本論文は、栗谷李珥の理気‐性心‐誠敬というTrilogy思想についての研究である。これは、「栗谷のTrilogy(トリロジー)思想は、二分法的二元の体系や還元論的一元の体系ではない、相互疎通が可能な『之妙』的思惟に基づいた有機体的体系である」という研究仮説を立てて、序文・本論(全三部・六章・十八節)・結論」の構成をとり、そのTrilogy思想を存在論的次元と宇宙論的次元から分析し、その思想が持つ現代的意味を再構成することを目的とする。

序文では、栗谷の生涯についての小伝、先行研究の検討、論文の構成および論文に用いた参考文献についての説明等を扱っている。とりわけ、栗谷のTrilogy思想についての三つの先行研究(高橋亨の研究、北朝鮮の朝鮮哲学史研究黄義東の研究)検討する際には、近代の西洋哲学においての「二分法的二元論」を「栗谷李珥思想研究」の主な基盤とする研究傾向を批判的に考察する。それから、上述した研究仮説を取り立てて本論文の研究方向を設定する。高橋亨は、「理」(霊魂)と「気」(肉体)を「二元」的排他的実体として理解した。その上で、「主理派」と「主気派」という二分法的フレームワークを通して朝鮮の儒学史を研究するとともに、栗谷の儒学思想を程朱学の「理気二元論」に基づいた主気論的思想と規定している。北朝鮮の研究では、「理」(観念)と「気」(物質)を「二元」的排他的実体として把握した。その上で、「唯物論」と「観念論」という二分法的フレームワークを用いて朝鮮の哲学史を分析すると同時に、栗谷の儒学思想を程朱学の「理気二元論」に立脚した「客観的観念論」と見なしている。黄義東は、理氣之妙」を栗谷の哲学的の基本原理と捉えるが、「理」と「気」を「分割できない独立した単位」という「二元」的排他的実体の概念と解した上で、栗谷の「理氣之妙」を「精神的価値(理)」と「物質的価値(気)」という対立的価値の調和を求めるモデルとする。このように三つの先行研究を検討した結果、高橋亨の研究や北朝鮮の研究は無論、理氣之妙」を栗谷の哲学的の基本原理と捉えた黄義東の研究にさえ「二分法的二元論」の痕跡が見出される。それゆえ、これらの先行研究の問題所在は、栗谷の「之妙」的存在構造とその構成要素の力動的有機体関係に対する深層的分析の欠如や不徹底にあると言える。序文ではこの問題所在を明らかにし、栗谷のTrilogy思想研究を分析と総合という大きい枠で行う研究方向を設定する。

本論の第一部は、栗谷のTrilogy思想における理気思想を全二章・六節にかけて研究する。その第一章では、栗谷の理気思想に現れる、「『理氣元不相離:理と気は元より相離れない』『理氣實不相雜:理と気は実は相雑じらない』」という二つの原理と、この二つの原理が貫通する「『理氣之妙:理気の妙』『而理乘:気は発し理は乗る』『理通而氣局:理は通じ気は局す』」という三つの理論を、存在論的次元と宇宙論的次元から理-気の対立的属性(理の「無形・無」と気の「有形・有」)に従って深層的に分析する。第二章では、第一章での理-気についての分析を総合する。その過程で、宇宙万物の存在根拠(究極的実在)である「宇宙的存在」を太極-元気(-気)を通して究明すると同時に、「宇宙的存在」の自己展開を通した「存在的宇宙」の形成過程を叙述し、「宇宙的存在」の「存在的宇宙」への展開過程を理気思想の三つの理論を用いて理論化した「宇宙的存在論」と「存在的宇宙論」を提案する。その意味から、栗谷の理気思想は、その存在論的次元と宇宙論的次元の区別はできても分離はできない「理気之妙」の存在構造と理-気の力動的有機体関係を備えている、性心-誠敬思想の基礎理論である。本論の第一部では、その理気思想をマクロ思想(macro-idea)と位置づける。

