清末から中華人民共和国の建国にかけて内部分裂や外圧に苦しんだ中国では、安定した秩序を構築すべく多くの政治制度の構想が展開された。それらの構想は、立法機関や行政機関のあり方、中央と地方の間の権力配分、国民と国家や社会との関係、などといった政治思想史研究の観点から見て重要な論点を含んでいる。この構想について、清末や民国後期(南京国民政府の成立から人民共和国建国にかけての時期)に関しては、すでに多くの研究がなされている一方、民国前期(中華民国成立から南京国民政府成立にかけての時期)の構想については、集中的な検討がなされていない。しかし民国前期は、新しく成立した共和国の憲法をめぐる議論が、諸外国の議論を参照して精力的になされた時期であり、清末と民国後期同様の重要性を持つ。また民国後期の構想は民国前期の構想を参照して展開されていたので、清末以降から民国後期にかけて、政治制度をめぐる思索がどのように変遷したのかを探る上でも、民国前期の構想の考察は不可欠である。

 考察にあたり、本論文は1914年に創刊された『甲寅』雑誌にまず着目する。その理由は、短期間で停刊したものの、『甲寅』には当時の中国を代表する政論家が集っていたからである。また彼らは停刊以後も、複数の雑誌や新聞で高度な制度構想を展開しており、それらの考察を通じて民国前期の制度構想の特色を捉えることが可能である。

 第Ⅰ部「『甲寅』の創始者、章士釗の制度構想」では、『甲寅』の中心人物であり同誌に集った人々に多大な感化を及ぼした章士釗について検討を行った。

第1章「民国元年における制度構想と章士釗」では、特に1912年に『民立報』でなされた章士釗の制度構想を分析した。『甲寅』で展開された章の構想の基本的論点は、すでにこの時期に示されていたからである。当時、一部の省都督らはアメリカの事例を参照しつつ、各省が強大な自立的権力を保持しそれら各省が連合して中国を形成するよう主張する一方、梁啓超らはそれでは中国は弱体化・分裂するので、中央政府に権力を集中する中央集権的国家を形成するよう主張していた。章はどちらの見解にも与さず、行政権は地方に分配し各省の自立に配慮する一方、立法権は中央が掌握し国家の求心力を維持すべきと説いた。また省都督らや梁らが全く提起していなかった個人の人身の自由に関心を寄せ、制度によりそれを保全するよう提唱した。こうした章の主張の基底には、社会が多様な要素から構成されておりその多様性は強制的に消滅させられない、むしろその多様性を伸張させてこそ国家は発展するとの考えがあった。

 第2章「君子と制度――第三革命前後における梁啓超と章士釗の制度構想」では、『甲寅』において、なぜ章士釗が制度構想を展開したのかを検討した。民国成立後、様々な制度構想が発表されたものの、それらが現実に反映せぬまま袁世凱により国会が停止されたという状況下、かつて熱心に自身の制度構想を公表していた梁啓超はその停止を宣言する。代わりに梁啓超が唱えたのが、教育により人格の優れた人々、つまり君子を創出し、彼らに政治を主導させようとの構想だった。制度構想が積極的効用を果たさない中、さらなる構想を展開しても徒労であるとの判断が梁啓超にはあったのである。これに対して章は、教育による人の不完全さの是正には限界があり、制度によってその限界を補う必要があると唱えた。また制度構想をめぐる議論の活発化により、社会の多様性も伸張できると考えていた。

 第3章「議会主義への失望から職能代表制への希望へ――章士釗の『聯業救国論』(1921年)」では、『甲寅』停刊後の章士釗の制度構想について、その英文著作『聯業救国論』の議論を中心に検討を加えた。20世紀初頭のイギリスでは、議会政治が行き詰まりを見せる中、その打開のため新たに台頭した労働組合などの政治過程への組み入れが企図され、職能代表制の導入が提唱されるようになっていた。やはり議会政治が定着しないという問題を抱えていた中国において、章もそうしたイギリスの動向に着目しつつ、最終的には中国こそイギリス以上に職能代表制導入に適しているとの結論を導き出した。

