近世の朝廷財政と江戸幕府

佐藤 雄介

 本論文は、江戸幕府から朝廷に対して行われた財政的基盤の保障や支援のあり様(方式や額など)を具体的に明らかにし、そこから朝幕関係を捉え直そうとしたものである。

近世の天皇・朝廷は、禁裏料など幕府からの財政的基盤の保障や支援を受けてはじめて、存続・機能することができた。保障や支援は、朝幕関係を根底のところで支えていた要素のひとつといえる。したがって、そのあり様(方式や額など)と変化の過程を、そのような変化を生じさせた幕府の意図とともに解明することは、朝幕関係を考えるうえで、もっとも重要な課題のひとつである。

しかし、これに関する先行研究は非常に少ない。そのため、大まかなあり様など研究の土台となる事実のいくつかは明らかになっているものの、なお基礎的な部分にさえ未詳の点が多く残る。

また、先行研究においては、幕政への関心がまったくといってよいほど欠如している。保障や支援は幕政、とりわけ財政政策や遠国支配政策につよく規定されていたと思われるが、これまでは、この点にほとんど注意が払われてこなかった。そのため、保障や支援のあり様に関するさまざまな大きな変化を、なぜ幕府が起こしたのか、その意図が明確には見えてこない。

以上のような問題意識により、本論文では、幕政との関係に充分に留意しながら、幕府から朝廷に対して行われた財政的基盤の保障や支援のあり様とその変化の過程、およびそのような変化を生じさせた幕府の意図を、より具体的に明らかにすることを課題とした。そのうえで、そこから朝幕関係の実態とその変遷を捉え直そうと志した。なお、禁裏や仙洞など各御所の運営は別個に行われていたため、本来はすべての御所について考えていく必要があるが、本論文では、御所の代表格である禁裏を中心に検討した。また、おもに史料的な問題から、対象時期は18~19世紀前半と限定した。

第Ⅰ部では、18世紀における保障や支援のあり様とその変遷を、背景にある幕府の意図とともに究明した。

 おそらくは、享保の改革による幕府財政の再建にともない、享保(1716~36)年間後半に、保障や支援の枠組みの見直しがなされ、無利子の貸付金である取替金の貸与が恒常化するようになった。

この取替金を中心とした明和8(1771)年までの保障や支援は、後の時期から見れば手厚いものであり、その管理・運用も同年までは、所司代ら在京幕府役人や禁裏に大部分が任されるなど、比較的、緩やかなものであった。とくに、宝暦(1751~64)年間後半から明和8年までは、取替金の貸付けが目立っており、享保年間に整備された枠組みが機能し、一定の成熟をみせたのが、この時期であった。

しかし、幕府財政の深刻な悪化を背景にした緊縮財政政策などの一環として、この年以降は、勘定所の強い監督が加えられるようになった。享保(1716~36)年間以来の枠組みの再整備が始まったといえるが、それがいちじるしく加速したのが、安永2・3(1773・74)年の口向役人不正事件であった。この事件は、御所の勘定方ともいうべき部署である口向に勤仕する口向諸役人の不正を幕府が摘発したものであったが、これをきっかけとして、口向役人の実務上級職(賄頭や勘使)に勘定所系列の幕臣が送り込まれるようになるなど、保障や支援に対する勘定所の監督がよりいっそう強まるようになった。また、幕府財政においてすでに導入されていた諸制度・諸規定が、適宜変更が加えられたうえで、禁裏にも導入されるようになった。その代表的なものが、取替金の年額を取り決めた制度である定高制である。

このような経緯で導入された定高制などだが、かならずしもうまく機能したとはいいがたかった。そのため、寛政(1789~1801)年間半ば頃に、同制度の改正や、臨時の支出の備えである備銀などの諸制度の創設、人件費に関するものを中心とした諸規定の作成・改正などが行われた。すなわち、改正された定高制を軸にしたあらたな枠組みが設けられたのであり、この間に、明和8年を境に始まった枠組みの再整備が完了したといえる。ただし、この再整備においては、天皇や上皇らが「不自由」な状態におかれないようにせよ、との老中の命が繰り返し所司代らに伝えられており、幕府は天皇・朝廷に一定の配慮は払っていた。

