17世紀フランスにおける篤信家とパリ外国宣教会の成立

坂野 正則

本論文は、17世紀におけるパリ外国宣教会( La Société des Missions Étrangères de Paris )の形成過程を、篤信家( Dévots )による宗教運動の文脈の中で論じ、彼らがこの団体の成立に果たした社会的・経済的・精神的役割を解明するものである。

パリ外国宣教会は、1658年にローマ教皇よりカナダとアジアの宣教地への派遣が決定された四名のフランス人使徒座代理区長(vicarius apostolicus: 以後代理区長と略述)、彼らと養成経験を共有する同輩聖職者、ならびに代理区長に随行した宣教師を中心に1660年代初頭に組織された宣教団体である。ところで、この団体の形成には、篤信家と呼ばれる社会集団が深く関わる。彼らは、自分自身の完徳を目指し、祈祷・信心業・宣教・愛徳活動を含む善行を実践する宗教集団であると同時に、社会階層としては枢機卿・大司教・司教を含む高位聖職者、宮廷貴族、高等法院評定官、財務取扱人、カトリック信仰を持つ貿易商人から構成される。彼らはフランス諸都市で複数の類型に属する宗教結社を結成して活動していたが、とりわけ1630年代から50年代には、聖体会と呼ばれる秘密宗教結社が、国内のみならず海外にも影響力を及ぼす。特に聖体会は、パリ外国宣教会創立の主要な支持母体であったとみられてきた。しかし、パリ外国宣教会が活動を本格化する時期は、聖体会の活動が王国政府により禁止された後にあたる。この一見矛盾する情勢の中での篤信家による宣教支援については未解明な部分が多い。そこでパリ外国宣教会の設立過程を篤信家の人物誌を再構成する作業を通じて、聖体会を含む篤信家運動の文脈の中に位置づけることを目標とする。これにより、宣教の「後方支援」を含む宣教組織体制がいかにして可能になったか、という問いに答えるのが本論文の課題である。

本論文は二部構成を取る。第I部「宣教会成立の前史」は、第1章から第3章までの3章構成を取り、ここでは、代理区長が任命され、パリ外国宣教会が成立する以前の17世紀前半を中心に近世フランス海外宣教の起源と篤信家の宣教支援を論じる。つづく第2部「宣教会の成立と実践」は、第4章から第6章までの3章構成で、パリ外国宣教会の成立以降にあたる17世紀後半を論じる。特にこの宣教団体の国際環境・組織形態・篤信家からの支援体制について検討する。

第1章「17世紀前半におけるフランス海外宣教とヌヴェル・フランスの植民地戦略」では、17世紀前半のフランス王権による宣教戦略の一般的特徴と、王国政府の植民地政策と結びつき本国の篤信家に活動空間を提供するカナダ植民地での特異な宣教戦略を検討する。

当時の王国政府は一貫して宣教活動を保護するが、それは外交交渉や植民地政策を含む広義の海外進出と、国王自身の信仰生活や彼を支える篤信家の宗教活動がヨーロッパ内部のカトリック(対抗)宗教改革に触発された結果生まれた精神的動機との二つから説明できる。特にカナダ植民地の宣教活動は、政府の政策的援助、宣教師の派遣数、篤信信徒による社会的・経済的支援の面で他の宣教地を凌駕する。この性格は、植民会社である百人会社の基本戦略と出資者の人物誌の中に現れ、本章での考察からリシュリュと海事評議会が、百人会社に特異に宗教的な性格を与えたことが分かる。

第2章「篤信家の支援とカナダ植民地の宣教活動」では、カナダ植民地における民間事業とカトリック刷新運動との協働の実態を検討し、海外宣教活動を推進する基盤形成を論じる。

フランス王権によるカナダ植民地の宗教植民地化戦略は、プロテスタントの拠点として陥落し、カトリック都市として再建中のラ・ロシェルを前線拠点とする。そして、この戦略は、民間事業の形成する本国・植民地間の恒常的ネットワークによって支えられた。この事業を進めた篤信家は、プロテスタントとの暴力を含む異端撲滅闘争やスペインとの対抗関係の中で弱体化してきたと考えるカトリック信仰を北米大陸へもたらし、そこで初期キリスト教の理念に回帰する信徒共同体を創設しようと考えた。しかし同時に、本国におけるカトリシスム内部の構造的軋轢を遠因とする利害対立も植民地へもたらされる結果となり、宗教植民地が単線的に発達することの困難さを確認できる。

