イスラーム共同体におけるイバード派共同体の出現とその展開は,イスラーム史においてユニークかつ極めて興味深い出来事である。この宗教集団は,教義や歴史解釈において,スンナ派やシーア派のそれにも匹敵する,高度に体系化された思想を有する。そしてイバード派が伝える諸作品は,イスラームの思想と社会の実態を,二大宗派であるスンナ派やシーア派とは異なる視座から考察することを可能にする。イスラームの宗教思想に豊かさを与えるイバード派を取り上げることは,イスラーム世界における少数派の実態を解明するための有意義な方法であり,またその研究は,イスラーム思想史研究の蓄積と発展に貢献するものとなる。

 本研究は,前近代イスラーム世界におけるイバード派共同体の特質を,同派の共同体論の考察を通じて究明することを第一の目的とし,その作業においては,主として2/8世紀から6/12世紀の期間にバスラからオマーンにかけて活動したイバード派の学者たちの見解を取り上げた。本研究は10章の本論と2章の補論から構成される。本論第1章では,イバード派の先行研究を概観した。続く第2章では、宗教社会学の分野における研究蓄積を利用して,本研究の課題として(1)共同体論の理論と実践を支えるワラーヤとバラーアおよび関係諸概念の究明,(2)自己理解,他者理解をはじめとするイバード派の世界観の究明,(3)改宗と入信の規定など,メンバーシップに関する問題の究明,(4)共同体へのコミットメントのあり方など,集団内外のつながりに関する問題の究明,(5)集団内で生じる逸脱への対応という問題の究明,そして(6)共同体内で形成されるヒエラルキーの究明という6つを提示した。そして第3章ではイバード派の共同体論における鍵概念であるワラーヤ(関わりを持つこと)とバラーア(関わりを絶つこと)について,その語義,またクルアーンおよびハディースにおける用例を確認した。そして同章では,預言者ムハンマドの存命時代から,イスラーム共同体構成員はワラーヤを保持する者と保持しない者に分類され,またワラーヤを認める,認めないという実践が行われており,後代のイバード派の学者も当時の状況をそのように理解していたことなどを確認した。

 これらを踏まえ、4章から9章では、イバード派の共同体論を具体的に分析した。第4章では、主として2/8世紀から4/10世紀までの期間における(プロト・)イバード派によるワラーヤとバラーア,そして判断停止を意味するウクーフの理論と実践の展開を考察した。そして1-2/8世紀のプロト・イバード派では,人間の状態を定める原理としてこの三原則を採用し,そこから様々な規則を導き出していたこと,それはオマーンのイバード派にも受け継がれたこと,ワラーヤ,バラーアそしてウクーフの実践に関する彼らの態度は,できる限り人間をワラーヤとバラーアの二元論的世界に位置づけようとするものであり,ウクーフはその二元論的世界を支えるものとして利用されたことなどを明らかにした。

 第5章では、イバード派の共同体論を支える同派の世界論に目を向けた。分析を通じて,イバード派は何千年もの後の時代に生きる「ある個人」をもその対象とする,包括的な性格を帯びた救済論を有していること,また人類の宗教的分類に関して,イバード派の学者たちは,一神崇拝と多神崇拝,信仰と不信仰というクルアーンの世界観を支える2つの二元論を,イスラーム中心主義とイバード派中心主義という主観的な優と劣の価値観でとらえ,自派が世界において最優位に位置づけられるような分類方法を利用していること,さらに彼らは,世界の諸宗教集団を,階層構造を利用して分類し,その階層においてイバード派のみを最上位に位置づけ,自派を唯一の「聖なる性質を帯びた特別な共同体」と理解していたことを明らかにした。

 第6章では、第5章で明らかにしたイバード派における人間の宗教的分類を,同派の自己理解および他者理解という観点から分析した。このうち自己理解について,イバード派が理解する神のワラーヤとは,第一に信仰に基づく神と人間との肯定的,個別的な関係であることを確認するとともに,同派は神のワラーヤを維持するための信仰が行為と言葉から構成される理由を,イスラームの契約から説明し,自集団を,神が預言者ムハンマドを通じて全人類と取り交わしたイスラームの契約を正しく履行する集団として理解していたこと,また構成員は「消極的信仰」あるいは中途半端な信仰ではなく,全身全霊をもって神に仕える「積極的信仰」が求められていたことを明らかにした。さらにイバード派では,ナフラワーンやヌハイラという「場所」に自らのアイデンティティを求めつつ,圧政者に対して立ち上がるという先人の一連の「行為」をも,自分たちのアイデンティティを支えるものとして理解され,さらに同じ「自己」であったハワーリジュ派諸派を否定的にひとまとめにし,自己と区別することで,正しい集団が自派のみであることを維持していたことを明らかにした。

