カッシーラー『象徴形式の哲学』の形成と展開

喜屋武 盛也

本研究は、哲学者エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874-1945)の主著と目される『象徴形式の哲学』(第一巻「言語」1923、第二巻「神話的思考」1925、第三巻「認識の現象学」1929)を研究対象とし、その体系的思考の動態を解明しようと試みるものである。

第一部においては、カッシーラー独自の哲学構想が『象徴形式の哲学』という具体的な形をとって現れるまでをその発端となった『実体概念と関数概念』(1910)からたどり、その経過の中に現れる構想の変化とその意味について考察を加えた。第一章では『象徴形式の哲学』の当初の問題設定とその基本特徴を確認した。『実体概念と関数概念』で行った科学的認識の批判を精神科学の領域にまで拡張するという課題から出発した『象徴形式の哲学』の構想は、それまでの理論家たちのように歴史科学や人文科学を高度な認識原理として自然科学に対峙させる方途は採らず、言語、神話、芸術、認識をそれぞれ具体的で特徴のある〈象徴形式〉と規定し、空間、時間、数などの基本カテゴリーを通覧するなかでそれら全体の統一性を見いだそうとした。象徴形式を「様相」と見なすならば、基本カテゴリーは各象徴形式の異なる様相に置かれることによってそれぞれ異なる相貌を示すことになる。象徴形式の根本にある精神的機能は、〈再現〉(Repräsentation)であるとされた。これは、個別要素が単なる個別要素であることを超えて全体を、あるいは不在の諸関係を映し出す働きであり、人間文化の諸相を可能にしかつ規定していることが指摘される。第二章では、第一巻刊行時のタイトルページの指示を手掛かりに、「象徴形式の哲学」と「認識の現象学」の関係を検討した。遺稿集の編纂作業による知見として、刊行間近の時点でカッシーラーが出版社に書き送ったタイトルが「認識の現象学」であったことが報告されたが、先行する著作ですでに自著を「象徴形式の哲学」と予告していたことなどから判断すると、「認識の現象学」というタイトルは一時的な考えに過ぎないであろう。しかしこのことは、広義の認識の展開のなかで各象徴形式を位置づけてゆく、ヘーゲル的な意味での現象学的な発想を当初から持っていたことを推測させる。この現象学的な企図は、第二巻「神話的思考」の末尾におかれた「神話的意識の弁証法」において部分的には実現することとなる。第三章では、第一巻において示された体系的見地について検討した。〈再現〉という精神機能に基づきながらも各象徴形式が完全には構造化されずに並立的に配される構成は、多元主義を志向している。この多元的な世界にまとまりを見いだすための象徴形式相互の比較論という課題は、〈身振り的表現〉、〈類比的表現〉、〈象徴的表現〉という三段階の進行を用いて象徴形式それぞれの内部で記号関係が深まる過程を論じるなかで果たされるが、カッシーラーの探究は象徴形式の世界全体をより包括的に把握するための新たな基盤を要請する方向へ進む。第四章では、第三巻において象徴機能というあらたな構想が導入されたことの体系的意義を確認した。先行する二つの巻と比べるならば、第三巻「認識の現象学」は新たな体系的基盤のうえに立つものである。というのも、これまでは象徴形式の基礎におかれた精神的機能が〈再現〉という単一の機能によって支えられていたのに対して、第三巻では、表情機能、表示機能、(純粋な)意味機能という三つ組の機能が導入され、これら機能の分析によってあらゆる象徴形式の特質や相互関係が規定されることになったからである。表情の世界から直観化され得ない高度な抽象概念に至るまで、〈再現〉という機能のみでは説明することの困難であった幅広い対象がこうした体系的枠組みの中で規定されることになる。

第五章では、第三巻「認識の現象学」でカッシーラーが提起した〈象徴の懐胎〉(symbolische Prägnanz)という概念について考察した。カッシーラーはゲシュタルト心理学に代表される同時代の色彩研究や知覚論に基づいてこの〈象徴の懐胎〉という概念を提出し、個別的具体的研究の成果をもとに、感性的体験が必然的に意味の体験でもあり、意味の付与を免れた純粋な知覚というもの(と、さらにはそうした知覚に対してどのようにして事後的に意味を付与することができるのかという問題設定)が単なる抽象の産物に過ぎないことを主張した。他方、カッシーラーは「象徴意識の病理学」と題された章において知覚・認識の病理学的研究を詳細に紹介しているが、そうした記述の意図は、意味と感性的体験との本来的な結びつきが何らかの形で損なわれてしまった症例を扱うことで、〈象徴の懐胎〉という事態を陰画的に説明することにあると言えよう。〈象徴の懐胎〉という概念は、感性的なものと意味との根源的な紐帯を示すことにより、人間の認識の基層ともいうべきものを示していると言えよう。

