因果と自然―ヒューム因果論の構造―

萬屋 博喜

本論文は,18 世紀のスコットランドの哲学者D. ヒュームの哲学的著作『人間本性論』と『人間知性研究』の読解にもとづき,それらの著作で展開された因果論の構造を,彼独自の「自然本性主義」との関係のもとで明らかにするものである.

これまで,ヒュームの因果論は,因果関係を否定する法外な懐疑論を提出するものとして解釈される傾向にあったと言える.そうした解釈は,次の一連のテーゼによって導かれることになるだろう.

(T1) 原因から結果を導く帰納推理は,いかなる仕方でも正当化することができず,ただ主観的で不合理な心の習慣にもとづくのみである.

(T2) 対象や出来事の間の因果的必然性は,客観的な世界の側に存在するものではなく,主観的な心の習慣を世界の側へと投影したものである.

(T3) 自然法則は,それ自体として客観的な世界の側に存在するものではなく,対象や出来事の間の恒常的連接へと還元されねばならない.

(T4)「対象や出来事の間に因果関係が存在する」という言い方は,本当は主観的な心のイメージを意味するにもかかわらず,あたかも客観的な世界の側に存在する因果関係を意味するかのように誤って理解されている.

(T5) 因果関係は客観的な世界の側には存在しないということから,因果関係を否定する懐疑論が導かれる.

以上のテーゼがすべて解釈として妥当であるならば,ヒュームは法外な懐疑論者であったとみなされることになっただろう.しかし,私は,(T1) から(T5) までのすべてのテーゼが誤解にもとづくものであり,ヒューム自身の主張ではないと考える.ヒュームに対する一連の誤解をとき,因果関係についての彼自身の見解を正しく見積もることが本論文の目指す第一の目標である.

それでは,ヒュームは実際には因果関係についてどのような見解を提示したのであろうか.私の理解では,因果関係の考察におけるヒュームの基本的な姿勢は,次のようなものである.すなわち,因果関係そのものに直接アプローチするのではなく,因果関係を理解するというわれわれの実践の観点から,因果関係の本性を解明しようとする姿勢である.こうした姿勢のもとで,ヒュームは因果論において次の三つの考察を展開している.

意味論的考察: われわれが「因果関係」ということで何を意味しているのかを考察する.

生成論的考察: われわれの帰納推理や因果信念がいかにして生じるのか,そしてそのメカニズムはどのようなものなのかを考察する.

認識論的考察: われわれの帰納推理や因果信念がなぜ正当化されるのかを考察する.

まず,意味論的考察は,ヒュームが「因果関係」という言葉に対して与える「定義」や,どのような場面で「因果関係」という名辞を使用するのかということにかかわるものである.次に,生成論的考察は,「印象」や「観念」といった心的状態の起源が何であるのか,そして帰納推理や因果信念がいかなるメカニズムによって生成するのかということを問う.そして,認識論的考察は,帰納推理や因果信念がなぜ正当化されるのかということを問題とする.こうした三つの考察が,ヒュームの因果論において手を変え品を変え展開されているのである.

以上のことをふまえ,本論文は,先行研究の解釈を批判することで,ヒュームに向けられてきた典型的な誤解をときながら,意味論的・生成論的・認識論的考察という三つの軸に沿って,ヒューム哲学に潜在する固有の因果論を明らかにすることを目指す.本論文が最終的に提出する解釈は,次のようなものである.すなわち,意味論的・生成論的・認識論的考察はいずれも,ヒュームの因果論においてある一つの構想へと収斂する.その構想とは,人間の自然本性に根差した,われわれの探究――狭義の科学的探究ではなく,道徳や政治や歴史を含めた広義の科学的探究――のための新たな「論理」の構築というものである.このことは,ヒュームが,当時の標準的な論理学の教科書だった『ポール・ロワイアル論理学』において提示された「思考の技術としての論理学」という考えの影響下で,新たな「論理」の構築を目指していたということを意味する.ヒュームの因果論は,従来の論理学の限界を示し,人間の自然本性に根差した新たな探究の「論理」の構築と展開を目指した「論理学」の研究の一環なのである.本論文では,「論理学」研究の一部としてのヒュームの因果論がどのような構造をもち,いかなる目的と根拠のもとで展開されたものかを明らかにすることで,ヒューム哲学における「因果」と「自然」のかかわりの一端を描き出すことをも目論んでいる.

