本稿では、台湾を領有して間もない時期から、台湾総督府がいかなる理由で、また、いかなる点に力点を置きつつ、本来は台湾総督府の管轄外であったはずの南清地域や中華民国成立以降の華南地域で学校を経営したのかにつき分析した。具体的には、厦門東亜書院、福州東瀛学堂〔1915(大正4)年以降、福州東瀛学校と改称〕、厦門旭瀛書院、汕頭東瀛学校を取り上げ、教科の構成、教師や生徒の名簿からそれらの学校の運営状況について分析した。本稿で明らかになった点は、以下の通りである。

第一章「東亜書院の成立について」では、日清戦争後の日本の「北守南進」政策の下、台湾総督府が、地理的な利便性、従来からの地域的血縁関係の濃さから、厦門を「南進」の起点としていった経緯を明らかにした。台湾と厦門との密接な関係に着目した台湾総督府は、駐在の日本人領事や台湾人紳士(地方有力者)との間に密接な協力関係を築き、教育の側面において「南進」策を進めた。1900(明治33)年に設立された東亜書院については、以下の特徴があった。

①「日清協立」(対等な協力関係)の原則がめざされたが、すべての面でこの原則は達成することはできなかった。寄付金の面を見てみると、「日清協立」の原則に従うため、台湾総督府が設立費と運営費を供出し、厦門の地方有力者もまた設立費を出資するはずであったが、厦門の台湾人有力者らの資金提供額は、厦門駐在領事上野専一の期待する額には達しなかった。

②「創立趣意書及び規則」によれば、京師大学堂において東文学が設置されたこと、清国人が東京へ留学した事例に言及がなされ、日清間の教育分野での交流のため、厦門に学校が設立されるべきであると主張されている。その際、日本経由で安価に迅速に西洋学が習得できるメリットが強調されていた。

③清国側で選出された評議員6名のうち5名は台湾人だった。台湾総督府は厦門の台湾人を利用して、「日清協立」を図ったといえよう。

④同地域にアメリカ側が設置していたアメリカ同文書院に対抗すべく、日本側は日本の影響力を拡大させるため、東亜書院に英語科を設置し、生徒数の増大に努めた。

⑤東亜書院設立に際して参考とされたのは、台湾総督府が台湾に設立していた公学校ではなく、福州にあった東文学堂(以下、東文学堂)であった。東亜同文会が運営に関与していた東文学堂と東亜書院の設立趣旨を読むと、双方ともに、日本の対清教育政策の影響下にあることがみてとれ、東亜書院の生徒募集要項は、東文学堂を参考にしたものだった。

第二章「東亜書院の運営について」では、東亜書院が、「厦門事件」の影響と、書院内部の教育内容上の問題から、経営不振に陥っていった経緯を分析した。台湾総督府の別働隊といえる三五公司は、本問題の解決のため、「日清協同」原則の回復、書院の新方針の策定、学科・課程の改正の三点から対策をとろうとした。

①1904(明治37)年、東亜書院の経営が三五公司に移管された後、三五公司は「日清協同」原則の回復に努めたが、東亜書院設立時から協力してきた清国側の地域有力者の相次ぐ死などもあり、「日清協同」原則の維持は困難であった。

②福州の東文学堂は、科挙指定校として、官僚になろうとする清国知識人子弟に望まれた学校であった。一方、アメリカが設立したアメリカ同文書院は、清末の西洋学ブームもあり、英語教育を教授することで卒業生の就職の可能性が広かったとの利点があり、清国人に人気があった。その狭間にあって、東亜書院は、明確な利点を謳うことができず、生徒募集が困難となっていった。三五公司の愛久沢は、生徒の就職先確保についての方針を決め、東亜書院は実業教育を中心とする学校へと変貌を遂げ、いわば三五公司の教育施設となっていった。東亜書院の卒業生の就職先として、日本の借款鉄道である潮汕鉄道への就職は確保されたが、清国官庁、商会へ就職させることは困難だった。

③1906(明治39)年、東亜書院の教育方針は実業教育に転じ、それにともない、学科と課程の改編がなされた。その結果、当初は日本語教育を通じた「日清交流」がめざされていた同校の教育は、専門技術の教授を主たるものに変貌したのである。

第三章「台湾総督府による台湾籍民学校の成立」においては、明治末年、「台湾籍民」(以下、籍民と略称する)によって組織された東瀛会館・台湾公会など籍民団体が、従来の台湾人紳士(地域有力者)に代わり、駐在の日本領事、台湾総督府など新たな協力関係を築いていった経緯を明らかにした。台湾総督府が南清でおこなった教育事業について、1907(明治40)年の段階で台湾総督府学務課長・持地六三郎が作成した報告書によってまとめれば、籍民教育の問題が重視され、台湾公学校に準拠した教育方法によって、対岸の籍民を、中国式の教育から、台湾総督府による植民地教育体系に包摂していこうと図った様子が明らかになる。1908(明治41)年に設立された福州東瀛学堂、1910(明治43)年に設立された厦門旭瀛書院は、そのような動機から作られた学校であった。

