本論文は、中国唐代の詩人李賀の詩について、主としてテクスト論的見地からその特質を論じるものである。特に彼の詩にあらわれた時間意識を中心に分析をすることにより、従来の研究で見落とされていた李賀詩の新たな側面を明らかにし、他の詩人たちと比較考察をした上で、その独自性を浮き彫りにすることを目的とする。

 序章「近現代における李賀研究の課題と本論文の構成」では、近代以降における李賀研究の諸相を、本論文の主題に関わる議論を中心として概観する。まずは、近代的な手法を用いて李賀の詩にアプローチをした第一人者である銭鍾書の研究成果を整理して提示する。銭鍾書は『談藝録』の中で、李賀の詩に見られる様々な表現技法そのものに分析を加え、その独自性を明らかにして以後の李賀研究の礎を築いた。その功績は非常に大きいが、一方で、銭氏は李賀の詩に特徴的に見られる長大な時間や世の転変無常の描写については、人間の短い生を際立たせるためのものとして捉え、そうした時間意識を二十七歳で病死した李賀の夭折と結びつけて論じている。そして以後の研究者も、銭氏の意見を批判的に乗り越えようとはせず、夭折・病弱という強いバイアスがかかった状態で李賀の時間意識を読み解こうとし、結果として銭氏の結論と同工異曲の指摘が繰り返されてきたのである。本章では、李賀の時間意識に対する銭鍾書の考えが、なぜ後世の研究者に違和感なく受け入れられているのか、その原因についても検討する。

 第一章「楽府「巫山高」から見た李賀詩の特質」では、李賀の楽府「巫山高」を他の詩人の手になる同題の楽府詩と比較・分析することにより、巫山神女の物語に対する両者の捉え方に明確な違いがあることを指摘し、その違いを通して李賀の時間意識の一端を浮かび上がらせる。他の詩人の「巫山高」で描かれていたのは、同じ価値観を有する者同士の間で共有された観念的な巫山であった。いわば、すでに固定化された「神女と楚王の物語」に依拠した上で、「巫山高」は書かれていたのである。一方、李賀はそうした物語に依存せず、神女と楚王を新たに視覚的なイメージで描き出し、同時に神女の特性である長大な生を、無窮につづく不幸な時間をもたらすものとして捉えていた。以上の分析を通して、李賀が知識人の間で共有されていた「観念の共同体」から自由であったこと、及び「既存の物語を解体しようとする志向」を、彼の時間意識を解明するためのキーワードとして、本章では提示する。

 第二章「神女のなごり――神女廟に寄せる詩人の思い――」では、前章で提示したキーワードを、神女が祀られた廟を主題にして詠んだ李賀の詩を分析することで再確認するとともに、廟に祀られた神女を「無窮なる時間の囚われ人」として捉える、李賀の特異な発想について考察を加える。唐の詩人が神女廟を訪れて詠んだ詩においては、目の前に存在するモノよりも、その地が背景としてもつ観念の方が、詩作の上で優位にたつのが常であった。一方、李賀は廟に祀られた神女の背景にある物語に、全く關心を示していない。李賀が問題にしたのは、廟という空間のもつ獨特の閉塞感であった。彼は「貝宮夫人」という詩で、廟に祀られた神女の塑像を、あたかも生きた人間のように描きだし、同時にそれを、廟に囚われた不如意な閉塞状態にあるものとしてとらえている。この「貝宮夫人」と表裏をなすのが「蘭香神女廟」という詩である。そこでは、偶像の殻をやぶり、実体と意志をもって廟の外を自在に駆けめぐる神女が描かれるが、それは貝宮夫人の身を置く情況の不条理さに逆の方向から照明を当てたものといえる。

 第三章「李賀の詩における無窮なる時間と永遠の現在」では、李賀の詩にあらわれた無窮の時間に照準を合わせ、李賀と従来の詩人とでは、その時間の捉え方が大きく異なっていることを論じる。李賀の詩にしばしば無窮に流れる時間があらわれることについては、これまでもたびたび問題にされてきた。だがその際、この無窮なる時間そのものは考察の対象として分析されることはなく、詩人自身の、或いはより普遍的な人間の有限の生を際立たせるための装置として処理されてきた。だが、李賀の詩をそれぞれのテクストに即して詳しく分析してみると、彼の詩にあらわれる無窮の時間が決して一様なものではなく、大きく二類に分けられることが分かる。一つは、事物にほとんど変化を与えぬまま無窮に流れ続ける時間であり、もう一つは人間や神仙を次々と死に追いやりつつ、スケールの大きな変化を世界にもたらす時間である。

