江戸時代の唐画

伊藤 紫織

江戸時代中期、古画ではない新しい中国の絵、またはその画風に倣った絵が「唐画」と呼ばれ流行した。現在の美術史の用語では南蘋派・南蘋風、南画などが相当する。唐画(絵)は平安時代にはやまと絵に対する語として用いられ、当時は題材による区分であった。中世には主題と様式が結びついた語として用いられた。唐画と呼ばれたのは江戸時代中期、経済の発展に伴う絵画需要の高まりもあって続々現れた新しい画派であった。

唐画は西洋と中国の影響が重なり合う江戸時代中期絵画の中で成立した。中国の影響としては、新しい禅宗として伝わった黄檗宗が画像を持ち込み、黄檗絵画が描かれるようになった。長崎に招かれた隠元隆琦は寛文元年(1661)京都宇治に黄檗山萬福寺の基礎を建立した。喜多元規が描く黄檗僧の肖像画は隈取による陰影表現を取り入れており、中国を経由した西洋の影響でもあった。黄檗僧の余技的な水墨画は南画に影響を与えている。唐画が盛んにおこなわれる土台が黄檗絵画によって作られた。享保16年(1731)、中国人画家沈南蘋が長崎に来日し、直接沈南蘋に師事した熊斐を通じて南蘋の写実的な画風は日本全国に広まっていった。南蘋の影響を受けた画風を南蘋風、南蘋風の絵を主に描いた画家を南蘋派と呼ぶ。南蘋風の流行にやや先立ち、黄檗絵画の影響も受けつつ、中国の文人画の画風を取り入れた日本の文人画、南画が起こっている。南画とは南宗画の略で明治期以降に盛んに用いられる語で、当時は文人画、南宗画と呼ばれていた。初期南画家、祗園南海は、黄檗画僧である蘭渓若芝に学んだ。南蘋派と南画は江戸時代中期にほぼ同時代の中国の影響を受けて成立したという点が共通する。江戸でも京都でも、そして大坂でも、現在の南蘋派・南蘋風と南画は合わせて唐画と呼ばれていた。同じころ中国を愛好する共通の文化基盤の上で唐様の書も行われていた。

 洋風画も唐画に極めて近いものとして扱われる場合があった。秋田蘭画は司馬江漢以前に大名佐竹氏を中心に洋風画に取り組んだ一派である。秋田蘭画の画家、小田野直武は平賀源内のもとにつかわされて洋風画を学ぶが、家中では唐画を描いていると認識されていた。佐竹氏の江戸留守居役を勤めた手柄岡持(平沢常富)は直武や同様に洋風画を描いた主君佐竹義敦(曙山)の絵を指して「紅毛流」と評している。直武の絵は、オランダ風の洋風画という認識を持っていれば紅毛流として、そのような認識を持たなければ唐画として見られたのだろう。司馬江漢は洋風画も南蘋風の絵画も残しているが、唐画を描くと当時認識されていた。幕末にはそれまで唐画と称していたものを南画とし、南蘋派、南蘋風の一派も南画の一部と見なされるようになる。

第一章は唐画の成立に関わる、江戸時代中期絵画における西洋と中国の影響および絵入版本について述べた。西洋と中国の影響は重なり合い、写実表現は光源を意識した西洋の陰影表現と南蘋風の精緻な描写が入り交じって普及した。唐画の唐は中国だけでなく異国を指すもので、南蘋派も洋風画も唐画であった。南蘋派は大名に好まれ、自ら南蘋風の画を描く大名も多くいた。洋風画の先駆秋田蘭画の主要画家の一人、佐竹曙山も大名であった。異国趣味として合わせてとらえられる南蘋派、洋風画が職業画人だけでなく大名ら高位の武士たちによっても描かれ社会的な影響力を持って広まった。絵入版本、特に画譜は南画の成立に影響を与えた。また南画、南蘋派の画家の画譜も出版された。画譜に学んで唐画が描かれ、唐画が画譜として広まるという相互関係が成立していた。南蘋派の宋紫石や森蘭斎の画譜の出版にあたっては大名の関与もうかがえる。

第二章では『平安人物志』などの人名録や随筆により京都における唐画の画家の範囲を確認した。和流ではない画家を挙げる『平安人物志』前期三版に載る円山応挙とその一派だが、唐画とはされない場合もあった。唐画が盛んに行われた明和年間以後、京都では伊藤若冲、曾我蕭白といった新奇な画風の画家が活動した。若冲、蕭白、応挙を唐画の画家として位置づけた。若冲は元代以降の中国絵画を学び、より新しい中国絵画の画風とともに取り入れた。南画を高く評価する中林竹洞は蕭白を和画としている。蕭白の復古的な画風は新奇なものとして受けとめられ、また明代浙派や黄檗絵画のような新しい中国絵画と合わさって唐画とされた。蕭白は唐画と結びつきやすい中国山水、中国の故事人物を描いた作品を多く手がけた。「虎渓三笑図」(千葉市美術館蔵)や「林和靖図」(千葉市美術館蔵)などは山水図に故事が盛り込まれ、山水モチーフにも故事の意味づけがあった。「月夜山水図屏風」(近江神宮蔵)は西湖十景として解釈できる。「群仙図屏風」(文化庁蔵)は中国の仙人という唐画向きの主題を、黄檗絵画の影響を受けた唐画の様式で描いたものである。蕭白による「美人図」(奈良県立美術館蔵)、「柳下鬼女図屏風」(東京藝術大学蔵)といった唐画ではない和画の主題の作品にも形態等に唐画の要素を指摘できる。

