本論文は中国における民主主義への賛同と非自由民主主義的政府への信頼という一見矛盾するような現象を検証する。さまざまな国際調査によると、自由民主主義の国の国民と同じように、多くの中国国民は民主主義を熱心に支持している。しかし、その一方で自由民主主義とは思えない政治制度の下にあって、現政権を信頼し、中国における政治的自由権利と民主主義の現状に満足しているという結果が表れている。なぜ中国にこのような矛盾現象が出現したのだろうか。

第一部は第一章から第三章までの三章からなる。

まず第一章では、本研究のテーマや研究の背景、理論的、現実的な意味を述べている。中国国民の民主主義への態度と政治信頼というテーマは理論の面でも、現実の面でも、重要な意味を持っている。中国における政治信頼はいったいどのような状況にあるのだろうか。現政権への信頼は民主主義の国への移行と緊密な関連を持つため、これについて解明する必要がある。

第二章では、本研究の理論的なアプローチや概念の定義、各実証研究の関連、本研究の貢献などを述べている。先行研究では、政治文化は国民の民主主義への態度および政府への信頼と結びついており、経済発展が民主化を促進する役割を果たすと指摘されている。さらに、民主主義の概念の捉え方は文化によって異なるが、それが政治意識に影響を与えることも分かっている。そこで、本研究は政治文化の「アジア的価値観」、経済発展の社会心理的効果、民主主義の概念の捉え方という三つのアプローチを用いて、中国における民主主義への賛同と現政権への信頼という一見矛盾するような現象を検証した。

第三章では、本研究で用いたデータと方法論について述べている。本研究は主にアジアン・バロメーターとアジア・バロメーターのデータを用いて、中国国民の民主主義への態度と政治信頼について、実証分析をした。しかし、これら以外にも、世界価値観調査のデータを用いて、他国との比較を行った。

第二部は第四章、第五章の二章から成り、政治文化の視点から、中国国民の民主主義への賛同と現政権への支持の関係について分析した。

第四章は政治文化の理論編である。政治文化は社会化を通じて、特定の政治価値観、心理傾向などを維持しながら、国家及び政治体制を支えており、政治文化の研究は社会心理学の視点からのアプローチにふさわしいと考える。

アジア的価値観は東アジアの国々が共有している政治文化である。1990年代にリー•クアン•ユーやマハティールらが中心となって提起された。階層関係、調和志向、服従、集団利益の優先性などはアジア地域に特有の文化だと言われている。アジア的価値観には、私的領域と公的領域の側面があり、これらは分けて検証する必要がある。私的領域のアジア的価値観は伝統的な家庭の価値観と伝統的な社会の価値観により構成される。公的領域のアジア的価値観は権威主義的政治の価値観である。

第五章は政治文化の理論に基づいて行った実証研究である。アジア的価値観の各国比較、中国におけるアジア的価値観の人口社会要素の分布、および実証研究1と研究2から成る。

研究1と研究2は政治文化の観点から、中国国民の民主主義への支持と非自由民主主義的政府への信頼の共存について説明している。アジア的価値観は中国の現政権への支持を増加させ、自由民主主義的価値観を抑制している。しかし、アジア的価値観は中国国民の民主主義への愛着に負の影響を与えるのではなく、逆に正の効果をもたらすということがわかった。更に、民主主義に賛同している中国国民が自由民主主義的価値観を持っていないことも明らかになった。アジア的価値観は中国における重要な政治文化として、確かに中国の現政権への支持を増加させている。

第三部は第六章、第七章の二章から成り、近代化、経済発展の視点から、中国国民の民主主義への態度と現政権への信頼について分析した。

第六章は近代化の政治的な効果の理論編である。近代化理論は、経済発展によって個人の生活満足度を高め、政治的自由と民主主義を望むようになり、市民社会の形成と民主化に移行すると述べている。脱物質主義理論は修正された近代化理論と呼ばれ、経済発展だけでは民主化しないと主張する。仲介変数として、経済発展による人々の価値観の物質主義から脱物質主義・自己表現的価値観への転換が民主化の重要なポイントであると述べている。脱物質主義価値観・自己表現的価値観は民主主義と繋がり、民主化運動を促進させる。

