ケアと行為者性の哲学―揺れ動くものとしてのケアと行為者性―

早川 正祐

現代行為論の主流においては、意図または(未来指向的な意図の一種である)計画や方針といった観点から、人間の行為者性(行為者としてのありよう)が論じられてきた。しかしながら本稿では、このような意図中心の行為論の現状に満足せず、ケアという観点を手がかりにして、従来の行為者性の哲学に一石を投じることを目指す。

とりわけ、ケアが含む「気にかかる」という受動的契機に着目し、ケアにおける関係性の次元――主体とケア対象との関係性、またケア対象をとりまく人たちとの関係性――を重視することによって、一定の時間的推移の中で揺れ動きつつ進行するケアと、そこに現れてくる行為者の変化に富んだありように光を当てる。そしてこういったケアの観点からのアプローチ(以下では「ケア・アプローチ」と呼ぶ)が、主体の主導性を重視する従来の行為者性の哲学に対して、どのように挑むことができるのかを考察することになる。

第一章では、本稿における「ケア・アプローチ」の基本的な枠組みを提示することを目的とする。まず、ケアがある対象への「関心」を含む概念であるという点を押さえ、そこでの関心には行為への傾向性が伴っているがゆえに、ケアと行為者性が結びついているということを明らかにする(1.1)。次に、ケアにおける関心を分節化すべく三つの区分「気にかかる/気にかける/大切に思う」(ケアの三区分)を導入する。こうしてケアをどういうものと考えるのかに関して一定の明確化を図った上で(1.2)、英語の“care”の日常的用法を主題的に取りあげ、その日常的用法においてはケアの対象が多岐にわたっている、という点を確認する。そして、本稿で導入したケアの三区分が、そういったケアの日常的用法の特徴(ケア対象の多岐性)を踏まえたものであることを確認し、その三区分に基づいてケア・アプローチを展開することで、ケアの観点から、人間の行為者性を特定の分野(医療・福祉)に限定されない形で幅広く論じることができる、という点を示す(1.3)。さらに、ケアの日常的用法に根ざした解釈(ケアの日常的解釈)と対立するものとして、ケアを道徳性に制約されるものとして厳格に解釈する議論(ケアの厳格な解釈)を取りあげる(1.4)。そして、その厳格な解釈がかえってケアがはらむ複雑さや危うさに関する考察を妨げてしまう可能性がある点を指摘することで、それらをきちんと考慮に入れることができるケアの日常的な解釈を擁護する(1.5)。

第二章では、第一章で示した基本的な枠組みに基づき、「ケア・アプローチ」を本格的に展開させる。その際、鍵になるのがケアの第一区分である「気にかかる」という様態である。まず、「気にかかる」という様態が、その対象によって注意が引き留められる、という受動的な性格を特徴としている点を確認する(2.1)。次に、「気にかかる」という受動的様態への着目が、本稿独自の方向性であることを踏まえ、そもそも従来のケア・アプローチが、なぜ「気にかかる」という様態を軽視し、ケアの第三区分「大切に思う」という水準でのケアに議論を集中させてきたのか、を考察する。そして、「大切に思う」ということが継続性をもつがゆえに、「「大切に思う」というあり方を分析することで、時間的な拡がりもつ通時的な行為者のありようを明らかにする」という重要な目論見が、従来のケア・アプローチにはあったことを押さえる(2.2)。しかしながら実のところ、通時的な行為者性を豊かなものとして捉え直すためには、ケアに含まれる「気にかかる」という様態にも同様に着目することが決定的に重要になってくる。というのも、「気にかかる」という様態は、その主体にとって慣れ親しんだ要素のみならず、未知の要素 ――それは、ときには、その主体がすぐには呑み込めない異質な要素であったり、主体を動揺させるような要素であったりする――に対するアクセスも備えており、それゆえに、後の時点での、主体の行為のあり方を重大な仕方で変化させる効果をもちうるからである(2.3)。そして、「気にかかる」における受動的様態の分析を通じて、「ある時点で気にかかったことがきっかけになって、その後の時点では、これまでとは別の仕方で行為を為す」という受動と能動の結びつきを捉え直すことができる(2.4)。

