本論文は、芭蕉の高弟其角の俳風の特質、連句史における元禄疎句の位置、そして調和・不角の前句付の意義の解明を通して、元禄期の江戸俳壇の具体相を提示するものである。

第一章「蕉風における其角の俳風とその変遷」は、蕉門における其角の俳風の特殊性に焦点を当てることによって、蕉風の本質を逆照射したものである。

第一節では、「情」のねばりを嫌う蕉門において、やや特殊な姿勢ともいえる其角の「情」の重視について考察した。其角の「情先」は、主観を能動的に働かせることによって、そこに積極的に新しい「情」を見出していくもので、「姿」を整えることで「情」は自ずから備わるという、支考の「姿先情後」の理念とは対極に位置付けられるものであった。しかしその一方で、其角の「情」の凝らし方は、主観的な実感を普遍的な情感へと彫琢する方向へと向けられており、物我一如の境地から対象の本質をとらえることを目指す蕉風のあり方と、根本的には矛盾しないものであることが確認された。

第二節では、蕉風の中でともすれば異端視されてきた其角晩年の俳風について、その不易流行観の特殊性という観点から論じた。其角の不易流行観は「不易」に重点が置かれ、変風としての「流行」の意識が薄い点に特徴がある。そしてそのことは、其角が詠み手の境涯や実感と深く関わる「作者の誠」を重視し、「作者の誠」に支えられた句に時の変化に堪えうる「不易」の価値を認めたことと密接に関係している。個々の句の上に作意を凝らし、常に作者ならではの句を生み出し続けることが、其角にとっての新しみの追求であった。また其角の不易流行観は、同時期に江戸で活躍した俳諧師沾徳のそれと通じており、それが宗匠として江戸の大衆作者と向き合っていた、彼らならではの実際的な理念であったことを指摘した。

第三節では、従来取り上げられてこなかった発句の「ぬけ」に注目し、その手法としての意義を明らかにした。発句の「ぬけ」は、ぬかれた語を推測して補うことによって、一句が解釈可能となる点に面白みを追求した手法であり、その謎解きの面白さとそれに付随する表現の斬新さが、談林俳人の心をとらえたのであった。そして、談林の時代が終焉を迎えた元禄期以降も、たとえば其角の「饅頭で人をたづねよ山桜」のような、解釈にあたって想像力を働かせて文脈を補うことを迫る謎の句が好んで詠まれている通り、「ぬけ」の謎的な興味は俳諧の本質に根ざすものであった。

第四節では、後世俳諧史観を述べる文章のうちに定着した「洒落風」と其角の「しゃれ」の風とが、必ずしも一致するものではないことを立証した。俳諧用語としての「洒落風」は江戸座の点取的な俳風を批判する立場から、しばしば否定的なニュアンスをともなって用いられた用語で、其角の作風を具体的に問題にした語ではなかった。一方、其角の「しゃれ」は、それ自体蕉風の行き方と矛盾するものではなかったが、作意を凝らした難解な句風として表れたとき、聞こえぬ「しゃれ風」との批判を受けたのであった。また、其角没後に「しゃれ風」を推進した沾徳の「しゃれ」は、ある面において芭蕉と同じ方向性をもっていたが、敢えて一句の解釈を困難にするような方向に活かされたため、その作は芭蕉のそれとは全く趣の異なるものとなったことを新たに提示した。

第二章「初期俳諧から元禄俳諧への展開」は、元禄疎句の実態について、それ以前の詞付との関係や、大衆作者層の動向に留意しつつ論じたものである。

第一節では、詞付から元禄疎句への展開の中で「ぬけ」の手法が果たした役割を詳述した。「ぬけ」は、想像力を駆使して一句の文脈を構築し、付筋を読み解くことに興じる談林俳諧ならではの自由な態度を前提とする手法であったが、奇抜で非論理的な表現を面白がるものであったばかりでなく、前句を離れて付句を大きく転じることを可能にする手法としても非常に重要な意味をもっていた。しかし、元禄の心付によって詞付の制約が完全に超克されると、詞付の範囲内で前句からの飛躍を目指した「ぬけ」は存在意義を失った。「ぬけ」は、非貞門的な自由な付けを模索しつつ、詞付を根底からは否定しなかった談林俳諧のありようを如実に反映した、極めて談林的な手法として位置付けられる。

