カントにおける判断と推論

滝沢 正之

本論文は、『純粋理性批判』における認識理論を、認識を合理的な実践の一種として捉える立場として位置づけ、その解釈を試みるものである。これは、すなわち、『純粋理性批判』の認識理論を一種の行為理論として解釈する、ということを意味する。それゆえに、本論文の課題は大きく二つに区別される。一つめの課題は、合理的な実践として捉えられた認識がいかなるものかを論じる、というものである。これは第Ⅰ部と第Ⅱ部の課題にあたる。二つめの課題は、認識を実践として捉えることを許すような、合理的な行為一般にかんする理論がいかなるものかを論じる、というものである。こちらは第Ⅲ部において論じられる。

 

本論文の解釈の方向性は、英語圏における近代ドイツ哲学の受容および解釈の一つの潮流に沿ったものである。ストローソンの『意味の限界』以降、現代的な関心、とりわけ分析哲学的な関心に応答しうる議論を自覚的に近世ドイツ哲学から読みとっていこうとする解釈方針は一定の成果を挙げてきた。しかしながら、ここ最近では、分析哲学の流れに属しながらも近代ドイツ哲学の成果を尊重しつつ自らの議論を展開している論者たちの一部、たとえばマクダウェルやブランダムなどは、カント哲学に一定の評価を与えつつも、ヘーゲル哲学やハイデガー哲学のほうにより親近感を抱いているようである。本論文は、このような近代ドイツ哲学の受容の現状を踏まえつつ、カントにとどまり、認識実践における合理性を考察することを試みるものである。

 

ところで、『純粋理性批判』は複雑な構造をもつ大部の著作であり、その全体を扱うことは不可能である。そこで、本論文は、このテキストからとくに以下の部分、「超越論的分析論」における「概念の分析論」および「超越論的弁証論」における「純粋理性のアンチノミー」を選び出し、これらにとくに着目して議論を進める。カントの認識理論における二つの核心的な洞察が、これらの二つの部分においてそれぞれ展開されていると考えうるからである。また、「概念の分析論」「超越論的演繹」にかんしては、書きかえをうけた『純粋理性批判』第二版のものを扱うこととする。第一版のものよりもこちらのほうが、カントが到達した洞察をよりよく読みとれると考えるからである。

 

本論文がカントに帰そうと試みる立場は以下のものである。認識実践は、判断という行為と推論という行為の二つから構成される。すなわち、認識実践は、まずは判断する行為として把握されるが、その判断行為は推論する行為において、その一項として組み入れられねばならないのである。このことに対応して、本論文はカントの認識理論から、認識実践が成立するための二つの条件を見いだすことになる。

 

第一に、「概念の分析論」の検討においては、判断が推論の文脈を捨象したうえで考察され、それが諸々のカテゴリーよって表現されるような悟性の機能に基づいていることが明らかにされる。第二に、「純粋理性のアンチノミー」の検討においては、判断が推論のうちに位置づけられねばならないということ、そして、推論が、理性の諸理念にたいするコミットメントに基づいていることが明らかにされる。

 

このように、認識実践の条件は、カテゴリーによって表現されるものと理性理念によって表現されるものとの二つに大別されることになる。カテゴリーによって表現されるのは、そもそも判断が成立するための条件であり、それはすなわち、認識実践に参与するための条件である。理性理念に表現されるのは、ひとたび判断をなしたときに引き受けることを要求される条件であり、それはすなわち、認識実践に参与したさいに課せられる条件である。

 

ここで、本論文の構成を大まかな内容にまとめ、記しておきたい。

 

本論文は三部から構成されることとなる。第Ⅰ部においては、認識実践における判断の成立について検討がなされる。第Ⅱ部においては、認識実践における推論的な要素が扱われる。そして、第Ⅲ部においては、認識実践を離れて行為一般について目を向け、行為が合理的である、あるいは、非合理的であるとはいかなることかが論じられる。単純化して述べるならば、第Ⅰ部では認識論、第Ⅱ部では存在論あるいは形而上学、第Ⅲ部では行為論に属する問題が扱われることになる。

 