第二部においては、当初から〈象徴形式〉の一つとして言及されながらも『象徴形式の哲学』で詳しく論究されることのなかった「芸術」について、第一部における考察を手掛かりとしつつ検討した。第六章では、『象徴形式の哲学』における神話のもつ体系的意義を論じた。カッシーラーはシェリングの神話論が提案するタウテゴリーの概念を導きに、神話を何か他のものの寓意として説明したり合理化したりする傾向に強く反対した。神話は神話そのものとして理解されるべきであり、神話に特徴的な思考形式もまた、一つの象徴形式として正当に認められるべきであるという立場に立った。また、神話はもろもろの象徴形式のなかでも特別重要な位置を占めている。というのも、神話は人間文化の展開において初発的・基礎的な形式とされ、他の象徴形式は神話を母胎とし、神話から次第に独立していくものとされるからである。カッシーラーの哲学にとって神話は、科学的合理性の領域のみによって基礎づけられた認識を相対化するという、認識批判の拡張を行ううえで重要な役割を担うのと同時に、そうした合理的思考の存在基盤を脅かす恐れを潜在的に内包した存在であり、成熟した文化全体においては相対的にみて限定を被るべき存在でもあった。第七章では、象徴形式としての芸術に対してカッシーラーが加えた特徴について論じた。芸術もまた、神話的世界のうちにその起源をもち、そこから次第に独立していったものと見なされる。宗教的意識や言語が神話的母胎から離れる際には、像と意味内容とのあいだにある種の緊張状態を持ち込むことになるのに対して、芸術は像と意味内容とのあいだに均衡状態を作り上げる。この、〈均衡〉の形式としての芸術は、言語、認識、技術が向かうところとは異なり、感性的なものの具体的経験的な質から離脱しようとはせず、むしろ親密な関係を保持しようとする。当初は神話的宗教的なものとの比較から示された〈均衡〉という芸術の特徴は、カッシーラーが体系的な観点から象徴機能についての考察を深めるとともに、表情的なものと表示的なもののあいだの均衡として捉えなおされ、さらに、内面的情緒的な感情表現と外部にある対象の描写とのあいだの均衡、主観的なものと客観的なものとのあいだの均衡へと展開することとなる。第八章では、象徴形式としての遠近法について考察した。カッシーラーは、『個と宇宙』(1927)において、遠近法を象徴形式と規定する美術史家パノフスキーの提案に賛同する形で、ルネサンス期の等質で無限な絵画空間の創出を評価している。遠近法は幾何学上の問題であるとともに、芸術上の様式的契機として、造形芸術における空間生成の一端を示していると言えよう。第九章では、カッシーラー哲学の多元主義的特徴について考察した。カッシーラーの多元主義は言語、神話、芸術、認識など、複数の象徴形式を設定したことによって示されるのみならず、象徴形式内部に複数の記号体系が並立することで強められている。世界にはさまざまな言語があり、神話があり、芸術があるが、それらの中のどれか一つだけが普遍妥当的であるわけではない。カッシーラーは個別の項から普遍的なものを性急に取り出そうとすることを戒め、多くの個別を相互に比較するなかで、その全体像を構造的に認識しようとする努力を要請した。こうした多元論を展開するうえで、カッシーラーは後年ふたたび芸術に注目している。ヴェルフリンの様式概念への注目やジャンルの意義をめぐるクローチェへの批判は、このような見解に基づいてなされている。

以上の一連の考察から、〈象徴形式の哲学〉は認識批判に端を発する多元主義的な構成を保持しながらも、その多様のうちに一定の展開秩序を打ち立てるための現象学的な構造への探究へと傾斜していったことが窺われる。とりわけ1925年から1927年のあいだに、カッシーラーの思考には大きな展開があったと考えられる。カッシーラーの試みは、さまざまな象徴形式を繰り広げてみせることによって科学的認識と理論理性を相対化してゆく作業から、そうした多元的な構造を支えている機能のあり方へと重心を大きく移してゆくことになった。第三巻「認識の現象学」にはそうした展開の試みが色濃く反映されており、それに続いて執筆された「象徴形式の形而上学」、「基本現象について」などの未公刊原稿も、第三巻執筆の段階で着手したこうした展開の延長線上に位置づけられるべきものであると言えよう。そして、当初は神話との関係・対比から構築された象徴形式としての芸術に対するカッシーラーの基本的な見方もまた、芸術を表情機能と表示機能のあいだに位置づけたことにより、『象徴形式の哲学』の体系上の展開と密接な関係をもちながら展開していると考えらえる。

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