ホーフマンスタールの文学における中心と「中心点」―後期作品を中心として―

小野間 亮子

本論の目的はホーフマンスタール文学に内在するダイナミズムを明らかにすることである。ホーフマンスタールは、その文学活動において、言語によって捉えられない<何か>を他ならぬ言語によって表出させようと試みた。本論では、その<何か>を未完のロマーン『アンドレーアス』におけるホーフマンスタール自身の言葉に従って仮に「中心点」と呼び、それを捉えようとする試みとして彼の文学作品を考察する。ただし、「中心点」は確定されえないがゆえに、多様な展開を必要とせざるをえない。それらを比較考察するならば、これまで「中心点」という仮の名で呼ばれていた名指されえぬ<何か>、つまり『アンドレーアス』という一つの作品にとどまらずホーフマンスタールの文学活動全体に及ぶダイナミズムを生じさせる<中心>の存在が明らかになるはずである。この<中心>を多様な接近によって浮かび上がらせようとする研究方法は、ホーフマンスタール自身の文学的試みと、ある種の平行関係に置かれうるものである。多様な形式と作品内部に現れてくる形象という二つの次元で、それぞれの作品を分析してゆくが、両者を完全に分離することは不可能であり、実際にはこれらの絡み合いが論じられねばならない。

第一章ではホーフマンスタールのメールヒェンを取り上げる。その根底をなす美学的原理「アラベスク」によって、一見すると閉じた作品は内部から揺るがされてゆく。それは、具体的には<意味からの解放>と<無限の生成>という二つの形をとる。まず、意味づけられるものが、意味づける者を中心として形成する閉鎖的な関係が解体され、あらゆるものを関連づける存在としての主体が退けられる。更に、無限に展開する充溢と完結へと収斂する統一を二つながらに希求するという要請が、決して捉えられない<中心>を巡ってどこまでも伸びてゆく円環状のアラベスクとなって現れる。これを体現したのが、『影のない女』である。

この作品では最初に、あらゆるものを関連づける点が、一人の人物「帝」として提示されている。こうした所有する者である帝を中心として形成された閉鎖的な円が、所有される者、すなわち妃の行動によって解体される。しかし、真の「中心人物」と目された妃は、作品の完結性を保証する円環構造において中心となるはずの第四章に現れず、中心点として固定されることを拒む。また、彼女が精霊から人間という不完全な存在になる結末は、作品自体を不確実性の中へ投げ入れる。絶えざる変化と結びつけられた作品の始点と終点はすれ違い、閉じられるはずだった円環を螺旋へと解体してしまう。このメールヒェンにおいて、作品構成要素としての中心が空位となることにより、作品を内側から開いてしまう別の<何か>が暗示される。

第二章では、『影のない女』でその存在が明らかになった<何か>を、ホーフマンスタール自身の表現に即して仮に「中心点」と呼び、そこから生じる『アンドレーアス』のダイナミズムについて論じる。この作品は、1995年以降主流となったホーフマンスタール研究が主張するような単なる断片ではなく、ある<中心>を有している。しかしながら、それは到達不可能であり、従来試みられてきたようなテクストの「再構成」によって作品内部に固定しうるものではない。フラグメントに関するホーフマンスタールの認識は、実現不可能な全体性を前提とした初期ロマン派以来の伝統を継承している。ただし、それをいかに文学作品において表現しうるかという試行錯誤からは、彼の独自性が見て取れる。この主張を証明するために、『アンドレーアス』の作品分析を試みる。

主人公アンドレーアスは故郷ウィーンから修養の地ヴェネチアへと送り出され、その途上で「中心点」の予感を与えられるが、自身は「中心点」そのものではなく、それを巡ることによってその存在を示唆する者である。また、彼によって「中心点」だと錯覚される様々な女性たちもまた、「中心点」ではない。というのも、真の「中心点」は作品の時空間内に決して現れず、それを巡る運動によってのみ担われるからだ。こうした運動を端的に表しているのが、マリア/マリキータという二重人格の女によって体現される「相互作用的なもの」である。そこでは両極が作用し合うが、より高い次元での止揚という安定的構図に収まりはしない。それは、いかなる統合も拒みつつ極から極へと移行し続け、遂には解体へと至る過程である。

