本稿の表題にある「逆さまの世界」という表現は、難解さをもって知られるヘーゲル哲学の研究論文のメインタイトルには馴染みにくいものかもしれない。しかし、本稿では、あえて日常的、あるいは、そう言ってよければ非哲学的用語にこだわることによって、難解とされるヘーゲル哲学にアプローチすることを試みたものである。

「哲学とは――健全な悟性の観点からすると――ヘーゲルの言葉のように、逆さまの世界(die verkehrte Welt)である。」

ハイデガーによるこの指摘が、本稿の考察の決定的動機付けとなっている。以下、これに基づいた各章の概要を述べておこう。

 

第Ⅰ部1第2章

第Ⅰ部では、主として『精神現象学』における叙述を考察し、そこから「逆さまの世界」としてのヘーゲル哲学を明らかにしようとしたものである。

第1章 「逆さまの世界」としてのヘーゲル哲学では、とりわけ「序論(Einleitug)」で考察される「経験(Erfahrung)」の概念、および、そこに確認される「反復(Wiederholung)」の概念に注目した。「意識の経験」においては、「(悟性的)否定から、(理性的)否定の否定へ」といった運動の反復が見られる。しかも、この運動は、それ自体が反復構造を示している。すなわち、否定の否定という「否定」の反復運動(第一義的反復)がさらに反復される(第二義的反復)という重層構造である。これは『精神現象学』に限定されず、ヘーゲル哲学全般の叙述にあてはまる構造でもあろう。ヘーゲルが通俗的に紹介される際に指摘されるのは、主に第二義的反復であろうが、本稿では、まずは第一義的反復の意味を考えぬくことを目指した。すなわち、この第一義的反復(否定の否定)を、単なる否定の繰り返しではなく、<最初の否定が、その真実態を、第二の否定において取り戻す>という「取り戻し(Wieder‐holung)」としての「反復」運動として解釈する道を提示した。悟性的(常識的)解釈では、「否定」と「否定の否定」は異なる段階の異なる作用であろうが、理性的あるいは現実的には、同時進行的な同一の作用である(この論理構造の具体的検討は、第2章以降において目指される)。

第1章では、こうした「取り戻し(Wieder‐holung)」としての反復に、さらに、ハイデガーの「絶対者の臨在論」を重ね、ヘーゲル哲学全体にも関わるモチーフを「絶対者の取り戻し」として解釈する道を示した。『精神現象学』の意識の経験において、最終的に取り戻されるのは絶対者である。本稿では、ただし、最終的に絶対者が取り戻されるというよりも、その都度その都度の第一義的反復において既に「絶対者が取り戻されている」こと(絶対者の臨在)を明らかにすることを目指している。そして、この「絶対者の臨在」とは、また、論理学的にいえば、取りも直さず〔第3・4章において具体的に考察される〕ヘーゲルにおける「矛盾」の概念である。すなわち、「矛盾」の概念が、意識の弁証法的段階においてその都度明らかになることこそが、その都度の「絶対者の取り戻し」という事態であると考える。

ただし、この「取り戻し」としての「反復」は、いわゆるプラトン的な想起説的取り戻しではなく、また、キルケゴール的にいえば、すでに過去に存在した絶対者をそのまま再現するだけの「後方に向かっての反復」(想起)でもなく、「前方に向かっての想起」(反復)である。意識の経験における反復は、「前方に向かっての想起」という、悟性の理解力を超える世界を切り拓くもの、すなわち「矛盾」の構造において、「発見」されなければならない。

 

第2章 悟性と「逆さまの世界」では、以上のようなその都度の「絶対者の取り戻し」としての経験を、実際に、『精神現象学』悟性章における「逆さまの世界」の経験として検証した。

悟性章における狭義の悟性とは、典型的には、われわれの科学的思考法として捉えることができる。悟性章は、それゆえ「科学的に考える」ことを考える章、それも批判的に考える章であり、現代の哲学でいえば科学哲学の論考に該当しよう。 

ここでは、諸現象の背後に本質(力)を捉えようとする悟性の「説明」の運動が、「すでに述べられたこととは何か違ったことを言うような身構えをしながら、そういうことは何ひとつ言わず、かえって同じことを繰り返すだけ」(3.126)の「同語反復的運動(die tautologische Bewegung)」(3.126)であることが明らかになる。同語反復の分析を受けて登場するのが「逆さまの世界」(第二次の超感覚的世界)である。

第2章では、この「逆さまの世界」における「逆さま」のヘーゲル特有の意味を、「自己自身の逆さま性」として、さらにガダマーの風刺論を手がかりにしながら明らかにすることを目指した。すなわち、「逆さまの世界」とは、健全さを自認する悟性(常識)が捉えた現実世界そのものの風刺画(「魔法の鏡(Zerrspiegel)」)であり、それが、一見どんなに現実からかけ離れているように見えても、まさに現実の世界そのものの姿である。

こうして、悟性章の考察においては、「自己自身の逆さまの世界」(3.131)、あるいは「内的区別」としての「無限性」(3.131)概念において、最終的にこの悟性章の展開で「考えるべきことが、純粋な交替あるいは自分自身における対立であり、矛盾」(3.130)であるということが明らかにされる。

