本論は鎌倉時代の日本が東アジア諸国(高麗・宋・モンゴル)と結んだ対外関係を検討し、対外関係が日本社会に影響した側面と、逆に日本国内の状況が対外関係に作用した側面の分析を通じて、当時の日本の体制を明確にする試みである。以下では、本論のテーマに則して、各章の内容を簡単にまとめる。

 第一章では、鎌倉幕府の登場が対高麗関係にどのような影響を与えたかを、対馬の事例を中心に検討した。日本に武家政権が登場したということは日本国内の問題に止まり、対外関係と結びつけて論じられることは少ない。ただ、モンゴルと戦争にまで至った一因として、戦う属性を持つ戦士の代表である鎌倉幕府の特徴が挙げられる程度である。しかし、本章では、鎌倉時代の初期に守護が対馬の貿易権を掌握したことで、それ以前まで対馬と高麗との間に結ばれていた進奉関係に変化が現れたことを指摘した。

すなわち、建仁期(一二〇一~四)には、対馬守護が対馬国司の関与を排除して、対馬に出入りする貿易船から徴収する入港税を独占する動きを見せている。この動きと建久六年(一一九六)以前に対馬在庁に惟宗氏が加わったこととを合わせて考えると、守護が対馬在庁に影響を及ぼしたことを基盤に、貿易港の掌握にも乗り出したことが読み取れる。

それに基づいて、守護は対高麗関係にも関与したと思われる。対馬と高麗の間には一二〇五年以前から進奉関係という往来関係があり、そこで用いる牒状の形式も整っていた。しかし、一二〇五・六年の二回にわたって、対馬は先例を無視した牒状を送り続け、高麗から受け入れを拒否されている。既存の勢力に変わって対馬の貿易権を掌握した守護が先例を無視した交渉を試みたためであると思われる。その結果、対馬が以前まで高麗と結んできた進奉関係は廃止された。

 第二章では、外交情報が最終的に朝廷に伝達されることだけを理由に外交権が朝廷にあったという主張には賛成できなく、相手国に送られた外交文書が幕府の命令を受けて大宰府守護所で作成された大宰府守護所牒であったことを根拠に、鎌倉時代の外交権が朝廷ではなく幕府にあったことを指摘した。それを他の側面からも確かめるために、外交文書が伝達される過程を検討してみた。外交文書は一二二七年から一二三四年の間に大宰府から直接朝廷へ報告されるルートが遮断され、朝廷は幕府を経由して外交情報を接するようになった。その結果、幕府は、朝廷の決定を覆したり、情報の選別的な伝達を行なったりして、自分の意志を貫徹することができた。幕府が外交権を握るようになるのは蒙古襲来を前後に軍事的緊張が高まった時期であるとの主張はいまも根強いが、大宰府守護所牒という新しい外交文書が登場した一二二〇年代から外交権は幕府にあったと思われる。

 第三章では、モンゴルと軍事的に対峙していた南宋が一二五〇年代にとった対日本人優遇策について検討した。当時、高麗は表面上はモンゴルに降伏していたが、完全に帰服したわけではなくなおもモンゴルを警戒していたので、南宋は自国と直に接触する日本・高麗人を優遇することで両国を宋側に引きつけようと、日本・高麗の漂流民に対する救済策を実施した。さらに、高麗がモンゴルに協力し南宋に背く場合に備えて、日本商人を対象に関税を免除するなどの優遇処置も断行した。これらの政策は日本がモンゴルと修好する事態を防ぐ狙いから出たもので、それ自体が直接的な効果を発揮したかどうかまでは判然としない。しかし、このような南宋の働きがけがそれなりに効果を上げたことは、日本がモンゴルの招致を拒み続け戦争にまで至った状況から読み取れる。

 第四章では、南宋が銅銭の流出を防ぐため、「倭船入界之禁」という日本船を対象にした入国制限令を一二五八年以前に出していたことを指摘した。南宋では銅銭の流出防止策として日本船を制限する必要性が主張されていたが、その主張が出された時期と引き合わせて「倭船入界之禁」が制定された時期を考えてみると、一二五一年から一二五八年の間ということになる。一二五〇代には日本船による銅銭の流出が甚だしく、その入港を制限する必要性が提案されるレベルに達したので、実際それを制限する法令が出されたのであろう。一二四〇年代に確認される事例からすると、日本船は一年間で南宋の年間鋳造量の四倍以上を持ち出しており、南宋が日本船を特定して禁令を出したとしても不思議ではない。

 しかし、「倭船入界之禁」が出されたにも関わらず、慶元市舶務は貿易からの収入のため禁令を守らなかった。南宋は財政に商業の占める比重が高く、市舶の収入を求めて市舶官に諸外国との貿易の拡大を指令したので、市舶官は収益のノルマのため、密輸の監督が疎かになった。宋朝自身が市舶からの財政源に大きく依存している限り、銅銭の流出は防ぎようがなかったのであろう。それだけではなく、南宋は軍需品確保のためには銅銭の流出をある程度容認しており、硫黄という軍需品を載せた日本船の入港までは禁止できない事情もあった。また、硫黄とともに日本の主要輸出品であった木材も海船の材料という軍需品の性格を帯びていたので、宋の日本船制限令はますますその実行力を失ったのであろう。