本論の第二部は、栗谷のTrilogy思想における性心思想を全二章・六節にかけて研究する。第一章では、理気思想の原理と理論に立脚した、性心思想の二つの原理(「『性心元不相離』『性心實不相雜』」)と、その三つの理論(「『性心之妙』『而性乘』『性通而心局』)を、存在論的次元と宇宙論的次元から性-心の対立的属性(性の「無形・無」と心の「有形・有」)に従って深層的に分析する。特に、性心思想の核心内容である「人心道心(情と意)」、「本然之性」と「氣質之性」および至善」と「中」の関係などについての栗谷と当時朝鮮儒学者たちの理解を分析・考察し、理気の思想的体系に基づいた朝鮮性理学の 多様な面貌を明かす第二章では、第一章の性-心についての分析を宇宙万物の性心へ拡大させ、宇宙万物の生成と消滅の過程に現れた「人物同異性」を同一の「本有価値」と差異の多様な実存様態と解し、人間が「修」可能な実存的地位や責任的役割および社会‐生態的な憂患意識の上で天地と共に生きる「死生の道」を論じる。そして、宇宙万物は宇宙的存在の社会‐宇宙的な事態であると釈し、宇宙万物の心(霊)に実在する理(性)を「社会‐宇宙的霊性」と論じ、性心思想の三つの理論を用いて「社会‐宇宙的霊性」の三つの思想意識(「我々意識」「本有価値論」「創作過程」)を提案する。そのような意味で、栗谷の性心思想は、宇宙万物が理気‐誠敬の在りかとその流行の実存であることを詳しくする、Trilogy思想における精密理論である。本論の第二部では、その性心思想をミクロ思想(micro-idea)と名づける。

本論の第三部は、栗谷のTrilogy思想における誠敬思想を全二章・六節にかけて研究する。第一章では、理気-性心思想の原理と理論を誠敬思想に対応させ、誠敬の二つの原理(「『誠敬元不相離』『誠敬實不相雜』」)を導出する。それから、その三つの理論(「『誠敬之妙』『敬發而誠乘』『誠通而敬局』」)を存在論的次元と宇宙論的次元から分析するとともに、栗谷のトリロジー思想の対立的属性に従って「理‐性‐誠」と「気‐心‐敬」という二つの思想範疇を再構成する。また、誠敬思想をプラクシス思想(praxis-idea)と論述し、プラクシス思想の固有な特性と符合するように誠‐敬の意味を「修己治人」の目的-方法と再解釈して、理気‐性心の総体的実状が誠敬であることを明らかにする。第二章では、栗谷の誠敬思想は単なる修養論だけではなく、社会-宇宙的次元への実践を含むプラクシス理論であることを「志の美学」「知行の弁証法的会通」「安民の士林政治」「實理‐實心の實學」をテーマとして論じる。「志の美学」では、社会-宇宙的次元への反省的実践の契機を論述し、「知行の弁証法的会通」においては、その反省的実践の哲学的根拠として栗谷の「知行一時竝進」を「由知而達於行之效:「知」に由って「行」の実効に達する修己方法」と「由行而達於知之效:「行」に由って「知」の実効に達する修己方法」という二つの側面から論議する。そして「安民の士林政治」では、「修己治人の誠敬学」に立脚した栗谷の士林政治を通して朝鮮中期の「實理‐實心の實学」という革新運動の実例を探り、「實理‐實心の實學」においては、理気の「宇宙的存在論と存在的宇宙論」や性心の「社会-宇宙的霊性」を総合して、「實理實心の實学」の三つの実践綱領(持続可能性(sustainability)「必要に基づいた政治経済(need based political economy)」「知識人の連帯(solidarity)と社会参与(social participation)を提案する。

結論では、本論の分析および総合という研究過程を要約・再検討し、本論文の研究仮説の妥当性を論じ、本研究が持つ意義や限界を述べる。また、栗谷の儒学思想と、近代の西洋哲学の二分法的二元論に対する批判的省察を通して有機体哲学を求める AN.ホワイトヘッドAlfred North Whiteheadの思想との比較研究(概念中心ではない思想構造とその体系の比較研究)の可能性を展望する。とりわけ、研究過程の再検討する際には、理気思想は性心-誠敬の存在根拠を究明したものであり、性心思想は理気-誠敬の宇宙的実存を説明したものであり、誠敬思想は理気-性心の総体的実状を明らかにしたものであることを明白にする。すなわち、栗谷の理気-性心-誠敬というTrilogy思想は二分法的二元論や還元的一元論ではなく、互いに必要不可欠の有機体的『之妙』体系であるという研究仮説の妥当性を論証する。