 第Ⅱ部「『甲寅』の後継者、高一涵と『太平洋』」では、『甲寅』に参与し章士釗の感化を受けた人々が、その後どのような制度構想を展開したのかを考察した。

 第4章「忘れられた新青年の制度構想――五四前後における高一涵の思想形成」では、『甲寅』から多くの人材を継承した『新青年』の中でもとりわけ章士釗に共鳴し、また制度構想にも深い関心を抱いていた高一涵に着目した。高は章の勧めに応じて英文書の読解に励み、章から国家に対する個人の自由の保障といった観点を継承した。その一方で、章以上に社会という領域の重要性を説き、個人の形成する社会の発展なくして国家の発展はあり得ないと強調した。また大正時期日本の思潮から、至高にして不可分という国家主権概念がすでに解体に向かい、社会の諸団体と国家とを基本的に同列に扱う多元的国家論が主流となりつつあることを学んだ高は、その中国への適用を企図した。すなわち各省に強大な権限を付与する連省自治論を唱えつつ、職能団体も政治に参与させて幅広い意見を汲み取り、中国の安定と発展を目指したのである。こうした構想は、ボルシェヴィズムの受容と鼓吹に努めることとなった同じ『新青年』の陳独秀の構想とは大きく異なるものだった。

 第5章「『太平洋』雑誌の制度構想――五四前後における国内秩序論と国際秩序論」では、やはり『甲寅』から多くの人材を継承した『太平洋』の構想を取り上げた。『太平洋』の執筆者たちは、中央集権のような権力の過度の集中を忌避するという章士釗の構想を受け継ぎ発展させた。具体的には連省自治により各省に高度な権限を与えつつ、人々を地方政治に積極的に参与させて成長させ、中国の混乱収拾を目指した。なお彼らが中央集権的構想を拒絶できた背景には、第一次世界大戦の終結後に成立した国際連盟への強い期待があった。彼らの理解では、国際連盟こそ盲目的民族主義の力を減じさせ、国際政治を次第に平和へと導きうる存在だった。

第Ⅲ部「張東蓀の制度構想とその反響」では、やはり『甲寅』に参与し、後に『時事新報』や『解放与改造』で健筆をふるった張東蓀について検討を加えた。

第6章「1910年代における張東蓀の制度構想」では、民国成立後、張東蓀が議院内閣制確立を唱えつつ、大総統にも立法・行政・司法三権の間の調整作用を期待していたことをまず確認した。しかし1913年、袁世凱により国会が解散に追い込まれ議院内閣制確立が頓挫すると、張は袁のような独裁政治を行おうとする野心家の抑制に関心を集中した。特に張は、各省に大幅な自治を認める連邦制導入を通じ、野心家の権力集中を不可能にしようと試みた。なお張の構想には、章士釗が唱えていた多様性の尊重や制度構想の必要性の強調といった側面が見られ、張が章の強い感化を受けていたとわかる。

第7章「中国社会主義論戦時期における政論家張東蓀の言論とその反響」では、1920年に生じた中国社会主義論戦を手がかりに張東蓀の構想を論じた。1919年に『解放与改造』を創刊して以降、張東蓀は議会制や連邦制などについて正面から議論することが少なくなる。代わりに張は社会主義、特にギルド社会主義への関心を強めることとなった。その背景には職能団体が議会政治の不全を補うことへの期待以上に、前衛党への服従を事実上強制し社会の多様性を圧殺して画一化への道へと進みかねないボルシェヴィズムへの強い反発があった。しかし張の議論の姿勢に誤解を招きやすい点があったこともあって、張の主張は曖昧と認定されて多くの反発を招き、ボルシェヴィズムの宣伝に努めた陳独秀らはもちろんのこと、張同様ギルド社会主義を唱えた高一涵らの支持も得られなかった。

 制度構想の担い手である章士釗ら政論家は、利害・権力関係の複雑な調整を伴う現実の政治過程に直接関与することによってではなく、もっぱら言論の力のみによって政治の改善を志した。しかし現実の政治と深く関連するその言論は批判を受けやすく、その影響力が損なわれることもしばしばだった。但し政論家の理念と言論から啓発を受けた読者も確かに存在し、特に胡適ら民国後期に活躍する政論家は、民国前期の議論を大いに参照して制度構想を展開することになる。つまり民国前期の政論家による制度構想は、民国後期の制度構想の重要な基礎となったといえよう。