燕国青銅器の編年をおこなった。中国古代青銅器は君主名などの銘を有する資料が多く、実年代を知るのに恰好の遺物である。そこで、これまでの編年研究の問題点をあぶりだし、青銅器に銘を残す燕国の君主の一人である「郾侯載」の比定に関する新たな考察も加味しながら燕国の青銅製礼器や銅戈について四期編年を示した。また、銅戈に関しては各型式について前6~前3世紀までの年代的位置づけを遼西との関係も視野に入れながら示した。

2章では燕下都遺跡の調査成果によって情報が大幅に増加した日用土器の編年をこころみた。日用土器については燕下都郎井村10号工房遺跡の調査成果をもとに三期に編年した。とくに燕国領域内で多数出土し、多くの研究者に注目されてきた釜形土器については地域性をも考慮しながら、前6~前2世紀までの編年を詳細におこなった。

3章では副葬土器の編年をおこなった。副葬土器は戦国時代を中心に燕国で広く普及し、独自の展開をみせた。この副葬土器について五期編年を示した。また墓における副葬土器の器種組成の違いが被葬者の階層差の表出であり、副葬される器種と数について、被葬者の階層に応じた燕国独自の強い規制が存在したことを明らかにした。

4章では燕国の貨幣である明刀銭の実年代観を再検討した。これまでの明刀銭研究をまとめ、現在もっとも説得力のある明刀銭の相対編年となっている石永士らの編年の実年代観について、燕下都郎井村10号工房遺跡の調査成果と前章までの各種遺物の編年によって得られた実年代観をもとに再検討をこころみ、彼らによって示されている明刀銭の各型式の具体的な実年代を提示した。これらの再検討の結果、新段階の形態的特徴とされる「折背」の明刀銭出現の画期は前4世紀後半~前3世紀初め頃にあることが判明した。

5章では春秋戦国時代の燕国における鉄器について論じた。この時代に鉄器が社会に与えた影響は極めて大きい。本章では、燕下都遺跡の調査成果をもとに、燕国における鉄器出現と普及の状況を考察した。燕国では前5世紀から非利器を中心に鉄斧などで鉄の使用がみとめられ、前4世紀に入るとそのほかの農具や工具、剣といった武器などの利器にも本格的に鉄が利用される。その後、前3世紀には鉄器の器種、出土量ともに大幅に増加することを具体的に明らかにした。

6章では燕国の墓に副葬される青銅器や副葬土器、そのほかに鉄器や貨幣の生産について、隣接する中山国と比較しながら、燕文化と燕国社会の特徴を探った。その結果、副葬品としての青銅器や副葬土器については、燕国や中山国、三晋諸国、東周王室では基本的な器種組成に共通性があるものの、同一器種でも国により形態や文様に違いがあり、上位階層者の墓の副葬品ほど燕国の独自性が強くなる様相が明らかになった。一方、鉄器や青銅器の製作技術については、鋳型の比較などから燕国と他の国々との共通性が比較的強いことが判明した。

 

2部(第7章~第9章)では、これまで燕国の動向に関する断片的な文献史料の記載を参考にしてなされることの多かった燕国の遼寧地域への拡大の年代とその様相、さらに漢時代以降の遼東の地域性に対する春秋戦国時代の燕文化の影響について、第1部の成果である各種遺物の編年を駆使しながら考察した。

燕国は春秋戦国時代に、それまで独自の青銅器文化を展開していた遼寧地域に勢力を拡大したことがしられる。燕国の東方への拡大は遼寧地域の青銅器文化に終焉をもたらしたのみならず、さらに東の朝鮮半島や日本列島への鉄器流入の契機となり、これらの地域における社会変動のきっかけにもなった。

7章では遼西への燕国拡大の様相について当該時期の墓と出土遺物を中心に分析した。近年、遼西では燕国関連の遺跡と遺物の調査報告が増加している。第7章では遼西への燕国の拡大と燕文化の浸透について、各地の遺跡の出土遺物をもとにマクロな視点から考察するとともに、ミクロな視点からの分析を燕国系墓と在地系墓が一つの墓群をなす遼寧省朝陽市袁台子遺跡王墳山墓群についておこなった。

続く第8章では遼東への燕国拡大の様相を分析した。遼東には、燕国墓のほかに遼寧省大連市牧羊城遺跡といった城砦遺跡がある。筆者が実施した牧羊城遺跡の出土資料整理調査の成果も取り入れて考察した。

