本論文では17世紀前半における朝鮮の対明清貿易政策の展開について論じた。17世紀前半の時期は明から清へ中国の統一王朝が交替する時期にあたり、朝鮮の19世紀末までの国際環境の基礎が形成される時期であることから注目されるものの、朝鮮の対明清関係史の研究のなかで、貿易に関する分野は未だ課題が多い。例えば貿易によって銀や、薬材といった貴重な物資を朝鮮は入手することができたが、その輸入のために使節団の貿易や国境地帯での貿易を朝鮮がどのように管理していたのかということはらかでない。

そこで本論文では、朝鮮、明、後金(清)という複数の国家の年代記史料(『朝鮮王朝實錄』や『明實錄』、『清實錄』など)、外交文書を用いて17世紀前半における朝鮮の対明清貿易政策の展開について論じた。

第1章では、壬辰・丁酉の乱後における朝鮮の対明貿易政策を探るべく、朝鮮が中江開市と燕行使貿易に対してとった態度の違いについて、その詳細と背景を考察した。
 壬辰・丁酉の乱後、朝鮮の対明貿易は朝明国境における中江開市と明の勅使、朝鮮の燕行使の三手段で行われた。朝鮮は中江開市に関して、三度も明に廃止要請を出すなど消極的な姿勢を示した。一方で朝鮮は燕行使の往来に合わせて火薬原料を輸入し始め、銀の輸出を行った。朝鮮は燕行使貿易には積極的であった。

こうした中江開市への消極姿勢と、燕行使貿易への積極姿勢の違いの背景には、朝鮮が従来の朝貢で経済的な利益を受けていたことがあった。燕行使の貨物は明から免税とされていたのに対し、開市貿易は明から課税された。また、開市貿易では取引形態が朝鮮商人に不利なものであり、朝鮮の機密情報が流出するという問題もあった。結局、光海君5(1613)年には朝鮮は明との互市貿易(中江開市)を廃止することに成功し、朝貢貿易である燕行使貿易を継続させた。16世紀以降に中国周辺で活発化した互市貿易に対して朝鮮は利点をさほど見いださなかった。

2章では、壬辰・丁酉の乱後の朝鮮による対日通交の再開過程と、明による朝鮮の対外貿易への関わりを考察した。

光海君元(1609)年には朝鮮は対馬と己酉約条を結び、東萊での日朝貿易が正式に再開した。その貿易には封進回賜、公貿易、倭館における開市、密貿易の四種類があった。日朝通交が再開した後、朝鮮は日朝通交の現場である倭館においては倭人を倭館に滞留させない開市日程作りや、明の禁制品を含む貿易品の取り締まりをおこなった。明は官を東萊に派遣して日朝通交の実態調査を行っていた。

光海君元(1609)年に明の朝貢国であった琉球が日本の薩摩に征服されてからは、明は日本に対して警戒姿勢を強め、朝鮮での倭館貿易も問題視された。明皇帝は朝鮮に対して歳遣船の制限、倭館における倭人滞留の取締を直接に要求した。朝鮮は明から一定の範囲内ではあるが対日貿易の承認を取り付けたといえる。

このように壬辰・丁酉の乱後、日本から朝鮮を経て明へ向かう貿易経路が再開されたわけであったが、明が朝明貿易においては商取引の活発化を企図した介入(中江開市への誘導)を図ったのに対し、朝日貿易に対しては商取引の活発化を図らず、むしろ取引の抑制を求めていたことがわかる。

第3章では、第1章と第2章で見たような17世紀初における朝鮮による貿易の取り組みのなかで、輸出物資が実際にどのように取り扱われたか、人蔘を例に論じた。人蔘の流通過程、および流通に対する朝鮮の施策の背景と意義について論じた。

この時期、朝鮮は明に対する使節派遣のたびに人蔘献上を行なっていたが、朝貢用の人蔘の調達が厳しかった。戸曹は邑に対して人蔘納入を賦課していたものの、邑が実際には納入できなかったためである。

このような人蔘の調達難は、宣祖26(1593)年にはじまった中江開市経由の明向け人蔘輸出の盛行と関連があった。政府の官庁が人蔘取引を行なうことも実際に見られ、密貿易も盛んに行われていた。

それゆえ戸曹は宣祖37(1604)年に、人蔘商人に対し、戸曹と開城府が発行する通行許可証の所持を義務付け、人蔘取引を統制下に置くことにした。朝貢用の人蔘の確保と、明向けの人蔘私貿易の継続を図るための施策であったといえる。朝鮮による人蔘取引の規制は、16世紀末の明との人蔘貿易拡大に対処する中で、明への朝貢品確保という外交上の要請から形成されたのであった。

第4章では光海君13(1621)年から仁祖15(1637)年にかけて朝鮮が明への朝貢に際して海路を利用した際に、発生した使行の内容変化について、特に貿易の変化や同時期に発生した問題を考察した。
 朝鮮使節の明への使行経路は光海君14(1622)年から仁祖5(1627)年ごろまでは宣沙浦から登州という経路であった。その後仁祖6年には石多山から登州に変わり、仁祖7年には明によって石多山から寧遠に至る経路に変更を強いられた。海路になったことで朝鮮政府は、使節の一行が朝鮮と登州を往来する際や、登州に留まる際に、船を糧米の購入・運送に行うことを企図し、実際に実行された。

