南北朝間を移動する人々と北朝貴族社会

堀内 淳一

本論文では、3~6世紀の中国、南北朝時代を扱う。この時代の中国大陸は、長江下流域に漢人王朝である東晋が成立し、宋・斉・梁・陳と王朝交代を繰り返した。一方、華北ではモンゴル高原東部に起源を持つ鮮卑族が北魏を建国し、一時、北斉・北周に分裂したものの、やがて隋が武力によって南朝の陳を併合した。この華北の政権を北朝と呼び、長江下流域の政権を南朝と呼ぶ。両者の間には絶え間なく戦争が続いていた思われがちであるが、実際には、戦争状態よりも、平和的に併存している期間の方がはるかに長く、定期的に外交使節が交換されていた。また、政変などにより相手側の王朝に亡命する人物も後を絶たず、南朝、北朝とも、亡命者を積極的に受け入れ、定住のための支援を行っていた。

南北の分裂は、最終的に北朝が南朝を征服することで政治的統一がなされた。しかしこれは、北朝の制度や文化が進んでおり、遅れていた南朝を滅ぼしたことを意味しているわけではない。隋唐の制度・文化の中には、北朝が生み出したものだけでなく、南朝由来のものが多く含まれており、その両者を融合したものが隋唐の文化であるとされる。この点について、従来から北朝と同様に「中国」の外から侵入した遼・金・元・清が独自の文化を保持し続けたことと対比して、中国史における北朝の独自性として注目されてきた。

本論文では、南北朝の人の移動が、北朝貴族社会へ与えた影響を明らかにすることで、北朝が隋唐の統一王朝へと変化していく過程の一端をとらえようとするものである。中でも、当時の為政者たる貴族の移動に注目した。

貴族が私的に国外へ出ることは禁じられていたため、彼らが国境を越えるには、外交使節として公式に越境する方法と、亡命者として非公式に越境するかしかなかった。まず、第一章から第三章では、公式な外交使節の派遣を取り上げる。第一章では南北朝間の使者が選ばれる時に、誰によって、どのような基準で選ばれるかを検討する。南北朝間の外交において問われる知識や技術は、儒学、玄学、文学、仏教などの学問だけでなく、弁舌、角力や射的などの武術、果ては囲碁にまで広範囲に及んでいた。文学においては、南朝が北朝を圧倒しており、北朝もそのことを認めていた。そのため、北朝は敢えて文学の分野で南朝とは争わず、弁舌に優れ、所作に威厳のある人物を使者に充てることで、外交の場で、南朝の文化に対抗し、自国の優位性をアピールしようとした。

 第二章では、外交使節に伴って南北朝間を移動するモノについて考察する。外交使節は国家間の贈答品を運ぶ任務を帯びていたが、同時に相手国で私的な交易を行い、利を得る事例も確認できる。国家間の贈答では、馬などの動物、柑橘、酒などの食料品など保存・輸送が困難な品が交換されていた。一方、使者の私的な交易では、貴金属や典籍、薬や毛皮など、単価の高く、輸送の比較的容易な品が扱われた。国家間の贈答は、受け取る側の国が自国を中心とした華夷思想を宣揚しようとする目的があり、そのため贈る側の都合だけでなく、受け取る側が物品を要求することがあった。北朝が受け取った柑橘は、南朝が「島夷」であることを象徴するものであり、南朝が受け取った馬は、その軍事的効用も当然ながら、同時に、北朝が「胡」であることを象徴していた。

 第三章では、北朝の使者が帰国後、どのような知識、経験を本国で求められたのかについて、帰国後に就いた官職から検討する。北朝では使者が帰国後、宮殿の造営、禅譲の式次第、征服戦争の参謀など、南朝で得た知識を活用することが求められる例が見られる。しかし、時代毎に分けて見ると、北魏前期では帰国後に南朝との国境地帯の地方官となる事例が多く、南朝で得た経験を、国境地帯の統治に用いることが期待されていたと見ることができる。一方で、東魏北斉では中央官への就官が増える。北朝が孝文帝期の漢化政策によって、急速な「文明化」を果たしたとするのではなく、より長期的なスパンでの変化を考慮しなければならない点を指摘した。

 さて、南北朝間の外交使節の交換は、494年に中断し、537年に再開されるまで、約40年間の中断期間があった。しかし、その間、南北朝の人の移動は完全に断絶していたわけではない。北朝は継続的に南朝からの亡命者を受け入れてきており、それは外交使節が断絶している期間も同様であった。そこで、第四章以下では北朝における南朝からの亡命者に注目した。