第Ⅱ部 (3第4章第5章) 

第Ⅱ部では、『精神現象学』と並ぶヘーゲルの主著『大論理学』の叙述が考察される。ここでは特に、本質論における「矛盾」の概念(第4章)と「様相」の概念(第5章)が要となり、ここにおける「逆さまの世界」の論理構造が確認される。

『大論理学』においても「逆さまの世界」は、本質論の「第2編 現象」で登場する。「矛盾」の概念は、それに先立ち、また、その基盤となる論理構造を開示するものである(「第1編  それ自身における反省としての本質」)。また、「様相」の概念は、本質論の最終「第3編 現実性」で論究される概念であり、前二者の議論(本質論と現象論)を受けて、論理学における「逆さまの世界」を、「本質と現象の統一」としての「現実性」のレベルで展開したものである。

こうした『大論理学』の具体的考察の準備的考察として、まず、第3章 ヘーゲルの論理学とカントの論理学 では、特にカントの超越論的論理学との対比からヘーゲルの論理学の意味を明らかにすることが目指される。第1節 ヘーゲルの論理学の課題-カントの論理学との対比から では、「思弁」と「本来の形而上学」という概念を軸に、<言葉―論理―存在>という観点から、ヘーゲル独自の言語=概念観における<存在論としての論理学>のあり方が明らかにされる。カントの論理学との対比では、やはりヘーゲルによるアンチノミー論批判が要となる。第4章の考察にむけて、第2節カントのアンチノミー論考察では、カントのアンチノミー論が、内在的-批判的に検討される。

 

第4章 ヘーゲルの矛盾の概念 では、『大論理学』本質論の「矛盾」の概念が、本質の運動としての「反省諸規定」の展開において考察される。「反省諸規定」の諸概念(「同一性」―「区別」(差異性―対立)―「矛盾」)は、『大論理学』本質論の「一部」ではあるが、と同時に、大論理学「全体」の方法論そのもの、すなわち、第3章で考察される、ヘーゲル哲学の弁証法の原理そのものが展開されている箇所とも言える。とりわけ「矛盾」は、本稿で注目する「逆さまの世界」の基盤となる概念である。

ヘーゲルによれば、たしかに「思考の諸規定の本性に属する矛盾の必然性」(5.52)を発見したカントには「無限の功績」(6.559)が認められるが、カントが、矛盾を対立(擬似矛盾)として回避しようとしたのに対し、ヘーゲルは、その「逆さま」で、対立を矛盾として捉えようとした。

ヘーゲルにおける「対立」「矛盾」とは、あくまでも「本質の同一性」をめぐるそれであるということ、すなわち、「純粋同一性」「絶対的否定性」あるいは、<区別なき区別>としての「本質の同一性」における対立および矛盾の概念構造であるということが重要である。本章では、ヘーゲルの叙述にしたがい、単なる存在と非存在とは異なる、あくまでも「対立」という概念の契機としての「肯定的なもの」と「否定的なもの」に注目し、両者の対立、および、それぞれにおける「矛盾」の概念構造を明らかにすることが目指された。そのことを通じ、本章においても、最終的に「矛盾の遍在」として、「絶対者の臨在論」という本稿全体のモチーフが、論理学の次元において明らかになる。

 

第5章 必然性と偶然性の逆さまの世界 では、改めて、2における重要概念、すなわち、本質と現象が登場し、その統一としての「現実性」概念が、可能性、必然性、偶然性という様相の概念とともに考察される。また、本章では、九鬼偶然論の基本的着想、すなわち「如何に驚き〔偶然性〕を除いて行つても、なほ最後に一つ残つて・・・現実の世界そのものが驚きを迫る」という基本的着想を手がかりに、第3・4章における『大論理学』の「矛盾」の概念の抽象的な原型が、様相論の領域で、改めてより内容豊かに具体的に論じられる。

ヘーゲル様相論の最終部「C 絶対的必然性(absolute Notwendigkeit)」では、それまで(A節・B節)において考察されたさまざまなレベルのあらゆる様相概念が統一される。ただし、そこでは、一切の偶然性を排した完全必然性の世界が「現実性」として捉えられているわけではない。「絶対的必然性」における全様相概念の統一の真実態は、「偶然性は、即ち、絶対的必然性である」(6.217)という、「偶然性」との関係に要点がある。悟性的・常識的には区別され対立するかにみえる必然性と偶然性との間には、ヘーゲル独特の統一性、すなわち「逆さまの世界」の論理構造が捉えられなければならない。

本章では、さらにそれが「自由な現実性」(6.216)という概念において、その真実態を取り戻すということ、かつ、それは決していわゆる彼岸的「絶対者」の高みにおける現実性ではなく、むしろ、その都度その都度の、われわれの有限な領域における現実性として捉えられていることを考察する。本章では、この「自由な現実性」の概念が、様相の概念に留まらず、『大論理学』全体にも関わる、「存在と無」の矛盾の概念から、さらに、第4章において考察された「本質における矛盾」の概念から、改めて反復(取り戻)されることが目指された。