本研究の課題は、ハイデガー哲学の構造とその発展の形成史的研究を通じ、現象学的存在論の遂行過程において、この存在論の言説システム全体が自らに内在的な傾向性に従って変容するその動態を解明することである。

体系的には、第一に、こうして、一人称観点の顕在的経験に立脚して経験一般の本質体制を分析する現象学的存在論の遂行そのものの実体を明示化することで、現象学的存在論の方法的基盤を構築することが目指される。第二に、変容の各段階における諸概念の連関を明示化することにより、現象学的存在論の理論的可能性の拡がりをその動態において幅広く提示することが目指される。

また、歴史研究的には、近年の一次資料の爆発的増加により統合的理解の困難であったハイデガー哲学について、これを《一人称観点の顕在的経験に則した経験一般の本質的解釈がたどる変容過程》の歴史的事例として仮説的に把握して分析を加えることで、各時期の資料の個性や資料間の微細な矛盾を漏らさずに、膨大な著作全体の統合的解釈が試みられる。

 第一章では、一九一〇年代の学生時代のハイデガーの著作に則して、経験一般の哲学的解釈を動機づける存在論的経験が解釈の課題として自覚され、本来的意味での現象学的存在論が開始される過程を解明する。まず、カトリック思想の影響下にあった一九一〇年代初頭のハイデガーは、カトリックの実在論的世界観と神秘主義的な実存体験という必ずしも調和しない主題を設定して哲学研究を始める。そして、前者の実在論的世界観を擁護する理論的手立てとして、意味のイデア的な「妥当」を主張する当時の反心理学主義的な論理学思想を学び、これを博士論文(1913)に纏める。だが、西南ドイツ学派とフッサールの影響下に同様の立場を提示した教授資格論文(1915)では、理論的判断の普遍的相関者たる形式的対象範疇が循環論法としてしか獲得されない経験的に空疎な存在論となる事を自ら暴露してしまう。この難点を解決する為に、教授資格論文結語部(1916)では、ラスクの「意義規定性」と「超対立」の概念を手引きとして、理論的判断に先行する知覚的所与の段階で既に受動的に範疇的構造化を受けている経験を承認するに至る。これに対応し、受動的に構造化される知覚的所与に応答する先理論的・歴史的な「生」の存在論の必要性を確認し、教授資格講義(1915)が示す通り、当時の「生の哲学」に接近する。だが、これだけでは、その都度の状況で事実的に与えられる存在者に定位する相対主義的な存在論しか得られない。そこで、一九一〇年代末の宗教哲学草稿で、当初の超越的な他者の実存体験が学問的存在論研究の内に引き入れられ、超越的他者に直面する実存の自己確認の内に、環境の歴史的多様を超える経験一般の意味理解の普遍性が求められる。

 第二章では、一九一九年に始まる初期フライブルク期から『存在と時間』(1927)までの講義・論文における解釈学的現象学の形成過程を解明し、経験一般の哲学的解釈の主体が自らの存在論的能力を確認する過程、そして、これにより現象学的存在論全体に波及する仕方で解釈主体の自己解釈が変容する過程を検討する。その際、事実的生ないし現存在の自己解釈において「時間性」概念が持つ位置に則して、検討対象について、一九二二年までの初期講義群と、『ナトルプ報告』(1922)から『存在と時間』に至る著作群を時期的に区別する。前者の第一期解釈学的現象学の特徴は、事実的生の自己性の存在論的特権性を主張しない非超越論的立場、自己性に先行する超越的他者経験の承認、そして、分析における謂わば経験主義的な記述への定位である。これは、当初は時間論的分析を殆ど含まなかったが、自己解釈の深化と共に、超越的他者経験に本来的に直面する自己性の存在様態を概念的に明確化する《指標》として、「時間性」が導入される。これに対し、第二期解釈学的現象学の本質は、《指標》に過ぎなかった「時間性」を自己解釈の《目的》に据え、これに対応して、解釈学的現象学の全論点を再編成し、事象把握を変容させる事に存する。具体的には、これにより、存在了解の主体たる現存在が全存在者の出会われを条件付ける『存在と時間』型の超越論哲学が導かれ、これに対応して、自己性に先行する超越的他者の経験は哲学的言説の外部に追放される。