第Ⅰ部「判断における合理性について」のもとには、第2章「判断理論としてのカント認識理論」が含まれる。この章では、「概念の分析論」から、カントの認識理論の基本構成が明らかにされる。すでに述べたように、カントにとって、認識は、判断と確証によって構成される実践である。すなわち、カントが行っている議論は、基本的にすべて、認識を、諸々の証拠にもとづいて確証された判断をなす実践として説明しようとしたものとして解釈しうるのである。そして、このような方針にもとづいて、「超越論的感性論」、「形而上学的演繹」、「超越論的演繹」などにおけるカントの認識理論の主要な語彙が位置づけなおされることとなる。

 

第Ⅱ部「推論における合理性について」には、つづく第3章から第6章までの四つの章が含まれる。ここでは、「純粋理性のアンチノミー」が中心的に論じられ、それをつうじてカントの認識理論を推論という要素に着目して解釈することが試みられる。

 

第3章「認識対象の空間的位置規定について」では、「純粋理性のアンチノミー」のうちから、空間にかんする第一アンチノミーが検討される。ここでは、この宇宙における空間的な広がりの果て、という宇宙論的理念が論じられる。そして、この理念が、認識対象の空間的な位置規定にさいして、統制的原理としての役割を果たす、という解釈が示される。このようなカントの議論は、伝統的な形而上学の空間論における絶対空間をめぐる議論を、新しい角度から位置づけるものである。

 

第4章「世界の時間的な始まりについて」では、前章で論じた第一アンチノミーの残された部分、すなわち時間にかんする第一アンチノミーを検討する。ここでは、諸現象の総括としての世界における時間的な開始点という宇宙論的理念が問題とされるであろう。そして、この理念が、認識対象が存在する時点の規定にさいして、統制的原理としての役割を果たしていることが明らかにされる。宇宙の時間の開始点は、神の世界創造とのかかわりでも論じられる古典的な主題であるが、この章ではこれを、哲学的時間論の重要な問題の一つ、時間の向きと関係づけて論じることになる。

 

第5章「実在性の無限分割と時間の連続性について」では、第二アンチノミーを含めた質のカテゴリーにかかわる諸議論が検討される。第二アンチノミーでは、この宇宙における究極的な構成要素という宇宙論的理念が扱われている。この問題は、カントがライプニッツのモナドロジーから独特な仕方で受け継ぎ、前批判期からさまざまなかたちで論じてきたものである。しかし、この章では、モナドロジー的な問題構成の背後に存するカント独特の時間論に着目して解釈を行う。カントは、宇宙における究極的な構成要素の問題を無限分割の観点から論じているのであるが、このような問題構成は、時間論の古典的な問題の一つ、時間の流れあるいは連続性と密接なかかわりをもつものと解しうるのである。

 

第6章「二つの「なぜそれが起きたのか」の問いについて」では、第三アンチノミーとの比較のもとで、第四アンチノミーにおける議論を検討する。第四アンチノミーでカントは、この世界を根拠づける必然的な存在者という宇宙論的理念を論じている。そのような理念へのカントの注目は、第三アンチノミーにおける原因探求とは異なるかたちで現象的な出来事についてその原因を問うことがありうる、ということを示している。この章では、第四アンチノミーに特有な原因への問いを、「なぜそれが私にたいして生起しなければならなかったのか」という実存的な問いかけとして解釈することが試みられる。

 

第Ⅲ部「行為における合理性について」は二つの章から構成される。

 

第7章「他行為可能性と行為の合理性」では、行為における合理性が論じられる。具体的には、「純粋理性のアンチノミー」における自由論に着目したうえで、そこでの議論を責任帰属の場面に引きおとし、行為の合理化と他行為可能性のありようにかんする一つの説得的な図式をカントから読みとることが試みられる。そして、第Ⅰ部および第Ⅱ部で論じられた、認識するという実践もまた、この図式のうちに位置づけられうることが明らかにされるであろう。

 

第8章「カントの人間学的情念論」では、第7章とは逆に、カントにおいて人間の非合理な行為がどのように位置づけられるのかを検討する。具体的には、『実用的見地における人間学』における「情念」概念に着目し、その内実を見定めたうえで、それがカントの倫理学にたいしてどのような位置を占めるのかを『実践理性批判』「動機論」を参照しつつ、明らかにすることになる。このような考察は、第Ⅱ部で検討した人間的認識主体と理性理念との関係についても、人間学的な観点からの新たな示唆を与えてくれるであろう。

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