第七章は近代化理論に基づいて、近代化がどのように中国国民の民主主義への態度と現政権への信頼に影響を与えているかという実証研究である。経済発展の生活満足度への影響、脱物質主義の各国比較、政治信頼の各国比較、および実証研究3と研究4から成る。 

研究3と研究4は、経済成長による中国国民の民主主義への支持と現政権への信頼との共存を解明するものである。中国における経済成長の社会心理的効果に関して得られた結果は現時点においては近代化理論の予想と異なる結果であった。研究3は経済発展が中国国民の政治的自由権利への満足度を高めたことを示した。つまり、経済発展による経済と社会領域における満足度の向上は政治的自由権利と民主主義の現状への満足にプラスの波及効果があると見られる。政治的自由権利に満足している人は民主主義の現状にも満足していることが分かった。一方、研究4では経済成長によって、政府のパフォーマンスがよい評価を得ていることを示している。すなわち、このようなよい評価は政府への不満を増加するのではなく、政権への信頼を高めている。

第四部は第八章、第九章の二章から成り、一般大衆が民主主義をどのように捉えるかという視点から、中国国民の民主主義への態度と現政権への信頼について分析した。

第八章は民主主義の捉え方について理論的に述べている。民主主義の概念とサブタイプ、大衆の民主主義の概念の理解を示した。中国国民の民主主義への賛同および民主主義の現状への満足と現政権への信頼とが共存しているという現象は、中国人がどのように民主主義の概念を捉えているかについて、さらに研究する必要があることを示している。

第九章では中国国民の民主主義の理解について実証研究を行った。現在の中国国民の民主主義の概念の理解と30年前との比較、民主主義の捉え方についての人口社会要素の分布、民主主義の捉え方の各国比較、および実証研究5と研究6から成る。

研究5と研究6は中国国民の民主主義の概念を捉えるパターンにより、中国における民主主義の現状への評価と政権への信頼がどのように変化したかについて、検証するものである。これにより、中国における民主主義への満足度の高さは民主主義の概念を理解するパターンによって異なることが明らかになった。また、中国国民が政府に寄せる信頼度は政府のパフォーマンスへの評価次第であるが、それは民主主義の概念を捉えるパターンにより異なることが示された。

第五部は第十章、結論である。本研究は中国国民の民主主義への賛同と現政権への信頼という矛盾とも思われる現象を、文化歴史の要因や現実の経済発展の要因、大衆の民主主義の捉え方から分析した。アジア的価値観は民主主義への賛同に支障をきたすことなく、現政権への信頼を支えている。近代化、経済発展の政治的効果は、中国国民の民主主義への満足度を高め、政権への支持を増加させている。すなわち、中国国民は民主主義に賛成しながらも、現政権を支持しているが、その理由として、中国の一般大衆の民主主義の捉え方が、選挙や自由権利より、経済の平等や社会政策の平等を重視しているためであることがわかった。

本研究の今後の展望については、以下のように考える。

1 過去半世紀において、政治学への社会心理学の貢献度は多大であるが、本研究のテーマはまさに社会心理学の視点からの中国国民の民主主義への態度と政府への信頼であり、継続して研究する意義がある。

2 中国現政権への政治信頼度の変化は今後も引き続き、分析する必要がある。

3 人口社会要素の分析からみると、将来中国国民の民主主義への満足度や民主主義の捉え方が変化する可能性は高く、アジアン・バロメーターの調査プログラムを利用して、中国国民の民主主義への態度の変化の研究を続ける必要がある。

4 同様に、中国においてアジア的価値観の変化を分析し続ける必要がある。

5 一般大衆が民主化の中でどのような役割を果たすのか、一般大衆は民主主義が必要だと思っているか、民主主義が何を指すかなど、民主化の研究に多大な貢献をもたらすと思われる。