第三章は大坂における唐画を扱った。南蘋派の画家森蘭斎が大坂を去り江戸へ移るのと同じころ、大坂では南蘋派が下火となり、唐画の主流は南画へ移っていった。蘭斎については大坂での活動である『蘭斎画譜』の出版経緯を明らかにし、出版に木村蒹葭堂の関与を想定した。蘭斎は上州宮崎の富永朔宇、信州上田の成澤雲帯、郷里である越後新井の金子如蘭といった俳諧でつながる地方文人たちから支持を受けていた。もう一人淵上旭江を大坂の唐画の画家として取り上げ、「五畿七道図」(岡山県立美術館蔵)と注文主和田隆侯について述べた。「五畿七道図」は中国風山水の型により日本の実景を描いたものである。「五畿七道図」と密接に関連する『山水奇観』の出版と蔵板についても触れる。『山水奇観』の出版にあたっても蒹葭堂の関与が想定できる。

第四章では江戸の唐画について見た。南蘋派から南画へという大きな流れは江戸、大坂と共通するが、江戸では雪舟流の画家の活動もあった。南画では谷文晁が出て南北合法、南北一致の画家が大勢力となり、唐画の語は用いられなくなる。南宗を高く評価する前提での南北合法は否定的な意味があったが、その後南北を兼ね備えることを肯定的に自称する画家が現れた。師系が南蘋派に連なる岡本秋暉の画風には南蘋風の要素があるものの、南蘋風のみで成り立つ作品は少なく、秋暉は南蘋派の画家というより北宗を取り入れた南北一致の画家であった。南蘋派・南蘋風は唐画として南画に繰りこまれたが本来は北宗である。鈴木鵞湖は文晁の孫弟子にあたり、南北一致を自称した。南北一致は南宗と北宗を兼ね備えた様式を指すとともに、どちらの系統の画題も手がけるというレパートリーの広さをも現わしていた。明治15年(1881)に開催された第一回内国絵画共進会の第三区支那南北派には南北合法の他、南宗派、北宗派、南蘋派といった広い意味の南画と一部の円山四条派が含まれ、唐画の枠組みが受け継がれていた。

第二章から第四章では、地域別に出版されていた人名録に基づき都市ごとに唐画の画家の範囲を検討した。三都の京都、大坂、江戸の順は、唐画がいち早く始まった京都、遅れて始まって早々に下火になった大坂、早くから唐画の語が用いられ長く続いた江戸の順とした。三都において唐画の概念はおおむね共通し、時期は若干異なるものの、唐画のなかで南蘋風・南蘋派の勢力が弱まり、南画が台頭するという同様の経過をたどる。その結果南画の範囲が拡大して、かつて唐画と呼ばれた中国風の絵は南画に集約されていく。唐画の画家の範囲を見るために参照した人名録は出版時の新しい人物情報を伝えるものである。唐画には新しいものという含意があった。唐画とされる画家には復古的な画風のものもいた。新しさは相対的なもので、復古的な画風も新鮮なものとして受けとめられれば「新しい」のである。新しさは移り変わり、長く続かない。新しかった円山応挙の画風が広まって当たり前のものとなり、応挙一派は唐画とは呼ばれなくなった。

唐画とそれに対する和画とはまず様式で区分される。唐画の画家は主に唐画の様式で描き、和画の画家は主に和画の様式で描く。唐画、和画は様式と結びついた画題の区分でもあった。山水は中国山水として描かれることが多く、唐画と結びつく。花鳥画はもともと中国で成立したジャンルだが、すでに室町時代にやまと絵の花鳥が成立し、琳派の作品にみるように和画の様式の花鳥もあった。南蘋派が多く描いた中国絵画に由来する吉祥画題の花鳥画は唐画と結びつきやすいものであった。人物では、日本の風俗の人物が和画で、中国人物が唐画で描かれるのが常である。

唐画と和画とを画家で厳密に分けることは難しい。曾我蕭白の例をみたように唐画の画家が和画の主題を描くこともあった。葛飾北斎は唐画と和画でいえば和画に入るだろう浮世絵師だが、唐画的な描法を指摘できるし、中国人物のような唐画的主題も多く描いている。唐画と和画にまたがる画家も少なからず存在する。

唐画の語は使う人によってゆらぎがある。唐画は唐画と呼ばれるもの、としか厳密には定義できない。しかし、平安時代からあった唐画(絵)という語が江戸時代中期、同時多発的に再び現われ、意味の幅を持ちながらも用いられ続けたことは重要である。中国的主題が好まれ、その主題を効果的に表すために唐画の様式が歓迎され、唐画の画家が多く活動した。唐画とは、相次いで盛んになった、南蘋派・南蘋風、南画を新しい中国絵画に倣うという共通点に注目して総称する呼び名である。唐画は新しい中国絵画に倣いつつ、江戸時代の日本で形成された日本式中国絵画であった。

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