以上の第7章と第8章の考察などを総合すると、燕国の遼寧地域への拡大は次のような経過をたどったことが判明した。

遼西では前6~前5世紀にかけて在地の青銅器文化の墓に燕国の青銅製礼器や銅戈などが副葬される。ただ、この時期には遼寧式銅剣や遼寧式銅戈(遼西タイプ)といった在地の青銅器が存在し、燕国青銅器の流入がこの地域に対する燕国の支配を示すとは考えられない。前4世紀にはいると、遼西では遼寧式銅剣などの在地的青銅器はなくなり、燕国の副葬土器をもつ墓が登場する。袁台子遺跡王墳山墓群の分析によると、この地域の墓の燕国墓への変化は前4世紀前半に在地社会の上位層の墓からはじまり、この地域が燕国社会に取り込まれていったことを示す。一方で下位層の墓は前3世紀にかけても在地系土器を主に副葬し続ける。また前4世紀後半の遼西社会の最上位層の墓には燕国の中心地域にはない多数の動物頭骨の副葬といった北方地域の在地的要素がみられ、燕国進出後の地域性の残存を示している。

他方で遼西から燕国への影響も存在する。燕国の銅戈には援に樋をもつ銅戈が存在し、上限年代は前4世紀である。この有樋銅戈は前6~前5世紀の遼寧式銅戈(遼西タイプ)の影響を受けて出現したと考えられる。燕国における有樋銅戈の出現期は、まさに遼西で燕国墓があらわれる前4世紀である。このように遼西の「燕化」は、燕国による一方的なものとは考えにくい。前6~前4世紀にかけて、遼西(とくに在地首長層)と燕国が相互交渉を経て一体化し、遼西が燕国の領域に組み入れられたと考えられる。

遼東への燕国の進出については瀋陽遼陽地域では前4世紀の遼西とほぼ変わらない時期に燕国墓が出現する。一方、遼東半島先端部では前4世紀後半に在地の遼寧式銅剣を副葬する墓で燕国の土器が出土するなど、燕文化の流入がみられる。遼東半島先端部では前3世紀には、牧羊城遺跡のような燕国の城砦の存在も確認される。遼東山地以東の地域では、前3世紀にかけても在地の遼寧式銅剣文化が続く一方で、燕国系鋳造鉄器や明刀銭の存在などから燕文化の流入が確認でき、燕国が城砦を築造して拠点的に進出したと考えられる。

9章では燕国の滅亡後、漢時代から西晋時代にかけての遼東の遼陽瀋陽地域の副葬土器と墓制の編年、および遼東半島との墓内空間利用原理の相違について、燕文化との関連も視野に入れて考察した。漢時代から西晋時代の遼陽瀋陽地域では、竪穴墓から室墓へと墓の構造は変わっても、副葬品を被葬者の頭側に配置する墓内空間利用のありかたは変化しない。これは中原中心地域で流行する穹窿天井の塼室墓をいち早く導入し、副葬品も被葬者の横に置く遼東半島のこの時期の墓の様相と大きく異なる。この遼陽瀋陽地域における墓内の空間利用原理は春秋戦国時代の燕国墓で一般的なものである。遼陽瀋陽地域で漢時代以降も地域性として残る墓内空間利用原理は、春秋戦国時代の燕国墓の伝統を受け継いだものと考えられ、遼東における墓内空間利用についての二地域の相違が、この地域への燕国の進出時期差によるものである可能性を指摘した。

 

最後に、終章ではここまでの考察の成果と新たに浮び上がってきた課題をまとめた。

本研究により春秋戦国時代の燕国に関する考古遺物の総合的編年が示され、燕文化の特徴を明らかにすることができた。また、一連の編年研究による新たな年代観をもとに、春秋戦国時代における燕国と遼寧地域の関係を考古学的にとらえなおすことができた。文献史料の断片的記述を参照しながら形成されたこれまでの燕国の東方への領域拡大像とは異なる新たな燕国と遼寧地域の関係史を提示することができたと考える。

燕国の遼寧地域への拡大は朝鮮半島や日本列島の古代文化に鉄器の流入などを通して多大な影響を与えたとされる。2003年以降、日本考古学界で議論が続く日本列島の弥生時代実年代問題でも、日本列島への鉄器流入期である弥生時代前期末から中期初頭の実年代が、燕国の遼寧地域への拡大時期に相当すると認識されている。

本研究はこれらの地域における先史文化の実年代をめぐる議論の行方にも大きな関わりをもつであろう。

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