本論は、オーストリアの作曲家、フランツ・シューベルト(1797年ヴィーン~1828年同地)の音楽実践とロマン主義との接点を主題とする。

 序論は、本論の分析の射程について論じる。シューベルト研究においても「ロマン主義」の語は多様な文脈において多様な解釈のもとに用いられてきた。この語によって本論が第一義的に含意するのは、対ナポレオン解放戦争後のヴィーン会議(1814年~1815年)とカールスバート決議(1819年)を経た王政復古期のヨーロッパにおける精神風土によって培われた、現実とは次元を異にする世界への志向である。ヴィーンにおいても流行を見た歴史小説をはじめとする文学上・思想上のロマン主義の動きを受容しつつ、1820年頃からのシューベルトの歌曲には、失われた楽園や自然との合一といった主題を扱い、現実とは別世界への憧憬を特有の音楽語法によって強調する志向が目立つようになる。それらの志向を、音楽と歌詞の分析、およびそれを可能にした文化的・歴史的事情の考察によって具体的に明らかにすることが、本論の目的である。1980年代以降の音楽学研究は、音楽分析に際して領域外の知を積極的に援用すること趨勢にあり、シューベルト研究においてもこの傾向は顕著である。それらの知見をも踏まえ、19世紀前半を生きた一人の音楽家の営為がいかなる意味を持っていたのかという問いに迫る。なお本論は、上述の意味での「ロマン主義」的傾向が顕著な1820年代の、それも主として1825年ころまでの作品に照準する点で、年代上およびパースペクティヴ上の限界をおのずと有する。初期におけるこの傾向の萌芽の精査、作曲家の後期ないし「晩年」におけるその行方をめぐる考察の深化が、本論の続編となるはずである。

 本論が主として注目するのが、フランツ・ショーバー(1796~1882年)の存在である。個人が公的機関や国家ではなく親密圏に活動の基盤を据えた19世紀初頭にあって、1820年代のシューベルトを経済的・精神的に支えたこの無二の親友は、作曲家の生にとって不可欠な素地となった。第1章「共生と孤独」は、ショーバーの詩に基づく歌曲《巡礼の歌Pilgerweise》(1823年)の分析に充てられる。従来の研究史ではほとんど顧みられてこなかったこの歌曲を読み解くことによって、作詞者と作曲者が、間主観的な共生世界と、そこに包摂されえない個人の永遠なる孤独という両極に引き裂かれていたさまが明らかになる。この分裂的な様態は、近代的「さすらい」の概念と重なる部分が多い。《巡礼の歌》の分析に加えて、本章は、シューベルトのいくつかの音楽が、叡知界と現象界の分裂(カント)、超越論的な郷愁と自己の内部への旅(ノヴァーリス)といった、「さすらい」概念の前提をなす同時代の思想と共振していたさまを明らかにする。

 《巡礼の歌》の分析によって明らかになったシューベルトの特異な和声的戦略、すなわち主調から短2度上の調(一般にナポリ調と称されることが多い)への不意の移行という戦略をめぐって、第2章「規範と自由」は展開される。同時代の批評記事をつぶさにひもとくならば、歌曲が出版されはじめた1821年以降、シューベルトの和声は専門的な批評家たちの関心をも強く喚起してきたことがわかる。それは、シューベルトの歌曲創作がベルリン楽派をはじめとする前時代の規範を逸する内容を孕んでいたからであり、前述の和声的戦略は、その最も中心的な要因として指摘されていた。本章では1820年代のドイツ語圏における最初期の受容史を追いながら、ゴットフリート・ヴィルヘルム・フィンク(1783~1846年)が1824年以降に寄稿した批評記事に焦点を当てる。これらの文章を、同時代のさまざまな文化的現象を参照しつつ読み解くことにより、シューベルトの音楽が、規範と自由の相克という両義的な心理状態を聴き手に喚起させうる性質を有することが、歴史的に論じられる。

