中世後期の日中関係史研究―「入明記」からみる遣明使節の外交及び貿易活動―

OLAH CSABA

1.研究背景

本稿は、室町時代に日本から中国(明朝)へ派遣された遣明使節の旅行記録である「入明記」を考証し、遣明使節の中国における外交活動および貿易活動の実態を描き出そうとするものである。

(1)日本対外関係史研究における日明関係研究

日本対外関係史の分野では、一九八〇年代以降、特に日明関係をテーマにした研究が活発化し、「環シナ海域」「環日本海域」という地域設定と、「外交機関としての五山僧」という外交史上のテーマが提示された。五山僧が重要な役割を果たした日明関係に関する研究は、日本の政治史・地方史・禅宗史という視角からのアプローチが主要であり、「日本国内」にフォーカスを当てて日本と明朝との関係を考察してきた。それにより、幕府(将軍)・寺社・大名といった勢力の遣明使節派遣との関わりに対する理解が深まった。しかし一方で、遣明使節の具体的な活動内容を知ることのできる入明記という貴重な史料群の分析に関しては、長い間ほぼ手付かずの状態におかれ、遣明使節の中国における活動に関しては未だ十分な研究が行われてはいない。

(2)入明記

明代における異国と中国との交流は、明朝が定めた外交制度の枠組みに則って、異国の君主が派遣した、正式な朝貢使節の入国しか認められなかった。日本遣明使節は、「日本国王」名義のもとに様々な社会層(武家、僧侶・寺社、商人)の協力によって派遣の準備が行われた。このように準備されてきた遣明使節は、中国に渡り外交と貿易活動を行った。入明記には、その活動内容が使節員自らの手によって記されている。

近年、入明記と遣明使節を対象とする研究は増えつつあり、入明記のテキスト刊行も行われてきている。しかし、入明記に基づいて遣明使節の中国における活動を体系的に考証した研究は十分とは言い難い。また、入明記の日記の部分と書状の部分を歴史史料として活用し、遣明使節の活動を当時の中国の制度に照らしつつ分析する研究も希少である。

そこで本稿では、日本遣明使節の中国における活動の解明を目的として、入明記というコーパスを正面から分析し、研究のフォーカスを「日本国内」から「中国」へ移し、他の朝貢国との比較も視野にいれつつ、遣明使節の活動を中国の外交体制とあわせて考察した。このようにして得られる研究成果は、中世後期の対外関係の全体像を検討するうえで、重要な意義を持つものと考える。

 

2.本論文の研究成果

本稿では、遣明使節派遣の前提となる人選、および遣明使節の外交・貿易活動と明側の対応について、以下のようなことを明らかにした。

(1)役者の人選

正使や副使など遣明使節の中心となる役者には、現地での外交文書の作成や貿易上の折衝、および皇帝との謁見など、様々な場面での対応および解決能力が求められた。だからこそ、遣明使節の派遣に際しては、蔭凉軒主が幕府奉行人や他の五山僧とともに慎重な人選を行った。本稿では、『蔭凉軒日録』の明応二年(一四九三)遣明使節の準備に関する記述を取り上げ、文明十八年(一四八六)から明応二年までの間に蔭凉軒主亀泉集証が中心となって進められた役者人選について考察した。人選過程においては、役者候補者の健康問題や年齢、あるいは大内氏との関係のために辞退した事例が見られた。また、なんとか遣明使節のメンバーになろうと、自薦者や虚言者があらわれるなど、人選が難航した様子も確認された。こうして選ばれた役者たちは、「日本国王」使として外交任務を明の規則通りに順調に遂行し、遣明船経営者や投資した商人・寺社・大名の貿易利潤を確保すると同時に、時には中国側に愁訴し、交渉しなくてはならなかった。その日常的な苦悩は、入明記からにじみ出ている。

(2)外交活動およびそれに伴う日常的職務

中国側の史料と入明記を検討すると、役者の職務を次の三つに分類することができる。第一は、外交・朝貢に関連する職務であり、これには貢物点検の時に証人として参加すること、中国外交儀礼を習得すること、皇帝に謁見すること、貢物と国書を奉じることなどが含まれる。第二は、貿易活動に関連する職務で、これには日本人が困難に遭った時に適切な措置を取り、明側の官僚と折衝して商人との摩擦などの問題を解決すること、回賜の量を増やすよう交渉することなどがある。第三には、滞在中の待遇について交渉する職務があり、滞在中に発生した食糧や宿泊、設備などに関する問題を明官僚に伝えて解決することなどである。