 だが、清末の革命と民国初期の混乱が起こると、台湾総督府は台湾人や籍民へ及ぼす影響を警戒するようになった。よって、一つには、中国へ日本式の教育の拡張を図るため、いま一つには、第一次世界大戦勃発によって欧州列強が中国から一時的に勢力を減退させた機に乗じ、日本側は、旭瀛書院、東瀛学堂のほかに、1915(大正4)年、厦門、福州と並んで、籍民への教育という名目で汕頭東瀛学校を設立した。

 第四章「外人学校と排日運動期の台湾籍民学校教師」では、欧米人が経営していた学校(以下、欧米人学校と略す)との比較をまじえ、折から起こりつつあった排日運動の渦中でもまれる籍民学校の実態について検討した。19世紀半ばから設立され始めた欧米人経営による学校は、小学校から大学までの全課程をカバーするものであり、整然とした教育体系のもとに運営がなされていた。のみならず、卒業生の必要に応じ、キリスト教会の母国の学校と連携して留学生を派遣し、また欧米人の勢力圏の会社、税関、学校などへ就職を斡旋するなど、学生の求める利便性に積極的に呼応していた。排日運動が、日本人の経営する籍民学校に影響を与え始めたのは、1915(大正4)年、「対華二十一ヵ条」問題が外交事案として噴出したときからであった。一連の排日運動、日貨排斥、南北混戦により、福州と汕頭の籍民学校は深刻な影響を受けることとなった。そのなかでも、厦門は日本の経済的な影響力が堅固であったため、深刻な影響を蒙ったとはいえなかった。

欧米人学校の躍進と排日運動という逆風のなかで、注目されるのは、籍民学校の教師の構成であった。台湾総督府から派遣された、公学校で教育に従事していた日本人教師と台湾人教師のほか、漢文、官話、英語などの教科目では中国人教師が招聘されるようになった。日本側も、華南に設立されていた欧米人学校との差異化を図ることに意を用い、中国人学校との協調関係を築きつつ、籍民団体の事務参与、顧問、館長などをも兼務できる、特徴ある籍民学校教師も採用されるようになったことがわかる。

第五章「台湾籍民学校の運営」では、学科の種類、教育課程、生徒募集の側面から、籍民学校の実態について解明した。学科の種類をみておけば、本科以外、名称は異なるものの、籍民学校三校とも共通して、留学や就職などを考慮して、専修科のほか、特設科、補習科、高等科、商業科予科などを設置していた。教科目については、学生数を増やし、欧米人経営の学校と対抗するため、本科には英語科(旭瀛書院と汕頭東瀛学校のみ)、官話科と漢文の時間を増設している。持地学務課長の当初の思惑では、籍民学校の卒業生の進路先としては台湾留学を想定していたにもかかわらず、籍民学校の卒業生は日本留学へと向かった。

籍民学校へは、いかなる生徒が通っていたのだろうか。最も籍民の人数が多かった旭瀛書院においても、1915(大正4)年以後、中国人の生徒数が籍民数を凌駕するようになっていた。当初、籍民の教育のために設置された籍民学校であれば、帝国臣民を養成する、という教育目標を掲げている点で問題はなかった。しかし、中国人生徒が多くなってくると、そのような教育目標は制約要因となっていった。籍民学校における中途退学率は高かった。大正期までは、それなりの入学者を確保しており、日本語の普及という目標から鑑みれば、学校設立の効果はあったといえるだろう。ほとんどの卒業生は就職先を見つけることができたが、家業を相続し、商業関係の仕事に就く者が最も多かった。その中で注目すべきは、博愛会医院の医務養成教育を受けた者がいた点であろう。汕頭東瀛学校の教師であった岡部松五郎の指摘によれば、欧米人経営の学校の卒業生と比べ、籍民学校卒業生の進路先は、専門性はありながら、狭く限定されていたとの現実的な問題があった。

以上をまとめれば、明治末期から大正期における籍民学校では、問題が二つほど生じていたといえるだろう。①中国人と籍民の「共学」問題であり、②卒業生の進路、ことに上級学校への進学の問題であった。二つの問題ともに、籍民学校側の改革を必要とする重要な問題であった。

しかし、大正期には見られた、台湾総督府、駐在領事、籍民団体の密接な協力関係は、日貨排斥や内戦による混乱期を経て、次第に揺らいでいった。中国の国内情勢のほかには、籍民団体の収入減、台湾総督府の財政難などが挙げられる。その際、台湾総督府の側と駐在する日本人領事の側では、異なる対処策が抱かれていた。日本側の足並みの乱れも、籍民学校への柔軟な対応を困難としたといえよう。