後期旧石器時代における石器群の構造変動と居住行動に関する研究

富樫 孝志

本論文では、従来の日本旧石器時代研究で伝統的に採用されてきた文化系統論・段階論的な研究の視点と方法を排し、近年、世界の先史考古学研究で研究の蓄積が進んでいる行動論的方法に基づき、静岡県磐田原台地を研究対象として、後期旧石器時代における石器群の構造変動と居住形態に関する新たな研究成果を提示した。

磐田原台地では、1980年に寺谷遺跡の本格的な発掘調査報告がなされて以降、広野北遺跡、匂坂中遺跡・高見丘Ⅰ~Ⅳ遺跡などの大規模調査が報告されてきた。この他にも数々の旧石器時代遺跡が調査・報告されており、研究環境は整備されている。寺谷遺跡の調査以降、磐田原台地では旧石器時代の集落復元に主眼が置かれてきたが、資料解釈の点では、寺谷遺跡の調査で提唱された方法が一貫して採用されたため、各所に残された石器群を結ぶ行動ネットワークを解明できない限界があった。本論文では寺谷遺跡以降の調査成果を現在の研究視点から再検討し、新たな行動論的説明・解釈を行うことを目的とした。

第1章では、これまでの研究史を概観し、その問題点を抽出して、従来の文化系統・段階論とは異なる視点(行動論)による研究の必要性を指摘した。一つ目の検討の前提として、まず、資料解釈の諸概念を整備した。そもそも人間の行動を制御するシステムは、観念の中で不可分に統合され、所与のコンテクストに応じてリスクを低減して最適捕食を実現するために機能するとの考えから、リスク低減戦略と最適捕食理論を包括的概念と位置づけ、このシステムを機能させるための個別概念として技術的概念(二極構造論、技術組織、道具組織、信頼性・保守性システム、親和・相似)と行動に関する概念(foragerとcollector、テリトリー、ブロックの重複形成)を整備した。

 二つ目の検討の前提として、石材環境を始め、台地とその周辺に想定される自然環境を復元した。特に旧石器時代の台地周辺地形は、現在とは相当に異なっていたと考えられることから、地質学調査やボーリング調査、海底地形の調査成果から、天竜川平野に分厚く堆積した沖積層を取り除いた地形と、海面が現在より140m低下した状況を想定し、地形と地理的環境を復元した。

 第2章では、当地の研究を規定していた寺谷遺跡の並存集落説、広野北遺跡の文化層分離、匂坂中遺跡以降の調査で採用されたエリア区分を再検討した。

寺谷遺跡の並存集落説については、石器の製作工程順にブロックの形成過程を復元したところ、原石搬入地点と石核搬入地点といった工程の異なる地点に区分できたことから、2つの集落単位ではなく、時間差をもって形成された石器集中部から構成された1つの単位であると解釈した。

広野北遺跡の文化層分離については、「尖頭器文化」とされた文化層は単独の文化層ではなく、「ナイフ形石器文化(K2)」文化層における尖頭器の集中製作地点であることを指摘した。また、「ナイフ形石器文化(K3)」文化層については、意図的な資料操作で作り出された可能性が高いことを指摘し、本稿では広野北遺跡の文化層分離を白紙に戻した。

エリア区分については、異時期ブロックの重複形成と不定形剥片を含む石器群の編年上の取り扱いの観点から再検討の必要性を指摘した。

 第3章では、第2章の再検討を受けて、分析の時間的単位となる石器群を定義し、その時間的変遷(編年)を整備した。そして、二極構造論に基づく石器群の構造変動を視点として、以下の石器群と編年的順序を確定した。台形様石器が出現する段階、AT下位の可能性がある石器群の段階、瀬戸内系石器群・角錐状石器群の段階、縦長剥片系石器群・不定形剥片系石器群の段階、これに両面体調整石器が台頭した段階を加えて、石器群の構造変動を検討した。

台形様石器を含む石器群とAT下位の可能性がある石器群は検討できる資料が少なかったが、台形様石器出現期に二極構造が認められることを指摘した。その後、一時石器群が途絶えるが、武蔵野ローム層第Ⅵ層段階で再び二極構造を持った石器群が再出現したことを指摘した。

瀬戸内系石器群と角錐状石器群の段階から石器群が展開し始めたが、「瀬戸内概念」の地元石材への適応に限界があり、横長剥片剥離技術は、当初から不定形剥片剥離技術に組み込まれた状態で採用されたため、安定した二極構造を形成できず、短期間で消滅した。また、構造上、不定形剥片剥離技術側の極に位置した角錐状石器群も不安定な二極構造のもとでは発達することなく、瀬戸内系石器群と共に短期間で消滅した。

瀬戸内系石器群・角錐状石器群消滅後、縦長剥片系石器群がその構造上の位置を置換し、縦長剥片剥離技術と不定形剥片剥離技術からなる二極構造が成立し、石器群が最盛期を迎えることになったが、本稿では、これまで瀬戸内系石器群と同時期に位置づけられていた不定形剥片主体の石器群を、縦長剥片主体の石器群と構造上の対極をなす石器群として、縦長剥片主体の石器群と同段階に位置づけ、二極構造に基づく整理的理解を図った。