 本章では前者のタイプについて論じる。そこに顕著に見られる特徴は、そうした変化のない時間に身を置くことを、不幸な閉塞状態として捉える態度がしばしば示されていることである。そのことを、李賀の「蘇小小歌」と「莫種樹」および「李憑箜篌引」から読み取っていく。同時に、このような李賀の時間意識を相対的に把握するため、中国人が無窮の時間をどのようなものとして捉えてきたのか、その歴史を概観する。無窮につづく変化のない時間は、詩経の時代においても、楚辞より後においても、それぞれ性格は異なるものの、望ましいものとされていた。こうした文学史の流れを追うことで、変化をもたらさないまま無窮につづく時間そのものが、ある種の閉塞的な情況をあらわすものとして機能している李賀の詩の特異性を浮かび上がらせる。

 第四章「李賀の詩にみる循環する時間と神仙の死」では、第三章で保留にしていた問題、すなわち、人間や神仙を次々と死に追いやりつつ、スケールの大きな変化を世界にもたらす無窮の時間について検討を加える。分析の対象とした李賀の詩は、主として「官街鼓」と「浩歌」および「三月過行宮」の三首である。そのうちの「官街鼓」と「浩歌」には、ある共通する要素が見出せた。それは、次々と死んでゆく神仙のイメージが見られることである。「浩歌」において特徴的なのは、諸々のスケールの大きな循環運動と併置することにより、神仙までも、生と死の循環を無限に繰り返していることを、読む者に感じさせることであっった。「浩歌」の特徴としてもう一つ挙げられるのは、季節とともに循環する自然物に、人間の生を溶けこませていることである。それに加えて、報われない労役に服する者のイメージがテクストの随所に配置されることにより、四季が決まった周期でめぐり、去年と似た自然が再び姿を見せるのと同じように、人間の生もまた、たとえ変化が起こったとしても、また元のところへ回帰してしまう不毛な営みとして描き出されるのである。循環の輪にとらわれ、生と死を幾度も繰り返している神仙は、そのような人間の姿を映し出すものとしてある。同じことは、時間によって幾度も葬られている「官街鼓」の神仙についてもいえる。また「官街鼓」と「三月過行宮」の双方から、「浩歌」と同樣、自然物に人間の生を融けあわせる發想を見出すことができた。樣々なレヴェルにおける繰り返しを余儀なくされる人間の生、それを投影するものとして、李賀は循環する自然を新たにとらえ直したのである。前章で提示した二種の「無窮なる時間」は、一見相反するもののように見えるが、実はそうではない。後者は、スケールの大きな変化を世界にもたらしつつも、長大なスパンを経て結局は元の状態に回帰させる時間なのであり、その点では、何の変化ももたらさない前者の時間と、本質的には同じものであったと言えるのである。

 第五章「停止から破壞へ――李賀の詩における太陽の形象――」では、流れる時間の象徴として、李賀の詩にしばしばあらわれる太陽の形象に着目し、その描かれ方を分析することによって、また別の角度から彼の時間意識へのアプローチを試みる。中心的に取り上げたのは、「苦昼短」と「日出行」および「秦王飲酒」の三首である。従来の研究では、これらの詩が、時間停止の願望がうたわれているという共通項で一括りにされていた。ところが詳しく分析してみると、「苦昼短」と「日出行」においては、太陽が時間の象徴としての意味を担いつつも、それに止まらず、詩人の身を燒くものとして物質的なイメージでとらえられており、かつそうした太陽を破壊せんとする衝動をも読みとることができた。この「太陽の破壊」という発想は、「秦王飲酒」にもあらわれる。そこでは太陽がいとも簡単に打ち砕かれるが、それはこの詩の舞台が時間を超越した場として設定されているからである。このことを、「苦晝短」にみえる時間の超越者「任公子」の形象と、「秦王飲酒」における秦王のそれとの類似によって論証した。李賀の詩にあらわれた願望が、太陽の停止ではなく破壊であったのは、変化をもたらさない無窮の時間にとらわれた、不幸な閉塞状態から脱するためには、そうした時間を消滅させるよりほかに方法がなかったからである。また、こうした特異な時間意識を李賀が持ちえた理由は、第一・二章で指摘した「観念の共同体」との関係から考察されなければならない。人々との間で共有された観念に依存することがなく、自らの知覚に直接訴えるものを通して時間を新たに捉え直したからこそ、李賀の詩には本論文で指摘したように特徴的な時間意識があらわれたのである。

 終章「結論」では、全体を振りかえり、それぞれの章で得られた知見が、互いにどのように関連するのかを整理する。それによって、李賀の詩から読みとれる時間意識の新しさは、従来の研究によって言われていたような、無窮の時間と有限の生との対比の構図に求めるべきものではなく、有限の生にもたらされる無限の苦しみを映しだすものとして、無窮の時間をとらえ直した点にこそあったことを明らかにする。