 第四章では北魏における南朝からの亡命者の府佐について検討した。魏晋南北朝時代の地方軍府では、府主が属僚を私的な縁故によって採用する事例が多く見られ、それは北朝も例外ではなかった。府主となった亡命者がどのような人物を幕僚として登用したかを検討すると、亡命者の子弟が多く含まれ、逆に胡族および山東漢人貴族がほとんど含まれていないことが明らかになった。同時に、亡命者が出仕した府の府主を調べると、やはり亡命者または宗室であった。このことから、亡命者が他の亡命者の子弟を幕僚に採用する傾向があったことが示された。これは、北魏の亡命者が一つの政治集団を形成していたことと、その集団が北魏宗室と近い関係にあったことを示している。

 第五章では前章の具体的な事例研究として河内郡の名族、司馬氏を取り上げる。司馬氏は西晋、東晋の宗室であり、南朝から北朝へ亡命した氏族の中でも有数の家柄を誇っていた。北魏初期に亡命した司馬氏の待遇は、北魏の華北統一と、孝文帝の改革の二つの時期を区切りとして大きく変わる。東晋の宗室であった司馬氏の持つ名声は、南朝から人を集めるための宣伝塔となり得るため優遇されたが、同時に北魏内部の反乱勢力を統合する象徴にもなり得たため、中央からは遠ざけられていた。そのような司馬氏の名声は、南朝で劉宋政権が安定すると次第に失われ、北魏後期には郷里社会との結びつきを取り戻し、一般的な華北の漢族貴族と差がなくなっていく。それにともない、姻戚関係の面でも華北に以前から残っている漢人貴族社会と通婚を結ぶようになる。やがて、北朝末期には郷里の民を率いて挙兵する典型的な漢人貴族となり、唐代に到る。

 第六章では、北魏後期の宗室の南朝への亡命を取り上げ、南北朝の外交が断絶している期間における人の移動がもたらした南朝観の変遷を問題とする。北魏後期には、孝文帝の改革により南朝的な政治制度を維持しようとする皇帝に近い宗室や皇后、亡命者集団などと、改革によって権限を失った宗室疏族や中下級の北族らの対立があり、そのため南朝への亡命が頻発した。宗室の南朝への亡命には、それ以前に北魏へ亡命してきた南朝出身者が手引をしていた。梁は北魏宗室や北朝貴族を帰国させることで、間接的に北朝をコントロールしようとし、平和的、軍事的双方の手段で北魏宗室の帰国を支援した。亡命した北魏宗室・貴族の一部は南朝文化に接した結果、梁に好意的な態度を取る者が現れるようになり、それが東魏北斉と梁との外交使節回復へ繋がっていく。

 補論では、第一章で述べた相手国の呼称に関連して、南北朝最末期の隋と陳の外交記録を取り上げ、南北朝時代の史料の性格を検討した。『陳書』記載の対隋関係記事には欠落があり、しかも、それは作為的に削られた可能性が高かった。そのような作為を行う背景には、隋唐代の編纂過程で、北朝に不都合な外交内容が多く含まれていた為であろうと推測し、唐代に編纂された現行の『陳書』には、大きなバイアスが掛かっている可能性を指摘した。

 従来の研究では北朝が漢族の文化を受け入れた時期を、北魏孝文帝(位471-499)の改革に見いだしている。孝文帝以前の南北朝関係は、「島夷」「索虜」と互いに蔑称で呼び合うものであった。孝文帝は南朝からの亡命者を重用し、胡族の「漢化政策」を推し進めたとされる。しかし、南朝からの影響が大きく現れるのは孝文帝の死後であり、孝文帝の改革期に南朝から流入した要素はそれほど大きくなかった。孝文帝の改革は、南朝出身者の貴族社会内部での立場を上昇させるきっかけとなったものの、「南朝化」あるいは「漢化」と呼ぶべき劇的な変化ではなかったといえる。

 孝文帝が南朝との外交使節交換が絶ったにもかかわらず、この時期に南朝出身の亡命者の貴族社会内での地位が向上している。ここから、孝文帝が単に南朝への憧憬や畏怖からいわゆる「漢化」を進めたのではなく、北族・華北漢族に対抗しうる皇帝の爪牙として、南朝の持つ「権威」や、亡命者集団を利用したと考えられる。この傾向は、途中、抑圧された北族の反乱である六鎮の乱によって中断されたものの、北斉末まで一貫した傾向としてみることができる。

 北族にも、華北漢族にも与さず、両者を統御するため、北魏宗室が南朝という権威を利用したとするならば、その南朝は「島夷」と呼ばれる野蛮な地ではなく、北朝に対抗しうる文化的に対等な国家であるとせざるを得なかったであろう。北魏初期から南北朝統一に到るまで、北朝貴族の南朝観が「島夷」から「善隣の国」へ変化していく過程は、北朝が抱える内部的要因を、南北朝並立という外的要因によって克服していこうとする動きの中で出てきたと考えられる。

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