第3章「篤信家の宗教生活と結社の編成」では、パリ外国宣教会成立を準備する本国における篤信家の精神的団結を論じる。

彼らの多くはパリの聖体会・貴顕信心会・良友会を活動拠点としており、これらの中で複数の結社に入会する者も少なくない。彼らは、組織原理の次元では、秘密主義と会員内部の団結精神を団体の凝集力の源泉とし、信仰実践の次元では、各結社で矛盾なく聖母崇敬と聖体崇敬を両立させ、活動の次元では、社会事業・宗教実践・聖職者養成を各団体として独立を保ちながら調和させる。他方、1660年代初頭に、国王ルイ14世は聖体会の秘密主義とそれに基づく組織構成を弾圧したため、秘密主義を保持する一方、イエズス会結社として公認団体の一部を構成できる特殊な組織原理をもつ友人会が、聖体会の理念を継承し、この養成団体がパリ外国宣教会の成立当初に聖職者の供給に貢献する。

第4章「布教聖省によるカトリック宣教戦略の再編とパリ外国宣教会」では、4名のフランス人代理区長任命からパリ外国宣教会成立の時期を中心に、この宣教団体がいかにして布教聖省の新たな宣教戦略の担い手となったかを国際的次元での交際から論じる。特に、ローマ在住の亡命スコットランド人聖職者ウィリアム・レズリWilliam Lesleyとパリ外国宣教会との協力関係が議論の中核をなす。

レズリは布教聖省とパリ外国宣教会を仲介し、ローマにおいて代理区長職にパリ外国宣教会の聖職者を任命させ、ローマ教皇庁とルイ14世のフランス王権との調整に尽力する。それは、スペイン・ポルトガルの布教保護権とそれに付随した修道会勢力の影響力を削減するよう努めるためである。他方、彼は亡命スコットランド人聖職者であったため、彼の宣教構想は特定の国家や宗教組織に帰属しない汎ヨーロッパ的性格を帯びる。それゆえ、レズレが組織外部からパリ外国宣教会における枢要な役割を占めることにより、フランス篤信家運動、ローマ布教聖省、スコッツ・ディアスポラの三者は相互に関連付けられる。その結果、パリ外国宣教会は、フランスに拠点を置くと同時に、国家や宗教組織の特定の利害を超えた宗派人脈を動員しながら、独自の宣教活動を進めることができた。

第5章「パリ外国宣教会の成立と組織の整備」では、宣教会内部で団体構成の維持に貢献する宣教理念・全体の組織構造・宣教師の派遣とパリ本部神学校における聖職者の役割を論じる。

パリ外国宣教会の宣教理念は、アジアにおけるイエズス会の宣教経験とフランス国内で発展した霊性運動に基づくキリスト中心主義神学や位階制尊重の教会論とが組み合わせたものであった。したがって、この宣教団体は一つの団体の理念や主張を越えた運動思想を組織内部に取り入れる一方、特に教会組織内部の司祭の役割については布教保護権とは明確に異なる方向性を示す。また組織構成の次元でも、この団体は、海外での宣教活動を実践していたため、その内部に代理区長の裁治権に従う宣教師とフランス・カトリック教会内部の裁治権に従う聖職者を含む。したがって、フランス国内の修道会組織や教区組織とは異なる特異な性格をもつ。さらに、パリ本部神学校は海外に派遣する宣教師の養成に留まらず、聖体会解散後の篤信家による新たな人脈形成の場として機能した。

第6章「宣教会の存続と篤信家人脈の活用(1660-90年代)」では、聖体会解散後にパリ外国宣教会がいかにして篤信家の支援を得ることができたかを検討する。

まずパリ外国宣教会とフランス東インド会社との協力関係に言及する。「中国会社」計

画を嚆矢とする支援策により、パリ外国宣教会の宣教師は無償でアジア地域の宣教地へ渡航できることとなった。他方、商業や海外進出を含む実業そのものが愛徳活動であるとする聖体会独自の理念の中で、篤信家の貿易商人や外交官は聖体会解散後も世俗活動と宗教活動を調和させる。その結果、彼らはパリ外国宣教会の拠点形成や活動地域における現地住民との友好的接触を実現する。つぎに代理区長フランソワ・パリュの人的紐帯の果たした役割を論じる。すなわち、1660年代から70年代にかけて、「クレメンスの平和」と呼ばれる宗教的・政治的融和の時期に、彼は特定の宗派や団体を越えて人材を動員し、情報を収集することに成功する。しかし、パリュの活動する時期に典型的に見られた篤信家人材の動員方法は、1680年代から90年代にかけて変容し、その後はフランス・イエズス会との協調と宣教地現地でのイエズス会との軋轢の先鋭化、団体内部の世代交代、「静寂主義」運動の時代における人脈の再編成の時代を迎える。その時期にも、この宣教団体は、ローマ教皇庁とフランス王権との緊張・宣教地での他の団体との軋轢・フランス国内の思想対立を含む複雑な宗教環境の中で均衡を保ちながら、組織の存続を図る。

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