 第五章では、日本金の輸出が宋・元の貿易政策に連動したことを指摘した。日本金が中国への返礼品や寺院への布施、入唐・入宋僧の滞在費用や貿易代価として輸出されたことはよく確認される。八~一二世紀にかけて、貿易商との一回の取引につき一〇~三〇両の金が支払われ、返礼品や滞在費や布施としては一〇〇小両~三五〇両ぐらいが中国へ送られていた。しかし、このような日本金の輸出は、一二五〇年代には商人が数両を持ってくる程度にまで落ち込んだ後、一二九〇年代には一度に一〇〇〇両以上という、前代を遥かに上回る輸出量をみせている。

 今まで日本金が宋へ輸出された原因としては、宋に比べて安い日本の金相場が挙げられてきたが、それだけでは時期別の変化の原因が説明できない。そこで、中国側の貿易政策が日本金の輸出に影響した側面を検討してみた。日本金は、一二世紀後半には関税と官の強制的な買い上げに遭う割合が高くなり、あまり利益の上がらない貿易品であったと思われる。特に一二五八年以前の数十年間は市舶官の強奪や仲介人の詐欺の対象になりやすい状況が続いたので、日本金の輸出が激減したのであろう。宋側はその状況を改善するために一二五八年「倭金」に特定して関税と官の買い上げを免除する処置をとった。それにより日本金の輸出状況が改善されたことは当然であろう。

 また、元は宋と違って、定められた関税と船税を徴収したほかは、市舶司で強制的に買い上げることは行わなかった。そのため、日本金も税金を納めるだけで民間と取引でき、ある程度利益を見込めるようになったのであろう。一二五〇年代以後、緩和された金の貿易条件が一二九〇年代に確認される大量の金輸出に繋がったと思われる。

 第六章では、モンゴル合戦の恩賞配分が終了した時期を明確にすると共に、恩賞問題の処理過程にみえる鎌倉幕府の武士支配方式の変化にも注目した。鎌倉幕府は将軍とその従者(御家人)との関係を基盤にした体制で、将軍と御家人は一対一の主従関係であり、御家人の間は平等であることを理想とした。それは、御家人に対して発給される文書形式にもあらわれ、御家人の間にはその勢力の差が存在したにも関わらず、幕府から出された文書からその差を確認することはできなかった。しかし、モンゴル合戦の恩賞配分を機に御家人別に恩賞配分状の形式が異なるようになり、御家人はみな平等とする幕府の態度に変化が生じたことがわかる。一方、蒙古襲来に際しては、軍役と警固役などが非御家人層にも賦課され、幕府は非御家人にも恩賞を与えた。これらは、蒙古襲来に対応する過程で、鎌倉幕府が御家人制を基盤とする体制から脱殻して、より広い武士層を囲い込む体制を構築する必要に迫られたことを意味する。

 以上のように、本論は対外関係という側面から鎌倉時代を見直したものであるが、本論の検討で浮かび上がってきた鎌倉時代の特徴を示すと次のようになる。鎌倉時代の日本は、国家間の公式の外交関係が途絶えていたと評価される時期に含まれるわけであるが、本論の第二章では大宰府守護所が高麗やモンゴルと交渉を行った事例を紹介し、そのような大宰府守護所の行動には幕府の関知があったことも指摘した。確かに朝廷はそれに関与していないが、当時の外交権がすでに幕府の手に移ったことは第二章で指摘したとおりである。また、このような日本と高麗の修交関係を、南宋とモンゴルが通好関係として認識していたことも第三章で取り上げた。そうだとすると、国家間の公式の外交関係が途絶えていたという評価は、対中国関係を対象にした相対的な特徴にすぎなくなる。

 また、高麗と修交関係にあったということは、鎌倉時代の日本が東アジア情勢に巻き込まれる可能性を高めたとも言える。モンゴルが高麗を完全に降伏させた後、すぐ日本に目を付けたのは偶然ではない。長年の通好関係から日本が高麗の動向に影響されると判断したためであろう。このような見解は南宋も同様であった。

 その意味で、日本は対宋関係でも経済的・文化的な交流だけに集中することはできなかった。南宋はモンゴルとの軍事的な緊張の中で、日本を自国に引きつけるために日本人を優遇した政策を実施した反面、日本は宋の軍需品供給源でもあった。日宋間の貿易は単に経済的な交流に見えて、実は東アジアの軍事的な緊張関係が背景にあったわけである。したがって、鎌倉時代の対外関係は意外と軍事的な側面に影響された部分が大きかったと言えよう。