本論文は、明治前期に繰り返された改変を経て、明治二〇年代初めに戦前を通じて大きな枠組みが維持される各種制度を成立させた日本が、近代国家として存立していくためには、地方の役割が重要であったのではないかと考え、その地方行財政運営のあり方を、明治中後期について分析するものである。

地方制度は同じくこのころ基本的枠組みを成立させたが、近代日本の中における役割を重視する理由は、次の二点である。第一に、中央において様々に構想される政策が実際に執行されるにあたっては、地方行政機構が地域社会まで媒介し、担い手となるからである。第二に、このように様々な事務を地方行政機構は担わされるが、逆に財源は十分与えられず国庫が優先される、という行財政両面にわたるしわ寄せが国家から地方に対して起きており、この負担転嫁は日本が急速に近代国家として歩みを進めることができた要因の一つではないかと考えられるからである。同時に、なぜこの負担によって破綻せず、政策の執行者でありつづけられたのか。地方行政機構の各レベルにおいて能動性が発揮され、様々に負担に対応しながら政策を担っていたのではないかと考え、その動きや縦・横の相互作用を捉えることで考察を行う。

第一部では、本論文の視角にあった題材である、市町村条例に注目し、その変遷から時期的特徴を概観した。許認可権に反映される内務省などの判断・政策構想と、市町村会議決に反映される各市町村の個別の判断とが衝突する地点であり、その変遷や調整の過程から時期的特徴がうかがえるからである。

 第一章では、明治二二年の町村制施行から日清戦争が終結する明治二八年までの条例を分析した。町村制施行当初には、まったく条例を制定せず、町村合併によって作り出された行政村の活動が不活発だったと考えられる町村がある一方で、非常に盛んに条例を設ける町村も見出された。個別の事例を見ていくと、新たに与えられた条例というツールを用い、町村制の規定を自村の状況に適合させようとする、あるいは町村合併以前の慣習を維持しようとする狙いも含まれていた。多様な条例に対し内務省が対応に追われる状況が現出したが、これらの条例はあまり許可を受けることができず、明文の法規に基づいて自主性を発揮しようとする動きは潰えていった。

 しかし町村は、単純に内務省の統制に服したわけではなかった。第二章では、明治三、四〇年代の条例に注目した。再び条例の制定・改正が盛んになるとともに、四〇年代には条例の廃止も多くなり、新たな段階へ入っていた。各町村の備える条例の種類・内容を一定の範囲内に標準化しようとする狙いが見出され、条例を通じた地方行政の整備が進められていたのである。しかし一方で、内務省の政策構想とは合致しない面を持つ、区に関わる条例については、条例は廃止しつつも、許認可を要さない町村会議決や規程によって事実上存続させるという処理が行われていた。この二つの傾向から、システム面からの町村行政整備と、内務省が許容する秩序に形式的整合性を保ちつつの個別事情の配慮という二重の対応がこの時期に見られるのである。

 第一章で見たような、明文に基づき個別事情に対応する町村運営の方向性が潰え、後には形式的整合性と許認可権の外部での裁量権の発揮により、中央の政策構想と地方の現実がすり合わされたのである。そしてこの後者の能動性が、地方行財政の安定的運営に重要ではないかと考え、地方行政機構の縦の関係性における、各レベルでの調整のあり方の分析に進む。

 第三章では、内務省の末端において府県以下と直接相対する、地方局市町村課の調整機能に注目した。従来の研究では高等官の発言や著作、制定された法令などから内務省の動きが考察されてきたが、市町村課が残した簿冊を文書学的に分析することで、そこで展開された実務を再構成した。そこでは、府県や他省庁など、外部と連絡を取り合いながら、公式の法解釈を蓄積し、地方行政を運営していく面と、地方からの非公式の問合せに対し、地方行政の現場における便宜を図るような助言を一回的に行っていく面とが見出された。

 第四章では、各地方において町村と直接相対する府県・郡の役割に注目した。具体例として、明治三〇年代以降に展開されていく町村における資金蓄積政策が、いかに展開されていくのか、その蓄積を規定する条例の奨励を分析した。県によっても奨励方法に差異が見出されたが、さらに郡が自らの担当区画内で裁量権を発揮し、独自の奨励を行っていた。そこでは、時に町村が実施可能な程度に手心が加えられうるため、政策意図の緩衝ももたらしていた。また、実際に蓄積された資金は、中央省庁の構想から乖離し、緊急時の取り崩しなど、地方に利する形で活用されていた。地方行政機構による政策の媒介の実態と言えるだろう。