一方で問題も生じた。それは第一に、出港地までの沿路邑の負担が増大したことである。第二に、使節団のなかで密輸が行われたことである。第三に、仁祖6(1628)年の後金と朝鮮との貿易開始により、海路使行貿易が明から後金への援助行為とみられる恐れが生じたことである。さらに毛文龍は朝鮮使節の船や貨物を略奪して朝鮮の中継貿易を牽制した。

これに対し、朝鮮政府は使節団の出帰帆地に中央から御史を派遣し、使節団の荷物を検査することで対処した。また明政府は使節団の貨物検査を行った。

朝鮮の海路を通じた対明使行をみると、朝鮮が決して海路の利用に否定的であったわけではなく、変化に順応しようとする動きもあったといえる。ただ海路利用を制限する要因には、官僚による海への恐れといった要因だけでなく、朝鮮の沿路邑の負担という財政的要因や、明による後金との貿易への警戒、明将による略奪といった外交的要因も存在した。

第5章では仁祖6(1628)年からの朝鮮の対後金貿易政策について論じた。

仁祖5(1627)年の盟約締結後、後金は朝鮮に貢献を要求し、結局朝鮮は貢献を送った。続けて後金は朝鮮に開市を要求し、義州と会寧で開市が行われるようになった。しかし開市には朝鮮の商人と商品は集まりにくく、後金使節は漢城や平壌など朝鮮内地に入った際に取引を行うようになった。朝鮮は後金との商取引に消極的であったが、自国使節が後金に入る場合には商人を帯同させていた。

貢献については、朝鮮は後金の要請に応える場合と応えない場合があった。開市場での取引においては、朝鮮政府は朝鮮商人が価格面で不利に置かれた場合は商人を保護するために外交交渉を行った。一方で朝鮮商人の中に後金使節に対して不正を働いた者が発覚した際には朝鮮政府は取締を厳格に行わず、朝鮮の政府機関が越境採蔘を促進することさえあった。朝鮮は後金との貿易において弊害が多くても貿易を中止したことはなかった。

朝鮮が、消極的ながら後金貿易を継続した姿勢の背景としては当時の国際情勢があったと考えられる。朝鮮は明、後金、日本との間に貿易の窓口を持っていた。当時の東アジアでは最多の窓口数である。朝鮮からみれば後金は明産品、東南アジア産品、工芸品を輸出する格好の相手であり、明や日本への重要な輸出品である人蔘を輸入できる存在であった。

 第6章では、朝鮮の対清貿易政策が仁祖151637)年から仁祖221644)年にかけてどのように行われたのかを探った。

丙子の乱(仁祖15年)で清に降伏した朝鮮は明と断交した。朝鮮は使節団を清に定期的に送るよう義務づけられ、朝鮮は清への人質として世子らを瀋陽に送ることとなった。さらに朝貢に際しては朝鮮から方物が献上され、年に一回歳幣も納めさせられることとなった。ほかに会寧での開市が仁祖16年に始められ、規則が整備されていった。

朝清間には朝貢と会寧開市以外の貿易も存在した。朝鮮の世子が滞在した瀋陽館は朝鮮から清への物資輸出の窓口となることが多かった。ほかに瀋陽において朝鮮による被虜人の贖還が行われたが、朝鮮使節一行のなかで贖還を偽装した貿易が行われると、国王自ら貿易の取り締まりを命じることとなった。

朝鮮は、朝鮮と清の間で、瀋陽館に所属した官吏、平安道所属の軍官、漢城から派遣される使節団や訳官の三者を往来させた。ただ物膳輸送の駄数厳守といった施策が行われたことを考えると、朝鮮は朝清貿易の拡大をそれほど望んでいなかったものと推測される。

朝鮮の官吏や国境地帯住民による密貿易は存在した。朝鮮政府は官吏によるタバコ、青布などの清への携行を禁止し、明と密輸を行っている疑念を清にもたれないように図っていた。

仁祖151637)年から仁祖221644)年の間は、朝鮮は清との間では通常の朝貢と開市(会寧)に加え、瀋陽館を通じた貿易を行うなど、貿易の手段が結果として多様化したことが大きな特徴といえる。瀋陽館に朝鮮の官員が王世子の世話のために常駐していたこと、平安道から物資の送付のためにほぼ定期的に官吏が瀋陽との間を往来していたことから、瀋陽館を通じた貿易が可能になったのは間違いない。

以上のように本論では、1590年代から1640年代にかけての、朝鮮による対明清貿易管理政策の展開について考察した。朝鮮は朝貢による貿易を最も選好し、明との貿易においては中江開市があっても廃止に追い込んだ。明との連絡路が海路になると、朝貢団の規模を拡大させていた。一方、朝鮮は後金(清)とは仁祖61628)年から貿易を開始させたが、それは開市を初期から含むものであった。丙子の乱で清に朝鮮が服属した仁祖151637)年以降は明との貿易が絶たれ、清との貿易に一本化された。そこでは朝貢と開市のほかに、清の人質となった王世子が起居した瀋陽館を窓口とする貿易が行われた。明との貿易時期に比べると朝鮮の対中貿易の経路は三経路以上に増加した。