 第三章では、一九二〇年代後半から一九三〇年代初頭の講義・論文・著書で提示された「形而上学」に則して、それ以前の『存在と時間』で提示された解釈主体の存在論の洞察が経験一般に拡大適用される中で、解釈主体の存在論が実在全体を扱うより包括的な存在論に内包されて、現象学的存在論全体が質的な変容をこうむる過程を解明する。まず、従来指摘される通り、『存在と時間』型の超越論哲学には、世界開示する本来的現存在が具体的歴史状況に実践的に関与する際の選択基準を特定できないという難点がある。これを克服する為には、現存在がその出会われを存在論的に条件付けるのに先立って現存在を拘束する実在の経験的触発を認めねばならない。その洞察は既に『存在と時間』内部の記述の動揺に認められる。然るに、これは、一九二八年に明示的に、現存在の存在了解に先行する「全体における存在者」を扱うメタ存在論と、この「存在者それ自体」を扱う従来の基礎的存在論の二重的な課題たる「形而上学」として展開される。これにより、先に放逐された超越的他者の経験も一定程度取り戻される。その後、これは、第一に、「全体における存在者それ自体」を剔出する単一の課題に統合され、第二に、「全体における存在者」に受肉しながらそうした形而上学的力能を有する人間の本質を問う「現存在の形而上学」を齎し、第三に、存在と知の合一という一般的主題に重ねられ、後のハイデガーの哲学史解釈(「存在史」)の基盤となる。第三点に関し、本研究では、伝統的な「イデア」、「形相」、「観念」の哲学史的系譜を、ハイデガー形而上学に則して再構成する事で、ハイデガー形而上学の内的可能性の分節化が試みられる。

 第四章では、『カントと形而上学の問題』(1929)における超越論的構想力概念と時間の自己触発の概念の関係を検討することにより、こうして一定の完成を見た経験一般の哲学的解釈が、正にその到達点において自己矛盾に導かれ、経験一般の哲学的解釈という一連の営為全体に対する全体的反省の必要性が自覚化される過程を検討する。まず、同書の構想力概念は、直観と思惟の綜合というカント的問題の枠組において、ハイデガー形而上学、則ち、現存在がその内に不可分に受肉する実在全体の存在の本質体制を剔出する試みに答えるものである。そのポイントは、直観と思惟の綜合を形而上学的経験解釈がそこで成立する存在了解の地平と捉えた上で、この綜合が可能である為の発生的前提条件として構想力を捉える所にある。これにより、ハイデガー形而上学は最も洗練された解答を得る。だが、超越論的・発生論的説明の被説明項として存在地平の統一を前提し、その成立過程を問うハイデガーの立論は、当の記述者自身が被説明項の内に置かれる以上、現象学的証示可能性を持たない思弁的分析であり、結局の所、記述者が立脚する存在地平の静態的・構造的な分析へと回収されざるを得ない。この事は、同書における構想力概念と、存在地平の構造的条件である時間の自己触発概念との間の決定的な曖昧さにより確認される。これにより、ハイデガー形而上学全体の試みの問題性が自覚化され、その後の「転回」が齎される。

 第五章では、一九三〇年代後半以降の後期ハイデガーの公刊著作・講演・草稿に則して、形而上学の挫折の後に、経験の哲学的解釈が取り得るあり方を検討する。第一に、把握される経験一般のあり方の本質は、それが、形而上学における存在と知の合一ではなく、この合一の表象を免れる「現れ」と「隠れ」の両義性を有する事である。又、この両義性の構造に内包される根源的他性の経験として、「最後の神」や「聖なるもの」の概念が導入される。また、この両義性における実在全体の経験の特徴は、それが、統一的な形而上学的解釈を拒む可塑性を有する事である。この可塑性は、経験解釈に先行して、解釈が構築した意味の脈絡を変容させる実在の根源的意味生成の性格である。ハイデガーは、これを「四方域」概念により分析する。更に、「現れ」と「隠れ」の両義性と「四方域」のあり方に則し、時間・空間概念も更新され、形而上学の恒常的現前に回収されない非現前の介入としての時間的推移と、実在の根源的可塑性がそこで生じる《余地》としての空間的拡がりが、「四方域」を成す各々の契機に則して検討される。第二に、この経験を露呈する人間的解釈の新しいあり方が、一九三〇年代後半の草稿における「保蔵」概念を中心に考察される。この営為の本質は、「現れ」と「隠れ」の二重性と「四方域」の可塑性を存在者の内に改めて具現する事である。則ち、「保蔵」は、遂行者自身を含む実在全体の維持すらも放棄する仕方で経験の可変性を反復する事により、人間が根差す経験の再生を達成する。また、「四方域」の可塑性故に実在が根源的多様性を示す以上、これを反復する「保蔵」は狭義の哲学に限定されない複数性を持つ。それ故、最終的には、経験の哲学的解釈は、無数に多様な「保蔵」の人倫的な相互協同において達成される。その際、「思索」と呼ばれる哲学的営為は、「隠れ」に直面する実在全体の没落を言語表現に齎すことで、経験一般の生起に直面する人間的営為の可能性を他者に対して例示する重要な役割を果たす。