 第五章では、町村長などに就任し、地方行政機構の末端を担う地域有力者層の動きを取り上げた。日露戦後期の地方を扱う研究で注目を集めてきた地方改良運動においては、その担い手という側面が強調されてきたが、これに対し、本章ではこの時期に限らない題材である所得税との関連を分析した。納税者同士の互選で選出される所得調査委員が税額決定の過程に参加するため、地域からの動きを分析しやすい題材だからである。所得調査委員は地域社会で有力者層が構築する秩序の中で選出されてくるだけでなく、地域を代表して異議を申立て、税務署と衝突する事例も見られた。ここから、地域有力者層の能動性が見出されるとともに、第四章までで見てきた各機関の柔軟な対応が無ければ、彼らを一定の秩序内に留めることは困難であったとも考えられる。しかし、こうした柔軟な対応は地方行財政運営を可能にしたとしても、増大する税負担などに関わる不満を解消するものではなかったため、こうした地域の不満は政党などへ向かっていくと予想される。

 また、不満を醸成しうる原因として財政問題が想定されたが、国家から地方への財源付与はほとんど行われなかった。そのため、すでにある税源の中での対応が求められることとなる。しかし同時に明治中後期は経済発展が続いており、企業が全国に展開して盛んに活動しつつあった。第三部では税を介した地方行政機構と企業との関係と、その課税をめぐって発生した府県同士・市町村同士の横の関係に注目した。

 問題が生じたきっかけは、明治二九年の営業税国税化であった。それまで各府県において独自に商工業に対し課税が行われていたが、制度変更により、地方の課税は国税納税額を基準に算出される付加税で行われることとなった。しかし、企業などは各地に工場や店舗などを散在させるが、国税の納税は一箇所で行いうる。そのため、各府県・市町村が自らの領域内に所在する企業に課税を試みても、付加税の算出・賦課が困難になってしまったのである。

 第六章ではこの問題に対する府県レベルでの対応を取り上げた。ここでは、明治三二年の府県制改正に伴って新設された第一〇八条により、比較的スムーズに関係府県間で国税を分割する歩合を協定することが定められた。さらに、横の関係において連携しつつ、この税分割の制度を実施するためのルーティンが構築されていった。時には、内務省が把握できない次元において、円滑に事務処理を行うための対応もとられていた。

 対照的に、第七章で取り上げた市町村レベルでは、制度的対応が遅れただけでなく、多重課税を警戒する企業側の反発が、行政裁判まで至る例もしばしば見られた。明治四四年勅令第二四一号により府県と同様、税の分割を行うことが定められたが、企業の営業所の所在地によっては全国レベルでの協議を要する場合もあった。しかしこうした場合も、利害を共有できる単位を構築しつつ、調整が行われていった。府県・市町村における横の調整で制度が実質化する一方、内務省は地方で行われた協議やルーティンを全国に一般化する役割や対立が解消できなくなった場合に調停を行うなど、中央と地方との役割分担が見出された。

 また、税分割の府県・市町村財政への影響も検討したが、税分割実施以前の鷹岡村の例からは、国税の付加税を賦課できるかどうかの差は大きなものであり、税分割によってようやく企業立地が税源として意味をなすようになったと言える。こうした制度的対応が好況に沸く第一次世界大戦を前に行われた意義は大きい。

 このように、明治中後期における地方行財政運営のあり方は、内務省が許容する秩序に形式的整合性を保ちつつ、各レベルが能動性を発揮することで行財政両面におけるしわ寄せに耐える手段が模索される、というものだった。ある面では、自らの負担と責任で事務を執るというこの時期における「自治」の遂行と言えるが、しかしそれは時には政策構想から執行を乖離させる面も持った。

また、国家からの財源付与は極めて少なく、企業に対する税分割も、国税を優先した結果の不備を修正し、本来徴収できる課税を実現したに過ぎず、財政調整制度とは異なる。そのため第一次大戦後は、財政規模は大きくなる一方で、府県レベルでの財政力格差は依然として是正されないままであった。また、市町村レベルでは企業の有無が大きな財政力格差をもたらしうる。つまり、第一次大戦後には地方財政問題が大きな論点となるが、すでにその萌芽があったのである。全国町村長会などが活発な活動を行うようになっており、地方が国家に直接の対処を強く要求する、新たな段階を迎えることが予想される。