 第3章「ショーバー、あるいはロマン主義への『誘惑者』」では、楽譜から離れて視野を後景まで引き、シューベルトの友人関係とその思想的背景について論じる。作曲家が1820年代にショーバーのような若者を大切な友人とするようになったことの意義は、それ以前の、すなわちシュパウン兄弟(ヨーゼフ[1788~1865年]およびアントン[1790~1849年])やヨーゼフ・ケナー(1794~1868年)、アントン・オッテンヴァルト(1789~1845年)ら年長の友人を中心とする初期サークルおよびその思想の内実を考察することによって、より明らかになる。具体的には、年長の友人に囲まれて寮学校の庇護のもとに日々を送った作曲家の「初期」と、初期サークルが解体したのちに自ら「自由な」作曲活動へと踏み出し、若い友人サークルに身を置くようになった「後期」の差違が分析される。主要な論点は二つである。第一に、初期サークルのメンバーが刊行していた同人誌『若者のための教化育成論集』(1817~18年)においては、ルートヴィヒ・ティーク(1773~1853年)やシュレーゲル兄弟(アウグスト・ヴィルヘルム[1767~1845年]およびフリードリヒ[1772~1829年])をはじめとする同時代の作家は敬遠され、「憧憬」のような得体のしれない感情への耽溺が周到に排除されている。強調されたのはむしろ、すでに古典となった1770年代の啓蒙主義思想家の文章を読むことで自己の精神を明晰かつ普遍的なものへと鍛えあげることの大切さであった。第二の論点は、オットー・エーリヒ・ドイッチュ(1883~1967年)編の資料集では閑却されてきた一次資料(多くはヴィーン図書館所蔵)の読解によって提起される。この読解によって明らかになるのは、初期サークルのメンバーたちが、有望で魅力的な新人であったショーバーに宛てて多数の手紙を書き送ることで、彼を「教化育成への僕らの道」(オッテンヴァルト)に勧誘していたいっぽう、ショーバーの放埓な性格にいら立ち、両者のあいだにはついに埋めがたい不和が生じていた事実である。この不和は、初期サークルの支柱たる「教化育成」の理念から離反して間主観性の土台を浸食していった瞬間主義者ショーバーと、年長の友人たちのあいだの、世代的な懸隔としてとらえることができる。

 初期サークルの衰退と後期サークルの台頭は歴史的な背景を持つものであり、同時にシューベルトその人の歩みにも深い影響を及ぼした。日記と手紙の読解によってそのことを論証したのが第4章「啓蒙から幻想へ」である。作曲家の残した文章は、むしろ当時としてはよく見られるありきたりな表現に満ちており、その意味で、同時代の思想家や友人の書いたものの影響がみとめられる。この読解から明らかになる主要な点は、1820年代のシューベルトが、後期サークルの友人たちの思想に涵養されつつ、あたかも散文的現実のなかに浮かび上がる詩的世界そのもののように「幻想」という語を書き記すようになったことである。シューベルトのいう「幻想」こそが、本論で言挙げされる〈他なるしらべ〉の相即物にほかならない。文章と音楽との相即関係を論証するため、本章の後半ではふたたびシューベルトの音楽に目を向ける。すでに第1~2章で考察された「ナポリ調」による調的戦略が、幻想世界をきわだたせるための最も重要な手法であったことが、多数の作品分析によって例証される。

 第5章「マイアホーファーの別世界」は、ショーバーと並ぶ親友であったヨハン・マイアホーファー(1787~1836年)の詩と、それに基づく歌曲に焦点を当てる。僧職の経験をもち、検閲局の官吏でありながら詩を書きつづけたマイアホーファーは、身体的にさまざまな病を抱えており、1817年ころからの彼の詩には、病を経て超越へ向かう物語性を有するものが目立つようになる。この志向をシューベルトが共有し、1817~1824年頃に書かれたいくつかのマイアホーファー歌曲においてそれが顕著な表現を得たことを、本章の前半では分析する。後半は、マイアホーファーの詩集『太陽の都』(草稿1821年、市庁舎のヴィーン図書館所蔵)に注目する。ショーバーとは異なって生真面目な性格をもつマイアホーファーは、官僚的な仕事に従事せざるをえない経済的境遇にあったこととも関連して、初期サークルの主要な構成員として教化育成の理念をことほいだ。その志向に大きな影響を与えたのが、フリードリヒ・シラー(1759~1805年)の美学論、なかんづく『美的教育書簡』(1795年)および『崇高について』(1801年)であった。だがいっぽうでマイアホーファーは、現実からの逃避としての芸術という思想にも浴し、その両極を揺れ動いたのである。この微妙な両義性がもっとも克明に反映されたのが『太陽の都』であることが、詩集の読解によって明らかになる。

 マイアホーファーの抱えていた両極性は、『太陽の都』に基づくシューベルト歌曲にも色濃く反映されている。第6章「ロマン主義的衝動、楽園への希求」は、これらの歌曲の分析を端緒として、別世界を志向する〈他なるしらべ〉が1820年代のシューベルト作品を貫いていたことを、総合的に論じる。とりわけ、『太陽の都』歌曲群で楽園への憧憬を表現したホ長調の五音音階は、《未完成交響曲》(1822年)や《美しき水車小屋の娘》(1823年)といった中期作品のほか、最晩年の《冬の旅》(1827/28年)においても作品の要をなすが、この表現は、ほかならぬショーバーの好んだものであった。本章の後半では、ふたたび音楽を離れ、この志向の文学的な背景について考察する。作曲家の遺した寓話的な物語を、ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダー(1773~1798年)の芸術論およびノヴァーリス(1772~1801年)のノヴェッレと比較しつつ読解することで、「楽園‐分裂‐和解」という物語が、同時代の営みを貫く重要な話型でもあったことが論証される。