修己治人とは、『大学』に見られるような、自己の修養が他人を治めることにつながるとする発想であり、士大夫の理想の在り方とされてきたものである。そのため、これまで伝統中国の思想を代表する要素として語られ、時にはその発想の前近代性が指摘されてきた。

 しかしながら、そもそも内面の修養が外面の秩序にいかにしてつながりうるのだろうか。筆者の根本的な関心はこの点にある。本論文は、清末の士大夫として有名な郭嵩燾(1818-1891)を題材に、この問いに取り組んだものである。

 郭嵩燾の名は、一般には初代駐英公使という肩書によって知られている。そのため研究史において郭は、まず中国近代外交の創成という文脈で取り上げられ、彼の『日記』の公刊後は、伝統士大夫の西洋認識という観点から分析されてきた。これら先行研究の問題点は、郭の思考を、伝統中国と近代西洋というあらかじめ定められた座標上に位置づけることに関心が偏り、郭自身の主体的な思考をうまく描ききれなかったことにある。

 これに対し本論文は、清末において修己治人の発想を誰よりも主体的に貫こうとした士大夫という理由から郭嵩燾を取り上げ、自己の修養を他者の感化につなげるという発想自体に強い関心を抱くものである。郭はその生涯において、社会秩序が動揺する重大な局面に何度も立ち会わされている。アヘン戦争を幕友として経験し、咸豊期には湘軍の中で軍費獲得業務を任された。同治期には署広東巡撫となり、西洋諸国との条約交渉や排外運動への対応に追われた。また光緒初期にはマーガリー事件の謝罪使としてイギリスに派遣され、そのまま初代駐英公使に就任した。そして帰国後は、多くの派閥が存在する故郷湖南で郷紳として活躍した。こうした郭が生涯一貫して修己治人の発想を保持したことは、その発想が、いかなる現実の下、なぜ有効とされたのかを考える恰好の題材となるだろう。

また郭嵩燾は、修己治人の問題を、西洋社会の在り方とも関連付けて論じている。郭の駐英公使時期の日記には、為政者の修己治人が実現された社会として当時のイギリスが描かれている。こうしたユニークな見方は、次のことを示している。すなわち、郭にとって西洋は、直接対峙すべき問題自体ではなく、自己の主体的な思考を展開するための方法や根拠として認識され解釈されたものだったということである。

さらに郭の周辺には、同じく修己治人を重視しながら、郭とは異なる現状認識や西洋政治像を抱いた士大夫たちが存在していた。特に本論文では、郭の比較対象として、彼とともにイギリスに渡り駐英副使を務めた劉錫鴻を随時取り上げた。また郭自身が時代を超えて対話しようとした朱熹や郭象といった人物にも言及した。このように、郭とその周辺は、中国近代における修己治人の展開を跡付けるのに最も適した題材と言える。

 本論文は、郭嵩燾の士大夫像の模索と修己治人の追求を、次の構成を以って検討した。

第Ⅰ部「あるべき士大夫の模索とその過程で認識された西洋」では、郭嵩燾が、いかなるきっかけで士大夫像を模索するに至ったのか、また士大夫の資質として何を想定していたのかを検証した。さらにその模索の中で西洋が視野に入りはじめたことを指摘した。

第1章「士大夫の商賈化への批判」では、郭がしばしば口にする、「士大夫が商賈のように利をむさぼる」という批判の背景を考察した。そこには、彼が咸豊・同治期に湘軍の軍費獲得のため内地通行税の一種である釐金の業務に携わったという事実が関係していた。郭にとって釐金は、徴税効率が良いのみならず、人心風俗の安定に資するものであった。つまり、有能な士が、利を独占する商賈の上に立って徴税を行い、天下のために役立てることができるからである。しかしながら郭によれば、同時代の人々は釐金の重要性を理解せず、士と商とは癒着しているのが常であった。さらには、商と癒着した士が他の士を批判し、士同士の合意形成が図れないありさまだったのである。一方、商の上に立ち適切な徴税を行う士を模索していた郭にとり、当時中国に駐在していた西洋領事(貿易監督官)は興味深い存在として立ち現われてくるのであった。

第2章「士大夫の持つべき資質」では、士大夫の持つべき資質について、郭嵩燾がいかに考えていたかを分析した。郭は咸豊期に、皇帝の言葉を分かりやすく民衆に伝える「宣講」という教化儀礼に関わっていた。郭はこの宣講を語る際、そこに次のような理想の士大夫像と秩序を想定していた。皇帝の言葉の下に士大夫たちが一つにまとまるということ、そして士大夫たちが皇帝の意図を具体的に分かりやすく下々の者に伝達していくという在り方である。郭は、釐金事業や西洋との条約交渉、排外暴動への対処において、しばしば業務効率に抵触してまで上記の士大夫像や秩序を追い求めたのであった。