第二節では、元禄期に活躍した当流俳諧師松春の俳諧活動に注目し、いわゆる元禄風について検討を加えた。元禄風の俳諧においては、穏やかな景気の句が好まれる一方、思い切った発想の転換によって前句から大きく付け離れ、時に異様な非日常の世界へと飛躍していく心付の句が一巻の随所に織り交ぜられ、景気付と心付、両者の織りなす緩急の模様が楽しまれた。また元禄期は、俳諧作者層が庶民にまで大幅に拡大した時代でもあり、松春の『祇園拾遺物語』や『俳諧小傘』の読者にも、そのような人々が多く含まれていた。彼ら初心の作者たちにおいては、景気の句は平凡になりやすく、かえって当世風で卑俗な、そして時に奇抜な趣向を構えて前句から飛躍した句が高い評価を受けたが、そうした風潮が元禄風にも反映していることが確かめられた。

第三節では、「うつり」を切り口に元禄期の連句作品について考察を行った。「うつり」は、元禄俳壇全般において一種の合い言葉のように唱えられていたが、その位置付けにはかなりの違いが見られる。蕉風において「うつり」はそれ自体に心を砕き、味わうものとして存在したのに対し、元禄当流における「うつり」は、疎句的な付合に最低限の連続性を確保する上で意識されるものであった。また、貞門的な俳風を保持する前句付派において、「うつり」が疎句とは別の文脈で説かれていたように、「うつり」に対する意識の違いは、俳風の違いとも密接に関係していることを具体的に明らかにした。

第三章「元禄期江戸の前句付」は、元禄期の江戸俳壇をより立体的にとらえるために、前句付点者として活躍した調和と不角の俳諧活動について述べたものである。

第一節では、調和の前句付高点句集と、その前句付興行における一次資料である高点勝句巻・秀逸小冊・取次所別清書帖とを比較し分析することによって、調和前句付の具体的な興行形式について明らかにした。特に、回木家所蔵の調和前句付資料からは、前句付の批点を通じて俳諧指導を行う等の門人に対する配慮がうかがわれ、調和が前句付を自らの俳諧活動の一環としてとらえていたことが確認された。晩年には前句付からは退き、再び本格的な俳壇復帰を図ったとされる調和であるが、調和の中に前句付を俳諧とは別のものとして卑陋視する意識は認められない。

第二節では、元禄期の不角の前句付活動を、当時の前句付界の動向の中に位置付け、その性格について論じた。不角の前句付興行は、調和からの影響を受けつつ元禄後半から次第に雑俳化の傾向を強め、前句題の出題形式を五句付から、三句付、二句付、一句付へと簡略化し、前句題に同語反復の句を用いてその内容を単純化した。しかし宝永半ば、冠付を行う新点者の台頭と、雑俳に興じる大衆作者層の増大という江戸前句付界の本格的な雑俳化を前に、不角は前句付から手を引く。元禄後期には既に多くの常連作者を抱え、確固たる地盤を築いていた不角にとって、従来の前句付俳諧が時流に合わずに低迷したとき、もはや前句付という形式にこだわる必要はなかったのであった。

第三節では、晩年に至るまで不角の俳諧活動の柱となっていた、月次興行について取り上げた。元禄期における競技性の強い月次発句興行を打ち切り、前句付興行からも手を引いた不角は、享保期には富裕な地方作者たちを主たる相手として小規模な月次興行を行い、歳旦帖や俳諧撰集の板行に力を注いだ。しかし、元禄期と享保期の月次興行の作風はいずれも通俗的かつ平明なもので、少なくとも作風という観点からは、この間の不角の俳諧活動に質的な断絶を認めることはできない。元禄期から享保期にかけての不角の俳諧活動における方針転換は、既に不角が安定した地盤を築いていたことを意味するが、享保期の不角の俳諧活動の基礎は、元禄期の前句付興行や月次発句興行を通じて築かれたものであったことがうかがえる。

第四節では、不角が前句付興行や月次発句興行によって自らの勢力圏を拡大していくさまを、信州野沢と丹後宮津を例に考察し、元禄期の興行を通じて不角門下となった人々が、宝永以後も引き続きその俳諧活動を支えたことを明らかにした。世間の風潮と歩調を合わせるように雑俳化した不角の前句付であるが、その敷居の低さは初心の作者たちに俳諧を浸透させる際の武器となったのである。しかし一方で、元禄期を通じて開拓された前句付作者層は非常に浮動的でもあった。後に不角が小規模な月次興行や歳旦帖・付合高点句集等の板行に力を入れたことには、より個別的な方法で個々の作者と結びつくことによって、彼らを自らの門下につなぎとめようとする戦略が見て取れる。

以上、本論文では、其角を視座として蕉風の本質を再検討し、当時の俳壇の趨勢の中に位置付け、その新たな一面を探った。また、これまで研究が尽くされてこなかった江戸前句付派の動向を具体的に論じることで、元禄期の江戸俳壇の重層性を示した。