純粋感情の倫理学 カント道徳哲学における尊敬の感情

山蔦 真之

カント倫理学を「感情」という側面より捉え直すこと、この一点が本論攷全体の目的である。このような目的を立てることは、それだけで本論文を、一方ではこれまでのカント倫理学研究に接続し、他方ではそこから離反させている。まず本研究は、カント倫理学における「尊敬の感情」を主題にしている点で、近年のカント倫理学研究の趨勢に加わろうとしている。カント道徳哲学の中で「道徳的動機」の役割を果たしている「尊敬の感情」は、とりわけこの二十年の研究において大きく取り上げられ、多角的な解釈を受けてきた。本論攷は、至る所でそれら既存の解釈と対峙しながら、時には批判をしつつ論述を組み立てているけれど、「尊敬の感情」や「道徳的動機」という主題を採用していることにおいて、現代のカント研究の一潮流に参与することを表明している。しかしそれにも拘わらず、より大きな文脈からすれば、本研究はやはり、伝統的なカント解釈から逸脱しているといってよい。すなわち、あらゆる感情的要素を排除した理性の倫理学、というカント倫理学への一般的な評価に対して、まさに感情的契機を解釈の中心に据えようというのが、本研究の最大の目論みなのである。たしかに近年のカント倫理学研究において、「尊敬の感情」は比較的多く取り上げられる概念ではある。とはいえ、この感情を中心にカント倫理学の全体像を捉えようとした研究や、カント倫理学のあらゆるテクストの内に「尊敬の感情」の痕跡を辿った作品は未だ存在しない。本研究はまさにそれらを行うことによって、最終的には次のような強い主張をするまでに至っている。――『道徳形而上学の基礎づけ』と『実践理性批判』という、二つの倫理学の主著を編んでいた時、カントにとって最大の課題は、倫理学における感情の問題であった。そして、そこに与えられた回答が「尊敬の感情」であった――。本論攷はその各章において、異なる主題やテクストの分析を課題としているけれど、それらの論述はすべて、上記のテーゼを証明することへと収斂している。以下、各章の内容をそれぞれ要約する。

 第一章「第一章 知性と感情 ――一七七〇、八〇、九〇年代における尊敬の感情 俯瞰――」は、やや大きな視点を取って、論攷全体の枠組みを作るという目的を担っている。ここでは尊敬の感情を、一七七〇、八〇、九〇年代の諸テクストの中に辿ることによって、カントの思考におけるこの概念の、生成と変転を描き出すことが試みられている。とりわけこの章では、尊敬の感情が道徳哲学体系の中で果たしている「道徳的動機」という役割にスポットが当てられている。カントはその主著と取り組む以前、すでに一七七〇年代において、道徳には規範を認識するための知性だけではなく、その規範を実行するための感情が必要であるという洞察を持っていた。この洞察を基にして、カントは八〇年代の主著を書く際には、理性によって産出される尊敬の感情が道徳的動機となるという論理を構築することになる。とはいえ、理性が感情を生み出すという事態はやはり奇妙なものであり、カントはその同時代人からも誤解を受けることとなった。本章では、カントがC・ガルヴェと交わした論争をとりあげて、尊敬の感情という概念が孕む難点を描き出すことが試みられている。

 第二章「幸福主義と尊敬の感情 ――カント倫理学発展史――」は、前章でも扱われた一七七〇年代以降のカントの思考の変転を、より精密に描き出すことを目指している。ここでは、前章の主題であった「道徳的動機」の問題に加えて、カント倫理学と幸福主義との関係が論じられている。厳格主義、というカント倫理学の標語からすれば驚愕すべきことに、七〇年代、あるいは、『純粋理性批判』初版(一七八一)までのカントは、倫理学に関して幸福主義の立場をとっていたという解釈が、近年、少なくない解釈者たちによって提言されている。しかし本研究は、一七七〇、八〇年代にカントが行った道徳哲学への諸講義の分析を通じて、この解釈に反対している。ここでも鍵となるのは尊敬の感情の概念であり、カントがこの感情を発見することで組み替えた概念の配置が、この章では再構成されている。

 第三章「尊敬の感情への道程 ――『道徳形而上学への基礎づけ』第二章 定言命法とその諸方式――」は、表題が示す通り、『基礎づけ』第二章と、カント倫理学を代表するともいえる概念、定言命法の分析に充てられている。今日スタンダードな解釈となっている、英語圏、とりわけ「構成主義」の研究とは異なって、本章は、定言命法そのものの分析にはそれほど力点を置いていない。むしろここでは、『基礎づけ』第二章の議論を再構成することにより、テクストの中で定言命法が果たしている役割をあぶりだすことが目指されている。そこから見えるのは、定言命法もまた、そのさまざまな「方式」を通じて、倫理における感情の問題とかかわっていることにほかならない。定言命法の行きつく先にも尊敬の感情が見えること、それが第三章において語られている。