以下,本論文の構成を示しておく.第1 章と第2 章では,(T1) の解釈が成立しないことを示す.まず第1 章「合理性と帰納推理」において,ヒュームが実際には帰納推理の合理的正当性を問ういわゆる「帰納の問題」を提出していないことを示し,帰納推理を「非理性的な因果推理」と「理性的な因果推論」に分けて考察していたことを明らかにする.その上で,ヒュームが非理性的な因果推理をいわゆる「信頼性主義」の観点から正当化しようとしていたことを論じる.次に第2 章「蓋然性と帰納推論」において,ヒュームが理性的な帰納推論をいわゆる「客観的ベイズ主義」の観点から説明しようとしていたことを示し,そうした推論が推論規則との合致によって正当化されることになると主張したことを明らかにする.

第3 章「必然性と精神の被決定性」では,(T2) の解釈を批判する.ヒュームによれば,必然性の観念の起源は,一方の対象や出来事を思い浮かべれば他方の対象や出来事を思い浮かべてしまうという「精神の被決定性」であるが,それがいかにして必然性の観念を成立させるのかということが従来の研究においては謎のままであった.この謎を解くためにまず,精神の被決定性がいかなる心的状態であるのか,そしてそれはいかにして必然性の思考を成立させるのかという問いを立て,それぞれの問いに対する従来の解釈の応答を検討する.その上で,精神の被決定性が「非表象的な傾性的状態」であることを示し,さらに,精神の被決定性が一定の制約のもとでの「思考可能性原理」によって必然性の観念を成立させることができるという,「傾性説」解釈を提案する.

第4 章「法則性と偶然的規則性」では,(T3) の解釈を否定する.伝統的に,自然法則に関するヒュームの見解は,法則性を単なる規則性へと還元するいわゆる「規則性説」として解釈されてきた.しかし,T. ビーチャムとA. ローゼンバーグの研究により,ヒュームは自然法則そのものではなく,自然法則に関するわれわれの信念が成立する条件を模索していた.それによれば,ヒュームは自然法則の信念の成立条件として,「帰納的支持の条件」と「予測的確信の条件」を挙げている.だが,以上の条件だけでは自然法則と単なる規則性の境界があいまいになってしまう.そこで私は,自然法則に関する信念のもう一つの成立条件として,ヒュームが「数量化可能性の条件」を挙げていることを指摘することで,ビーチャムとローゼンバーグの解釈の不備を補うことを試みる.

第5 章「因果性と意味理解」では,(T4) の解釈が誤っていることを示す.従来のヒューム研究では,「因果関係」という言葉の意味に関するヒュームの見解を検討する上で,彼が提示したいわゆる「原因の二つの定義」をめぐって激しい論争が展開されてきた.しかし,そうした論争は意味に関するヒュームの見解を十分に理解しないまま,彼の主張に対して不当な評価を下してきたように思われる.そこで私は,意味に関するヒュームの見解の再評価を軸として1990 年代以降に展開された,いわゆる「ニュー・ヒューム論争」の検討をつうじて,従来の解釈の利点と難点を示すことを試みる.その上で,私は「ニュー・ヒューム論争」において見落とされてきた意味と真理に関するヒュームの見解をテクストから析出することで,ヒュームがいわゆる「意味の使用説」の観点から「因果関係」という言葉の意味を解明しようとしたことを論じる.

第6 章「確実性と懐疑論」では,(T5) の解釈を批判する.伝統的に,ヒュームは因果関係に関する徹底した懐疑論者として解釈されてきた.だが,実際には懐疑論の無力さを人間の自然本性の根源性によって示す「自然本性主義」の立場をヒュームはとったのである.そうした「自然本性主義」の内実を明確にするため,私はヒュームが『人間本性論』において提示した「理性に関する懐疑論」と「探究に関する懐疑論」を取り上げ,それに対するヒュームの態度がどのようなものであったのかを明らかにする.特に,ヒュームはそうした二つの懐疑論を独自の仕方で無効化することによって,「理性の習慣的基盤」と「探究の感情的基盤」をあらわにすることを目論んでいたという解釈を与える.

以上のことから,ヒュームは,われわれが探究を行う際にしたがうべき「論理」の解明を自らの因果論で試みたと同時に,探究の出発点となる特殊な感情の「論理」の解明を自らの情念論で試みることへと向かった,ということが明らかになる.

一覧へ戻る