 第三章では、ケア・アプローチの最も代表的な論者であるH・フランクファートの議論の批判的検討を通して、本稿のケア・アプローチを、関係的で動的なアプローチとして充実させていくことになる。まず、フランクファートが、ケアにおける意欲の次元を、ケアに結びついた欲求を、他の欲求に対して優先させようとする態度(二階の関与的態度)として捉えている点を明らかにする(3.1)。次に、フランクファートが意欲の必然性というもの(「ケアと結びついている行為へと自らを仕向けざるをえない」という意欲の様態)に訴えて、意欲の統合性をより重視していく点を見る 。そして、こういった立場をとる背景には、意欲の統合性の内に、その人を当の人物たらしめるような「その人らしさ」が見いだされる、というフランクファートの考えがあることを指摘する(3.2)。こうしてフランクファートの洞察を踏まえた上で批判的検討に入る。とりわけ、フランクファートが意欲の統合性を重視するあまり、葛藤を否定的なものとしてのみ扱っている点を批判的に取りあげる。ここでも「気にかかる」という様態に着目することになる。主体は「気にかかる」ということを通じて他の者からの訴えや要求に直面し、しばしば葛藤に陥るが、まさにそう葛藤するからこそ、自らの行為のあり方を重要な仕方で再考することもできる。そうである以上、葛藤を単なる否定的なものと見なすことはできない。ただし、だからと言って葛藤を肯定的なものとしてのみ提示するわけでもない。むしろポイントは、葛藤についての我々の評価が、肯定的/否定的の二分法で捉えきれないような複雑なものだという点にある(3.3)。さらに、こういった葛藤についての評価に関する考察を踏まえつつ、本稿の関係的で動的なアプローチは、「その人らしさ」というものが、意欲の統合性において見いだされる、というフランクファートの考えに対しても異議申し立てをする。すなわち、葛藤から自由になった統合的なあり方ではなく、むしろケアにおいて出会う人たちからの訴えや要求にさらされ葛藤する只中において、その人の連続性が保持され、その人らしさが表現される、というケースをいくつか示し、そういったパターンがその人らしさを表現する一つの典型的なパターンでさえあるという考えを展開する。こうして、ケアにおける関係的次元を重視しフランクファートの議論を修正・補完することで、ケア・アプローチを前進させる 。

第四章では、それまで展開してきた本稿の(行為者性に関する)「ケアの観点からのアプローチ」が、行為者性の哲学の主流である「意図の観点からのアプローチ」(以下では「意図・アプローチ」と呼ぶ)に対してどのような重要な意義をもっているのかを考える。まず、計画・方針の眼目が、複雑な活動を遂行するために前もって見通しをよくする点にあるがゆえに、計画・方針には再考慮や再検討に抵抗する傾向性があるということに注目する(4.1)。そして、ケアが含む「気にかかる」という受動的契機が、再考慮や再検討を促すということを一つの基本的特徴とするため、再考慮や再検討に抵抗する働きをする計画・方針からケアは区別されなければならない、と考えることができる。しかしこのようにケアと計画・方針を区別した上で、ケアは計画・方針に結びついていくものだという点にも注意しなければならない。ある時点では、「気にかかる」という様態が、主体を未知の局面に出会わせ、動揺させることで、予めの計画・方針の円滑な遂行は妨げられるかもしれない。しかし、その後の時点では、その気にかかったことが端緒になって、予めの計画・方針とは一貫しない新たな計画・方針が生成する可能性もあるのだ(4.2)。

このようにしてケア・アプローチを発展させることで、意図・アプローチの成果を取り入れつつ、通時的な行為者性に関する、記述的側面の考察を充実させることができる。つまり、一方で「我々が計画や方針をもつ行為者である」という基本的なアイデアを手放さずに、しかし他方で、「我々は気にかかることを端緒にして、ケア対象やケアにおいて出会う人たちの様々な要求に直面し、計画・方針の再考を促され(迫られ)、ときには(その予めの計画・方針とは相容れないような)別の計画・方針を新たに形成していく」というアイデアもまた尊重できる。

最後に、以上の一連の考察が、意のままにならない要素にとらわれ、翻弄されつつ行為する、という人間の行為者のあり方を解き明かしている点を示す。それはこれまで行為論で重視されてきた自己統御的なあり方とは一線を画するものである。しかし、そのようなあり方もまた、ままならない現実を生きる行為者の等身大のあり方なのであって、こういった人間の行為者が抱え込んでいる「翻弄されやすさ」こそが、能動性を強化して捉えようとする意図・アプローチや従来のケア・アプローチが見落としてきたものなのである。そして本稿の重要な意義は、その見落とされてきた「翻弄されやすさ」を、単にスローガンとして提示したり、手短に論じて終わりにしたりするのではなく、細部にまで踏み込んで分析することで、行為者性や行為者に対する評価がいかに入り組んだものであるのか、その内実を重要な仕方で解明した点にある。

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