本論文はオーストリア出身の女性作家インゲボルク・バッハマン(Ingeborg Bachmann; 1926-1973)の未完の長編小説『フランツァ書』(Das Buch Franza;以下『フランツァ』)を考察することを通じて、バッハマンの全作品中における同作品の位置を検討しなおすことを試みるものである。

 『フランツァ』は連作『トーデスアルテン』(Todesarten;死に方いろいろ)の端緒としての構想の下1964年から1966年にかけて執筆され、最終的に未完のまま遺された。作家の生前、一部が作家自身によって朗読会の場で披露されることはあったものの、同作が本格的に日の目をみることとなったのは作家の死から五年、1978年に出版された4巻本の作品集の一部としてである。それをうけ、この作品は主に当時の文学研究において台頭してきていたポストコロニアリズム的批評やジェンダー論の枠組みから解釈されることとなった。1995年に連作『トーデスアルテン』の構成テクストの批判版が出版され1978年の版に存在した文献学的問題が解消されるとその研究機運はさらに高まり、これも当時台頭していた記憶研究やメディア論の枠組みにおいて盛んに研究、解釈がなされることとなった。だがこれらの先行研究においては、それぞれの時代の人文学研究において流行していた諸理論が、たとえそれら諸理論によって新たな知見が産み出されることが多々あったことは確かであるとしても、ある意味では安易に当てはめられてきたに過ぎないとも言える。本論文はむしろ、作品に内在する固有の原理をできるだけテクストを忠実に考察してゆくことによって明るみに出すことを第一に志向する。

 本論文ではその序論においてある重要な仮説が立てられており、以降の叙述は専らその仮説の証明に充てられる。その仮説とは『フランツァ』という作品そのものが、ならびに作品のあらゆる部分が、「フラグメント」すなわち損傷によって全体性を失った断片という観念及びイメージを寓意として指し示しており、それゆえにこそ、バッハマンは結果として『フランツァ』を未完すなわちフラグメントのまま遺さざるを得なかったのだということである。そしてこれが論文タイトルにある「フラグメント性」の謂いでもある。このことの一つの証左として、『フランツァ』とバッハマンの他作品との特異な関わりが挙げられる。『フランツァ』においてはバッハマンが1940年代以降のテクストにおいて繰り返し取り組んできたテーマ、モチーフ、イメージが形を変えて執拗に、断片的に、それも非常に渾然としたかたちで反復されており(論文内ではこれを「変奏」と呼んでいる)、この反復こそが物語を駆動させる根本動因となっているのである。これは『フランツァ』がある種の全体性を失った断片であり、それゆえに他の作品に対して無防備なまでに開かれているが故のことである。

 本論文の構成は三章構成を有する『フランツァ』をその章立てに沿ったかたちで順に考察してゆくというものだが、その合間に上記の<変奏>の諸相に関する考察が随所に挟み込まれることになる。主に考察の対象となるのは1946年のM. ハイデッガーについての博士論文、1953年の詩『ディ ゲシュトゥンデテ ツァイト』(Die gestundete Zeit;猶予された時)、同じ年に発表されたL・ヴィトゲンシュタインについてのラジオエッセイ、1959年にフランクフルト大においてバッハマンが行った講演『詩について』、同年にボンで行われた講演『真理は人間にとって要求可能である』、1961年の短編集『三十年目』に収録された『三十年目』及び『ウンディーネ ゲート』(Undine geht;ウンディーネが行く)、短編集と同時期に執筆され、生前は未発表であったエッセイ『誰も犠牲者を名乗ってはならない』、1968年に発表された詩『ベーメン リークト アム メア』(Böhmen liegt am Meer;ボヘミアは海辺にある)及び『エニグマ』(Enigma;謎)、及び死後出版されたインタビュー集に収められたいくつかのインタビューであり、その際に問題となるのは<頭蓋損傷>、<亀裂>、<砂>、<犠牲者>、<変容>、<破滅>と<復活>、<Grenze(限界/境界)>、<近親相姦>、<抹消>、<異邦人>、<想起>、<状態>、<対奏>、<反復>と<循環>等のモチーフ、テーマあるいはイメージである。またハイデッガーについての博士論文ならびに詩『ディ ゲシュトゥンデテ ツァイト』において引用あるいは暗示されるフランシスコ・デ・ゴヤの二つの絵についても、その考察の中で言及している。そして<変容>、<Grenze(限界/境界)>、<抹消>、<対奏>に関しては、特別に補遺を設けて詳述している。