また、こうした職務を遂行するために、役者は文書を作成し、明側とやりとりをしたが、彼らが作成した外交文書の内容と様式について考察した結果、次のような結論に至った。まず、役者が中国の官吏に宛てた外交文書の内容は、①明側の使節に対する待遇の改善を訴えるもの、②貿易と回賜に関するもの、③外交事務に関するものの三つに分類することができる。また、様式を分析した結果、遣明使節と中国の官司・官僚との間には上下関係が見られた。入明記にみえる、中国現地の官司・官僚が役者に出した文書は全て下行文であった。役者は、中国のルールに従って、上行文をもって明の官僚や官司と連絡を取る他なかった。

役者が出した文書は、基本的に中国の書簡様式で作成されたが、呈文という中国の公文書様式の影響も受けている。役者は、明の公文書を執筆する教育は受けていなかったため、禅僧として馴染みのあった中国の書簡様式で書いたが、上行文の呈文で使われる「呈」字を入れたり、文書の最後に「伏乞」「乞」などの上行文の文言を用いたりすることによって、明側が認める呈文を作成することができた。

(3)貿易活動と貨物検査

遣明使節が寧波到着後に上陸すると、遣明船から貨物が陸揚げされた。中国で朝貢品をおさめ、貿易を行う前には、貨物の点検が必要であった。本稿では、寧波における盤験という検査について考察し、これが陸揚げの後に進貢物・附搭貨物を対象に数日間或いは数週間に渡り行われ、日本使節のメンバーと地方の官僚も参加して行われる、明側にとって重要な検査であったことを明らかにした。また比較史的視点から、『福建市舶提挙司志』によって琉球使節の貨物検査について検討した。その結果、琉球使節が福建に到着した際には、市舶司と三司の官吏をはじめ現地の各官吏が集まり、会盤が行われ、専門の職人がすべての貨物を弁験したことが分かった。弁験とは、琉球使節のどの貨物を官買するかを決めるために行われ、商品の品質を判断する作業であった。日本使節と琉球使節の貨物検査を比較すると、盤験は会盤と同様に、貨物を検査してその品質を判断する作業であることがわかる。また盤験は会盤と同様に、官買の支出を抑える一つの手段であった。

遣明使節の貿易活動といえば、私貿易が最も重要な要素であったと考えられている。私貿易は、他の異国使節の場合と同様に、市舶司の行人や現地の牙行(ブローカー)を通じて行われたが、貿易が可能な時間は限られており、中国人に騙される可能性もあった。天文八年(一五三九)の遣明使節が、寧波および寧波―北京間の移動途中で行った交易について検討した結果、当時の遣明使節はしばしば「無藉の牙行」や「奸貪の徒」との取引を一切しないよう、明官人に注意を呼びかけられていた。その背景には、悪徳の牙行や奸人による詐取・詐欺事件が頻発するという、当時の貿易環境があった。

(4)牙行・姦人問題と明側の対策

また本稿では、嘉靖二十七年(一五四八)遣明使節の外交・貿易活動に深く関わった浙江巡撫朱紈の文集『甓余雑集』、および『嘉靖公牘集』『再渡集』を検討し、牙行・姦人らによって遣明使節が被った貿易詐欺被害と、それに対する中国側の対策について明らかにした。異国人が中国の商人や牙行に騙されることが多いことを知った朱紈は、日本使節がそれらによる詐取事件の被害に遭わないように対策を講じ、「信票」による取り締まりを提案した。「信票」とは牙行・商人と日本使節との間の貿易の記録であり、日本使節には「信票」と照合する「号簿」が与えられた。この信票制度によって浙江における対外貿易の現状を改善し、掛け売り・掛け買いによる詐欺をなくそうとしたのである。また『甓余雑集』『再渡集』をみれば、寧波の官僚の公務不履行や奸人との癒着も深刻であった。朱紈が行った一連の対策は、官僚のモラル改善や庶民の官僚に対する信頼回復を意図したものでもあったのである。

 

以上、本稿の狙いは、「遣明使節が貿易・外交・観光を行った」という、中世対外関係史研究におけるこれまでの漠然とした認識を変え、入明記研究の発展に貢献することであった。そのため、入明記に描かれる日本遣明使節の活動を、明史料にみえる他国の遣明使節の事例と照らし合わせ、比較分析を行った。この比較史的アプローチにより、日本遣明使節の活動を、他の外国遣明使節を含めた明の外交および対外貿易体制のなかでより立体的に把握することができた。具体的には、入明記の日記の部分および所収文書の検討結果を、他国の事例と照合し総合的に分析することによって、遣明使節の貨物検査の実態とその検査の公貿易における意義、中国人との貿易における掛け売り・掛け買いの問題点を指摘した。また倭寇との戦いで有名な朱紈の遣明使節に対する保護・統制策、遣明使節の文書によるコミュニケーションについて解明することができた。本稿の成果を土台とし、今後はさらに、これまで注目されてこなかった中国史料(筆記や文集、奏文など)を探索するなど活用史料の範囲を広げて、諸国の遣明使節のあり方と明の外交・貿易体制を追究し、当時の外交・貿易環境の全体像を解明することを課題としたい。

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