本論文は、明治23(1890)年の帝国議会の開設から、明治33(1900)年の立憲政友会の創設までの約10年間における国内政治の変容を、地方政策の観点から考察したものである。特に、1880年代の明治国家形成期の政治体制(いわゆる「藩閥支配」)から自律的な国家統合の枠組みを展望した陸奥宗光(1844-1897)と白根専一(1850-1898)に注目し、自由党の政権参入という共通の政治課題に取り組んだ両者の軌跡を通じて、議会開設後の藩閥が、地方統治をめぐる複数の政策領域において既存の枠組みの再編を迫られていく過程を、同一の領域における政党の擡頭と対照させつつ分析した。

分析の事例としては、井上毅が有名な「積極主義」意見書のなかで言及した①北海道政策、②治水政策、③銀行政策を取り上げ、やはり井上が言及した鉄道政策のような利益誘導政策に必ずしも収斂しない、三者それぞれの歴史的展開を実証的に明らかにすることで、統治政党の形成を準備した藩閥支配の変容の諸局面を、ある程度総体的に把握することを試みた。

すなわち、本論文の特徴は、初期議会期における藩閥と民党の熾烈な対立の基底に、地方統治をめぐる政治的競合を見出し、国家統合を従来担ってきた藩閥の統治能力の低下と、内務省への進出に象徴される自由党のそれの増大を、連続的に説明しようとする点にある。

その際、第一に、既存の政治体制の臨界点を内在的に検出するためには、藩閥支配に固有の不安定化要因として、藩閥の議会政策に反撥する官僚制の自立傾向に着目する必要があり、第二に、地方統治の問題で集中的に現われるそうした不安定性を安定化に導く要因として、政党の役割を利益政治の文脈から離れて評価する必要がある。以上の二点が本論文の基本的視角であり、これにより、政党の政治参加過程を再検討するための新しい視点を提起しえたと思われる。

帝国議会開設は何より、府県会対策を焦点とした1880年代とは異質な地方政策が要請される画期であった。府県会が体現する府県大の利益ではなく、全国大の利益を議論し、府県間の関係を調整し、全国共通の基準を創出するための政治空間が、本格的に誕生したのである。この全国政治のアリーナを介して、統治主体としての正統性をめぐる政治的攻防が次第に白熱していく。そして、一連の攻防の中核にあった人物が、陸奥と白根にほかならない。

 論文は大きく二つの章に分かれている。第一章では、第二議会から第五議会までの期間を対象に、藩閥支配の下での自己改革の行き詰まりを明らかにし、第二章では、第一三議会までの期間を対象に、地方政策に新たに参入した自由党‐憲政党が、藩閥から自立した統治主体へ上昇する力学を分析する。特に内務省の変容が全体を貫く通奏低音となっている。

第一章第一節「北海道改革における長派優位の確立」では、第一次松方内閣において内務省が議会対策の目玉として推進した北海道改革の政治過程を検討した。開拓使官有物払下げ事件以来、北海道経営は民党の政費節減要求の槍玉に上げられており、議会開設後の藩閥にとっては改革シンボルとしての意味を有していた。他方、他府県と異なり地方自治制が未施行だったため、開拓への広い期待感と相俟って、議会の耳目を集めうる実験的な施策が可能だった。

この点に着目した品川弥二郎内相が、薩派支配の残滓を切断すべく政治過程に投入したのが、北海道庁の植民地統治機構への再編と非藩閥出身者の長官登用とを骨子とする「独立論」であった。しかし、元来は藩閥強化のために提起された品川の非藩閥化プログラムは、次期政権をにらんで自由党との接点を模索する陸奥と伊藤博文によって、議会との取引材料に換骨奪胎されていく。北海道改革が議会内争点に回収されたことで、「独立論」は終焉を迎えた。