 ここに列挙したものの中で最も重要であり、また実際『フランツァ』においても決定的な役割を担うのがGrenze(限界/境界)、<変容>そして<循環>のモチーフである。バッハマン作品においては生の領域から死の領域への越境をなすフィグアが多く登場するが、短編『ウンディーネ ゲート』でそのコンセプトは進化させられ、越境に際してある種の変容を被り、なおかつその越境と変容のプロセスを無限に繰り返す妖怪的存在としてのウンディーネが描かれる。そしてそのようなウンディーネの有りようはフランツァへと受け継がれ、それが作品全体のライトモチーフとしても機能することになる。

 <フラグメント性>は、『フランツァ』と他テクストとの関わりのみならず『フランツァ』固有の作品原理においても、とはつまり『フランツァ』という物語内における登場人物達の関わりの有りようからも確かめることができ、そのことに関する考察が、上記の他作品との関わりと並び、論述の軸となる。その際に前提となるのは、フランツァという人物は一貫して他の人物、すなわち夫ヨルダンと弟マルティンによって、物語内容上の行動においても暗喩上においても<読まれる>対象すなわち<書物>として、描かれているということである(このことは既に『フランツァ書』というタイトルによっても示唆されている)。例えば医師であるヨルダンは、妻を秘密裏に研究対象(Fall)とする。『フランツァ書』とは別のバリエーションとして『症例フランツァ』(Der Fall Franza)というタイトルが存在していたことはこのことに起因する。ヨルダンはフランツァを分析した上でその所見を紙に記録するわけだが、フランツァはそれを発見して精神に異常をきたし、出奔する。この作品の第一章は行方不明となった姉をマルティンが探索する場面から始まるのだが、彼がその際手がかりにするのはフランツァが彼に助けを求めて宛てた手紙や電報である。マルティンは姉が不在の間はそれらを読み、解読することによって姉を探し出そうとする。これはすなわち寓意的に解釈するならば、フラグメントを解読することによって書物の架空の<全体性>を回復せんと努める<読者>と<書物>の関係そのものである。またマルティンは、姉と再会した後も、長きにわたって疎遠であったためにもはや自身にとってフロイト的な意味での「不気味なもの」でしかない姉の語る言葉を解釈することによって、彼女を理解しようと努める。

 またこの姉弟の関係そのものもまた、ある種の<フラグメント性>を帯びているということもまた、本論の重要なテーゼの一つである。すなわち、作中で繰り返しバッハマンと同郷の作家R・ムージルの詩『イシスとオシリス』(Isis und Osiris)が断片的に引用されることにより、二人の間の近親相姦的関係が示唆されるのだが、物語内現実において二人が実際にそのような関係にあるわけではない。詩の断片的な引用はむしろ、二人がそのような関係でありえたかもしれぬ可能世界、すなわちウトピー(Utopie)を暗示しているのであり、詩の断片が、そのような可能世界へのある種の紐帯として、提示されているのである。そして実際、この作品の初期の草稿ではより直截に姉弟のこの種の関係は描かれていたのだが、稿を改めるごとにそのような要素は徐々に抹消されて行き、このようなムージルの詩を通じての可能世界(それは別稿という他テクストにおいて実現されている)への暗示という形においてのみ、残されることとなった。このことは、草稿が重ねられていく様をテクスト生成論的に分析することを通じて、明らかとなる。

 フランツァは作品終盤において自らの頭をエジプトのピラミッドの角に打ちつけて絶命するのだが、そのことによって、彼女が自らの身体の亀裂の中へと越境してゆくウロボロス的フィグアとなったということが、暗示されている。この強烈なイメージを最後に提示することによって同作品は他ならぬフラグメントとして完結したものとなったということを結論として指摘し、本論文もまた閉じられる。