以上のように、18世紀における保障や支援のあり様とその変遷を明らかにし、さらに、その背景にある幕府の意図も究明したが、それにくわえて、御所の運営に口向がどのように関わっていたのか、という基本的な問題もあわせて追求した。おもに女院の事例しか検討できなかったが、①奥も含めて御所で必要とされた物品は、基本的には禁裏付が統括する口向で調達されていたこと、②奥の主要な収入源である奥定高や諸所からの献上物は、口向を介して奥に渡されていたことなどを指摘した。すなわち、口向は、奥の収入や支出も一定程度は把握しており、御所全体の収支の概要を大まかには知ることができていた。所司代ら在京幕府役人や口向役人は、奥の運営に介入することはできなかったと、先行研究は論じている。それ自体は事実であろうが、まったく無関係ではなかったことが、以上の点からわかる。なお、仙洞や女院など各御所の運営は、禁裏のそれに准じた形で行われていたとの指摘があり、女院におけるこうした口向の役割は、禁裏においてもかなりの程度当てはまったと推測される。

つづく第Ⅱ部では、寛政(1789~1801)年間に設けられた定高制を軸とした保障や支援の枠組みが、実際に機能したのかどうか、しなかったとすれば、その際、幕府はいかなる対応をとったのかという問題を追った。

当初、この枠組みはうまく機能し、臨時の支出の備えである備銀や荒年手当銀にも多くの貯えができた。しかし、寛政末年頃から、光格天皇の積極的な諸活動(たとえば頻繁な和歌会の開催)などが原因で、支出の増大が始まった。その後、貨幣改鋳による物価の高騰、下賜物の増加、吉凶事の多発などにより、支出はさらに急増した。その結果、文政(1818~30)年間後半頃には、荒年手当銀などの貯蓄もほとんど食い潰され、定高制を軸にした枠組みは、その均衡を失うようになった。これに対して幕府は、この枠組み内でのやりくりに無理に固執はせず、かならずしも枠組み内のものとはいえない金銭をも用いることによって、一定程度の保障や支援はかならず行うという姿勢を以後も保持しつづけた。

これらの保障や支援を可能にしていた仕組みを中心的に支えていたのは、京都代官ら在京幕府役人であった。たとえば、定高の主要な財源は、京都代官が管理する禁裏料からの物成と京都代官預諸渡銀であり、京都代官が保障や支援の財源を確保する役割をおもに担っていたといえる。また、口向役人不正事件以降、勘定所系列の幕臣が送り込まれるようになった賄頭らなどの口向役人は、定高や備銀などの出納手続きに深く関わっていた。このように、在京幕府役人らが中心となり、保障や支援の仕組みを機能させていた。

第Ⅰ部・第Ⅱ部では以上のような点を究明した。未解明な部分が多く、時に誤りも見られた保障や支援のあり様をより具体的に明らかにし、さらにこれまではほとんど検討されてこなかった幕政との関係も追求した。

終章では、これらの成果を踏まえたうえで、①幕府による保障や支援は、幕府財政政策などにつよく影響を受けており、無制限な支出の増加を抑制するために、時々に枠組みの整備が行われたこと、②しかし、それはあくまで努力目標に近いものであり、その枠組み内でのやりくりに幕府が無理に固執することはあまりなかったと考えられること、③すなわち、幕府は、朝幕関係を維持するため、つねに朝廷に対して、一定程度の保障や支援を行いつづけたことなどを論じた。

 そのうえで、明和8(1771)~安永3(1774)年頃の画期性を指摘した。勘定所の監督が飛躍的に強まるなど、この時期に、朝廷財政の幕府財政一部局化とも考えられるような動きが飛躍的に推し進められたこと、それは、換言すれば、財政面における朝廷の幕府への一体化が進んだものと捉えられることなどを述べた。

さらに、このような動向は、寛政(1789~1801)年間以降においても継続したことを論じた。当該期は、朝幕関係の転換期と評価されることが多いが、財政面においていえば、朝廷は幕府との一体化をより強めながら、幕末維新期を迎えることになったのではないかと展望した。

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