 第四章「尊敬の感情、その根拠 ――『道徳形而上学の基礎づけ』第三章と『実践理性批判』原理論――」は、やや狭い意味でのカント文献解釈と取り組んでいる。この章の目的は、共に「演繹」が語られている『基礎づけ』第三章と第二批判「原理論」の正確な読解である。というのもこの二つのテクストは、それらがカント倫理学の根拠を語っているはずにも拘わらず、解釈者たちの間にあって、カントがそこで問題としている事柄についてすら、未だ論争がなされているものだからである。本章はその論争をまとめつつ、自身の見解を提示しているけれど、その解釈は同時に、研究全体にかかわるものとなっている。本研究は二つのテクストの焦点を、しばしば誤解されるように純粋理性そのものではなく、純粋理性を備えた人間の有限性に見定めている。肉体と感性を備えた有限な人間に、しかし純粋理性という能力が適用されるということ、そのことの正当性を二つのテクストは語っている。そして、純粋理性が感性へと適用されたときに生成されるものこそ、ほかならぬ、尊敬の感情なのである。

 第五章「幸福と統一 ――尊敬の感情とは何か――」は、『実践理性批判』「分析論」第三章にあたる、「純粋実践理性の動機について」を解釈の対象としている。第二批判におけるこのテクストでカントは、まさに尊敬の感情を主題としている。それゆえ、本研究にとっても当該テクストの分析は、論攷全体の中心とならなければならない。しかしながら、やや意外に見えるかもしれないが、ここでは前章のように、カントの議論をテクストの内部から再構成することはなされていない。その代り、第一には『実践理性批判』という書物の構成という観点から、そして第二には、七〇年代から八〇年代にかけて記されたカントの「覚書(レフレクシオーン)」との連関から、問題となっているテクストが捉え返されている。この二つの作業を通じて、道徳法則への感情的反応だけを叙述しているとも見える「動機論」の議論の背後には、「批判哲学」という思考体系の中で組み上げられた、感性と理性のダイナミズムが控えていることが理解される。

第六章「悪の問題 ――尊敬の感情の動的モデルへ――」は、カント倫理学における「根源悪」の概念をテーマにしている。根源悪は、ちょうど尊敬の感情がそうであるように、比較的近年のカント研究において注目を受けることになった概念である。本研究はそういった近年の議論を扱いつつも、しかし最終的には、悪の問題と尊敬の感情との関わりを模索している。そこで注目されるのは、カントが提示している、道徳悪を克服する仕方である。善を決断する強い意志、というような、カント倫理学のよく知られた理想像とは異なり、カントは悪を克服するために、人間における善への「感受性」を訓育することが不可欠であると考えていた。すなわちそれは、道徳性の感情への影響である尊敬の感情を、人間が受け取る能力を高めていくことにほかならない。この点において第六章は、第五章の応用的な内容を含んでいるといってよい。前章では「感性」と「理性」という、二つの能力の相互作用の中に描き出された尊敬の感情が、ここではそれを「感受」する、人間存在全体の中に置かれている。超時間的な理性ではなく、時間の変転の下にある感情を本論攷が主題にした以上、「道徳的成長」というテーマがここで注目されることは、ことの必然であっただろう。

第七章「道徳的帰責と良心 ――人格の同一性の感情――」は、道徳的帰責という、前章で取り上げられた悪の概念に近い問題を扱っている。カント倫理学解釈の歴史にあっては、カント哲学における自由の概念が、悪の責任を問うことを不可能にしてしまうという批判が常になされてきた。本研究はこの問題を扱う中で、行為が帰責されるために不可欠である人格の同一性、という側面に光を当てている。ある人間に、彼が過去になした行為を帰責するためには、時間を超えて存立する彼の人格性が保証されなければならない。しかし同時に人格性は、たしかに超時間的な根拠を持っているものの、時間の中に存在する具体的な人間の中で実現されなければならない。この実現は、彼の意志の決断だけによってなされるのではなく、彼が常に自己の内なる道徳法則へと「注意」を向けるという、経験的なおこないによってのみ可能となっている。そして「注意」とは、感性的な自己が叡知的自己へと意識を向けることと捉えられており、ここでもまた、二つの自己の相互関係は尊敬の感情によって表現される。その限りにおいて、尊敬の感情はまた、自己、という古典的な問いへとカントが与えた解決としても理解される。

一覧へ戻る