第三章では、フラグメントにおいて見出された到達不可能な「中心点」が、アフォリズムの中で実現不可能な「全体」へと読み替えられ、追求されている事を明らかにする。フラグメント同様現前する部分と決して現れない全体のダイナミックな関係を問題にするアフォリズムという形式においては、一見そこに含まれているものすべてが「中心点」として機能しうるかのように思われるが、真の<中心>は、それらの間にあらゆる連関を生じせしめる点、つまり到達不可能な全体性そのものである。その例として、『友の書』を論じる。『友の書』とは、ホーフマンスタール自身による「夜会」という構想そのままに、死者と生者、著者と読者の精神が確定不可能な「中心点」を巡って繰り広げる対話、厳密には対話が行われている「場」そのものである。この「場」を、『国民の精神的空間としての著作』は一冊のアフォリズム集に収まらない「精神的空間」へと拡大する。すなわち、「決して書かれない主著」を中心に、個々の著作が様々な形で交錯し、その都度異なる「空間」が生じるのである。ゆえに、ホーフマンスタールが「保守革命」を通じて実現しようとした「精神的統一」は、「精神的空間」において交錯する多様な要素を伝統の力によって一義的な綜合へ止揚するといった類のものではない。「国民の精神的空間」実現のためにホーフマンスタールが必要とした「新しい神話」はまさしく「決して書かれない主著」であり、実際にはその「序章」のみが無数に書かれ続ける。

第四章では、引き続き「新しい神話」について考察する。ホーフマンスタールが第一次世界大戦後の荒廃を、「伝統」、「精神的秩序」としての「古代の精神」に対置しているのは事実である。しかし、彼によって提唱された「新しい古代の創造」とは、伝統に立ち戻ることで現代においては失われてしまった「綜合」を甦らせるという文学的使命を意味しているのではない。ホーフマンスタールの手になる神話は、伝統を志向してはいるものの、単なる回帰ではないからである。少なくとも『ナクソス島のアリアドネ』において、作家が目指していたのは「一見古めかしいものに立ち戻るように思われる新しいジャンル」であり、伝統に立ち戻るのは、そこに至る「すべての発展が螺旋を描きながら行われてゆく」ことによる。また、ホーフマンスタールは神話を素材とする作品に取り組む際、必ずしも多様なものを一義的に綜合しているわけではない。『ナクソス島のアリアドネ』には、見せかけの「合一」とは裏腹な相克が現れてくるが、それは相反するもの同士の絶えざる移行によってのみ表現されるためである。『ナクソス島のアリアドネ』の前芝居において、この相克はオペラ・セリアとオペラ・ブッファという二つの形式を代表する人物形象である作曲家とツェルビネッタの衝突として表されている。続くオペラでは、この対立が更に高次の次元で現れる。すなわち、『アンドレーアス』でも再三言及された「相互作用的なもの」が、アリアドネとバッカスの合一として顕現するのだ。しかし、それは単なる神秘体験ではない。相反するもの同士が突然入れ替わってしまい、そこから<変化を可能にせしめる何か>の存在が事後的に確認され、まさにこの変化が<何か>の表出として捉え返されるのである。一見成就したかのような合一をツェルビネッタの再登場が更に覆す幕切は、その<何か>が依然として確定されておらず、無限にずれてゆきかねないことを露にする。

第五章では、『新しい小説』と名付けられた覚え書き群を論じる。この構想は、断片と化してしまった『アンドレーアス』を新たな枠組みへと回収するために始められた。しかしながら、「決して何かを背後に置き去りにするのではなく、より高い螺子山へと上がって同一点に戻る」螺旋状の発展が、またしても一義的な統合を妨げる。すなわち、直線的な進行のうちに次々と新たな着想を繰り広げてゆくのではなく、新しい構想に向かいながらも絶えず古い作品に立ち戻る運動を繰り返す中で、「中心点」となるべく新たに定められた主題および登場人物(「社会的な個人」)がその機能を果たせなくなり、作品は再び断片へと解体してゆく。統合を目指しながらも、断片化の過程としてのみ現れる『新しい小説』の分析を通して、調和と運動を同時に希求し、そのどちらにも安らうことのできなかったホーフマンスタール文学の本質を明らかにする。

以上の章立てに基づき、作品内部に現れる相容れない要素、すなわち完結と展開、収集と拡散、対立する形式、露骨なまでの統合への志向と断片化が相互に作用し続ける運動を介してのみ、「中心点」の存在が―予兆に過ぎないとはいえ―開示されうるという結論を提示する。

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