 第7章では、イバード派共同体の運営上の特徴を、入信と改宗活動、および共同体へのコミットメントという観点から分析した。そしてイバード派の思想では,イスラームの要約を告白した者にはすべて,理論上はイバード派のワラーヤが与えられると考えられていたこと,3/9世紀には,イバード派共同体への加入の認定についてワラーヤの概念とともに様々な議論がされていたこと,より後代には,非イバード派の圏域でイスラームに入信した者のワラーヤの認定には,イスラームの要約以上の知識や行動が追加の判断材料として定められたこと,それによりイバード派は,現世における各宗派の構成員の「固定化」を理解,説明していたことを明らかにした。また改宗に携わるイバード派の教宣者は,対象者が多神教徒の場合には,教義に関する知識の教授よりも,入信後の正しい行いの習得の教育に重点を置き,一方対象者が他宗派に属する者である場合には,イバード派の教えがどのようなものであるかを説明することに力点を置いていたことを明らかにした。

 そして共同体へのコミットメントについて,イバード派の学者たちは,構成員たちが自集団ヘのコミットメントと他集団へのコミットメントという「二重のコミットメント」を持つことを認めず,また構成員がそれに向かわないように彼らを誘導していたこと,同時に構成員に「組織へのコミットメント」「倫理的コミットメント」とともに,共同体構成員への「愛着のコミットメント」を持たせ,彼らにイバード派としての結びつきを自覚させ,彼らを共同体内での更なる相互扶助へと促していたことなど,同派における構成員のイバード派共同体へのコミットメント増進のしくみを明らかにした。

 続く第8章では、イバード派共同体内で生じる逸脱への対応の問題を取り上げた。そしてイバード派の学者たちは,罪に対して厳しい態度を示し,また無条件で赦される罪はないという原則を定めたこと,時代を下っても有効であるような大罪の定義を提示するとともに,その大罪を具体的に細かく列挙した一方,ハッド刑の執行が付随するもののような,真にそれが必要であるとする大罪以外にはバラーアの宣告を好まず,そしてその場合であっても,相手が悔悟していることが明白である場合にはバラーアの宣告はせず,またそれ以外の場合にも小罪における対応のように,バラーアの宣告の前に悔悟を求めることなどを通じて,バラーアの宣告を慎重に行い,またバラーアの宣告をできるだけ回避しようとしていたことを明らかにした。

 そして第9章では,イバード派における統治体制を,階層の形成そしてイマーム論から読み解いた。同章では,イバード派の学者たちは,信仰者たちの間には,明確な区別や序列があると理解し,一般信徒はこの宗教知において上位の立場にある学者に従うことが求められていたことを明らかにした。そしてイバード派には,一般信徒が学者たちに従う一方,学者たちは一般信徒が信仰者の地位にとどまるように助けるという関係が形成されていることを明らかにした。また学者たちが選ぶ指導者すなわちイマームについて,イバード派ではイマームは神,神の使徒ムハンマドに続く指導者の序列に位置づけられたこと,イマームには,シャリーアに従った共同体の運営,共同体運営のための施政能力が最低条件として求められていることなどを確認した。

 そして第4章から第9章で明らかにしたことをまとめ、第10章では,本研究が対象とした時代のイバード派共同体は,宗教的個別主義に基づいた排他的性格を有する集団であり,自派を「聖なる共同体」とみなす一方,人間は罪を犯す存在であるということを受け入れ,高度に倫理的な「聖者たちの共同体」とは一線を画し,構成員間の緊張関係をより緩めた,より普遍的で現実的な共同体の形成を志向した集団であると結論付けた。また同共同体はカリスマ的指導者によって導かれるという意味での「カリスマ的共同体」ではなく,さらにイバード派共同体構成員には,共同体に属することで神に導かれるという非日常で受動的な態度よりも,信仰の実践を通じて神とその個人との間のワラーヤを維持するという,現実的で能動的な態度が求められていたため,同派において共同体に属する者に救済を授けるというカリスマを伴う,神によって創設された少数の構成員からなる「カリスマ的共同体」という理解は二次的なものであったと結論付けた。

 また補論Aにてイバード派の学統,補論Bにて本研究で用いたイバード派の資料を解説した。