 両面調整体石器は、不定形剥片石核として便宜石器の生産に供しながら、自らは管理石器として遺跡間を移動する存在として、管理石器と便宜石器という両極を共存させていることから、二極構造は確実に不安定なものになった。この構造変動によって、縦長剥片剥離技術の衰退が始まり、主要狩猟具が背部加工尖頭形石器から両面調整・周縁調整尖頭器に移行することになった。

上記の検討による石器群の消長と変遷を第44図(本論105頁)にまとめた。

 第4章では、石器群の構造変動の原動力は行動の変化にあるとの考えから、各段階での居住行動を、第1章で用意した行動システム論の要素毎に検討し、段階ごとに集団が採用した居住行動の実態を明らかにした。

二極構造成立段階(AT下位)では検討できる資料が少なかったが、台地に入植した集団が、地元石材の円礫を持って、その消費効率を上げる剥片剥離技術を採用して台地内で居住を始めたと推定した。

瀬戸内系石器群・角錐状石器群段階では、石材flexibilityが大きい状態でのcacheが主体であったこと、集団の頻繁な移動が伺えたこと、小規模ながらcollectorを派遣するlogisticな行動も見られたことなどから、この段階では資源の予測可能性が低く、集団全体で移動するforager型の行動が主体であったが、forager型行動とcollector型行動を組み合わせた「温帯型居住行動」の形成が開始されたと考えられる。

縦長剥片系石器群・不定形剥片系石器群の段階は、磐田原台地で石器群が盛行した時期で、目前に石材採集地を控えておきながら、地形的制約から石材採集機会が限定されていたことから、台地降下ルートを確保できる台地北端の山田原Ⅱ遺跡に石材を集積し、二次原産地を形成した後、ここから石材を搬出して水源地付近に拠点を形成するというforager型の行動が見られた。そして、拠点では縦長剥片系石器群を量産し、同時にcacheを形成するとともに多くの縦長剥片系石器群を搬出していた。そして、縦長剥片系石器群を搬出した先で次位の拠点を形成し、ここでも縦長剥片系石器群を量産・搬出し、その搬出先では小規模な地点が多数形成された。一方、不定形剥片系石器群は、不特定の地点(拠点)で不定形剥片系石器群を製作しながら、拠点、次位の拠点、小規模地点を形成し、縦長剥片系石器群と共に樹枝状に展開する地点構成を形成した。

拠点からの最終的な移動先として、石器製作を伴わない石器搬入のみからなる小規模な石器群が多数残されていたことから、拠点からcollectorを派遣するlogisticな行動が発達したと考えられる。こうした行動システムを採用したことによって、資源探索時間が短縮され、石器製作に必要な時間をより多く確保することが可能となり、狩猟具生産を目的とする縦長剥片剥離技術がさらに発達する相乗効果をもたらした。同時に、製作コストがかかる両面体調整石器を製作し、運用することもできるようになった。両面体調整石器は、自らは管理石器でありながら、同時に不定形剥片石核として便宜石器生産用の素材剥片を供与し、さらに最終的には狩猟具になるという特有の性格を有している。不定形剥片石核と共に可動性に優れた石器のため、縦長剥片剥離技術の衰退と二極構造の崩壊を導くことになった。

ただし、両面体調整石器のみでは主要狩猟具の不足が想定されたため、これが台頭した時期でもlogisticな行動は継続され、前段階に成立したforagerとcollectorを組み合わせた「温帯型居住行動」は両面体調整石器の段階でも維持され、その結果多くの遺跡が形成されていった。

このように、磐田原台地に入植した集団は、瀬戸内系石器群・角錐状石器群段階で資源開発行動の組織化を模索し始め、縦長剥片系石器群・不定形剥片系石器群の段階になって台地内環境に十分適応し、資源開発行動が精緻化・本格化した。そこに両面体調整石器・尖頭器石器群が台頭し、二極構造を崩壊させる起因となったが、この現象によっても、集団の台地内行動システムには根本的な変化はなかったと考えられる。一方、旧石器時代の石器群は基本的に二極構造を形成し、各石器群が常に同時存在する他の石器群と二極的な相対的位置を保持するという構造によって長期的な安定存続を図ってきたが、そこに二極構造を作らない両面体調整石器が台頭することで、二極構造の崩壊を招いた。実際には、縦長剥片系石器群は縮小しただけで消滅までは至らなかったため、二極構造が完全になくなることはなかったと思われるが、縦長剥片系石器群と不定形剥片系石器群の均衡による二極構造に揺らぎが生じたことは間違いない。そして、両面体調整石器と尖頭器石器群は新たな構造を作ることができなかったため、存続期間も短く、磐田原台地の資源開発は急激に縮小して細石器石器群の段階に移行した。

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