第Ⅱ部「社会における士大夫の位置と西洋政治像」では、郭嵩燾が西洋における官の在り方に着目したことの特異性を、劉錫鴻の思想と比較しながら論じた。

第3章「渡英直前の郭嵩燾と劉錫鴻の士大夫像」では、前述の通り徴税活動を通して士と商とを区別し、その発想の下で西洋の領事官に着目していた郭嵩燾が、その思考を推し進めることにより、あらゆる社会階層の中での士の重要性を説くとともに、西洋社会にも同じような階層の構図を見出すことができると考えていたことを明らかにした。一方で、こうした郭の見方に終始反対していた劉錫鴻の事例を取り上げた。劉も、中国においては士が重要な階層であると考えていた。しかし劉によれば、西洋においては士以外の階層、特に商が圧倒的な力を持っており、中国と西洋とでは政治主体が根本的に異なると説いた。

 第4章「郭嵩燾・劉錫鴻の士大夫像とイギリス政治像」では、渡欧した郭と劉が、西洋政治、特にイギリス政治をいかに観察したかを論じた。両者の最大の相違は、イギリスの官民関係への見方にあり、これは両者の議会観の違いに表れている。郭は議会に対し、議員という民の上に立つ者たちが、自らと政見を異にする相手の存在を認め、最終的に一つの国是を形成するうえ、その礼儀正しい議論を公開することで、下々の者たちを感化していく機関であるとの見方をとった。一方、劉は、議員が民の代表であることに注目し、議会は民が国政に自らの意見を反映させるための機関であるとした。しかし劉によれば、民の強さは彼らの「富」に原因があり、それは可変的であるばかりか時に人間の徳性を損なうものでもあった。郭と劉は全く異なる視点から議会を評価していたのである。さらに郭は、為政者たちが異なる意見を持つ相手を認め合い、最終的に互いを画一化していく在り方として、イギリスの各種アソシエーションに着目し、それを『周礼』に附会することで正当化しようとした。

 第5章「イギリス政治像と士大夫批判」では、郭嵩燾と劉錫鴻がイギリス体験を通して構築した士大夫批判を、彼らの鉄道論等から考察した。郭は西洋体験を通じ、士の集団が他の階層を導くという政治に一層の確信を得、当時の中国社会の問題は、士農工商の各階層がそれぞれの役割を認識していない点にあるとした。一方劉は、中国で士や官が堕落する原因は、まさに士農工商という構図自体にあると考えた。つまり、この構図があるかぎり、農工商は士になることを目指し、民は官にすり寄ろうとするからであった。劉のような発想をとらない郭は、上述の確信をもとに地元の名士を集め、禁煙公社という一種のアソシエーションを実践していくことになる。

第Ⅲ部「郭嵩燾における修己―治人、内―外の関係をめぐって」では、西洋体験を経て士大夫集団の自己修養に基づく風俗改良の重要性を確信した郭嵩燾の論理を、彼が晩年に刊行した著作から検証した。

 第6章「内面の修養と外面への教化のつながり――『大学』『中庸』解釈」では、郭の『大学』『中庸』読解を分析した。郭は、「慎独」という自己の内面の修養の際、朱熹以上に「外」を意識し、内面が外に現れ出る過程として「誠意」を捉え、外とのつながりを自覚するがゆえに外に影響されぬよう主体性を保つという文脈で「絜矩」を解釈していた。さらに、人間が聖人君子になりうる可能性を強調した朱熹に対し、郭は上記のような厳しい修養を実行できる者のみにその可能性を限定した。ここには郭がこだわっていた修己から治人へといたる具体的な過程への関心や、士の増加という当時の問題への危惧が見られる。

第7章「「是非の辯を押し付けること」と「己を俗と同じくすること」の克服――『荘子』解釈」では、郭嵩燾の『荘子』郭象注批判を分析した。「自得」「独化」という観念を用いて彼是間に是非の争いを想定しなかった郭象に対し、郭嵩燾は、彼是間に必ず生じる是非の争いをいかに解決するかという観点から「有待」「相待」を強調した。そして「相手に是非を押し付けてしまうこと」と「相手に受け入れられるために自分を曲げること」という二つの弊害を常に自覚しながら、対立する相手に常に向き合うことの重要性を説いた。こうした解釈は、郭が抱いていた士同士の良好な関係への志向に通底するものであった。

 終章では、郭と劉の真の相違を両者の士大夫像の模索に見出した本論文の考察から、士大夫たちが各自の現状認識に基づきつつ士大夫像を模索していく多様な議論の場としての清末思想史を描きうる可能性や、中国思想史研究とイギリス史研究との接点を提示した。