北海道改革と並行して内務省が抱えるいま一つの課題は、地方官の統制であった。特に、白根を中心とする地方官の政治的活性化は、第二次伊藤内閣で元勲の井上馨が内相に着任する背景となった。第一章第二節「藩閥の統治機能不全の顕在化」では、井上内相による国庫補助抑制の試みとその挫折を通じて、第四議会後、藩閥の政治的調整力を前提とした地方統制が困難に陥っていたことを明らかにしている。すなわち自立しつつある官僚制の消極政策の要請と、政府批判を強める国民協会-地方官の積極政策の要請のあいだで、井上は次第に調整力を喪失していった。切り札だった白根次官構想も実現せず、地方統治のあり方をめぐって対峙する内務省と地方官を架橋できる政治主体が現れないまま、井上内相は内務省を去ることになる。

 以上第一章では、藩閥の調整機能に立脚した地方統治の枠組みが、議会開設後も一定の改革の成果を得たものの、第四議会以降は内在的な限界に直面すること、そして新たな質の調整機能を持つ政治主体の参加なくしてこの限界を突破することが困難だったことを指摘した。

第二章第一節「対外硬連合から自‐国連合への旋回」は、そのような政治主体としての自由党の上昇過程を治水政策に即して論じている。議会開設を機に、全国の治水要求が一斉に噴出した。しかし、これを積極的に媒介した大政会―国民協会が、治水によって地方自治の補完を図る山県有朋の意向にも支えられて、次第に要求を肥大化させたのに対し、自由党は第四議会以降、地方の治水費負担をむしろ拡大する方向で「積極政策」を打ちだし、内務省に対して統治能力を主張した。第九議会における河川法の成立は、こうした自由党の治水政策の帰結であった。

このように、地方官に代わって政党が地方問題を媒介する体制が徐々に整備されていく過程とパラレルに進行したのが、自由党と国民協会の相互接近である。ここで、かつては自由党を行政阻害要因として敵視しながら、その行政推進要因としての役割を積極的に再評価し、国民協会の転換を促して自‐国連合を構造化させていった人物こそ、白根だった。陸奥と共闘した白根は、山県の地方自治観と政党観から自立しつつ、官僚制の内部から政党の政権参入を準備していった。

第二章第二節「国内金融体制をめぐる政党間対立」では、山県の地方自治制とともに藩閥支配を支えた松方財政の枠組み(財政の金融支配)が、中央銀行総裁の台頭によって変容を迫られていく過程を前半で解明し、後半では、中央銀行総裁の政治権力の後退に伴い、元来大隈系政党の得意分野だった銀行政策の領域で自由党‐憲政党が影響力を伸長させていく政治力学の一端を考察した。これらについて、国立銀行処分問題と日本銀行課税問題を取り上げて分析した。

 日清戦後、川田小一郎の指導によって中央銀行総裁が経済政策を総合する役割を果たし始める。しかし、やがて二つの戦後恐慌に対応するなかで金融の自律的領域は狭まっていき、この過程で星亨と松田正久を通じて憲政党が銀行政策を体系化するにいたる。星は初期議会以来、日本銀行体制に最も批判的な政治家の一人であった。日本銀行ではなく憲政党による地方金融支配の確立を目指した星は、伊藤新党運動を利用して国民協会との合同を促進していった。だが、内在的な金融理解を欠いた憲政党の政策体系には欠陥があり、後の桂新党構想では大隈系政党の日本銀行支店拡張論の再生が図られたことを、最後に指摘した。

利益政治が十分に体系化されない段階では、普遍的基準によって地方問題を効率的に決済する仕組みを整備し、中央地方関係における夾雑物を排除することが重要であり、この仕組みの設計に最も貢献したのが自由党だった。結語では、自由党‐憲政党の台頭を促した三つの地方問題がいずれも近代日本の集権化に不可欠な理念的契機を内包しており、議会政治によってそれが促進されたこと、そして20世紀までに全国レベルの政治的・経済的一体化が進行して集権化の要請が一段落し、日露戦後の地方改良運動まで一定の安定を享受したことを展望した。