坂口安吾作品研究

山根 龍一

  本論文は、坂口安吾の代表作を精読することを通して、現代につながるさまざまな諸問題について考究したものである。以下、章ごとの要旨を順に示す。

 第一章では、処女作「木枯の酒倉から ――聖なる酔つ払ひは神々の魔手に誘惑された話――」(『言葉』昭6・1)の作品分析を行い、安吾文学には出発期においてすでに、のちの作品の基盤となるような、以下の二つの方法が胚胎していたことを論証した。一つは、思考対象を二元的に捉えた上で、その枠組みをダイナミックに統合しようとする志向であり、もう一つは、そうしたダイナミックな統合の相のもとで機能する、「仏教」を基盤に据えた独自の〝文学論〟である。その〝文学論〟とは、〈想像力〉と〈幻術〉の有機的複合体にほかならず、そのような特異な〝文学論〟が、松浦一『文学の本質』(大4・11、大日本図書株式会社)という、「仏教」を基調とする文学概論書の影響下に成り立っている可能性も、同書と「木枯の酒倉から」との具体的な比較作業を通して、明らかにした。

 第二章では、文壇デビュー作「風博士」(『青い馬』昭6・6)を、以下の手順を踏んで精読した。まず、作品本文に注釈をつける作業を通して、「偉大なる風博士/憎むべき蛸博士」という二項図式が含意する作品の主題を掘り起こした。それは、福本イズムの信奉者たちや小谷部全一郎によく似た「英雄的夢想家(ロマンチシスト)」と、「科学的現実主義者(リアリスト)」との対立という、同時代に開かれたものである。次に、そうした二元論を止揚していく言葉の戦略を作品の構造分析を通して導出した。それは、さまざまなレベルの二項のあいだに線を引こうとするベクトルと線を消そうとするベクトルとの拮抗状態を作り出し、二項を不断の緊張関係のうちに同居させていくというものである。以上の考察を経た上で、最後に作品が発表された1931年前後の同時代言説を検討し、「風博士」を、〝転向〟という日本近代思想史上の重要な問題系にアクセスするような、同時代に対する批評性を持つ作品として位置づけた。

 第三章では、主として以下の三つの観点から、「黒谷村」(『青い馬』昭6・7)の読みかえを試みた。まず、特異な遠近感にもとづく主人公・凡太の視線を介して清澄なイメージで語られる村落のありようこそ、本作に揺曳するポエジーの内実であることを指摘した。次に、左傾願望を持ちつつも自殺してしまう豪農の次男、禁欲と愛欲の葛藤を抱える仏僧・龍然という二人の造型を通して、同時代において〈理想主義〉として共軛される左翼思想と仏教に不可避の問題を浮き彫りにする作品の仕掛けを析出した。さらに、彼ら二人に由良という女性登場人物を加えた三人と主人公との相関関係を通じて、〈理想主義〉を問い直す言語戦略が構造化されている可能性を指摘し、一見「不真面目」ともとれる主人公のスタンスが、実は同時代に対する内在批判となりうることを明らかにした。その上で最後に、習作時代の安吾の文章を参照し、「黒谷村」が安吾独自の印度哲学・仏教理解と密接に切り結びつつ、「小説」でなければ表現できない必然性を持った重要な作品であることを指摘した。

 第四章では、「日本文化私観」(『現代文学』昭17・2)を取り上げ、主としてブルーノ・タウト著『日本美の再発見』(昭14・6、岩波新書)との比較を通して、作品の精読を試みた。その結果、「日本文化私観」では、「美」が以下のように提示されていると読める。すなわち「美」は、現在から過去の生活を振り返る回想主体の要請にもとづいて、さまざまな建造物にまつわる記憶の断片を恣意的にたぐり寄せる記憶のパッチワークから生み出される生成概念にほかならない。こうした「美」の捉え方は、前掲『日本美の再発見』における目的論的な思考のあり方と、それにもとづくスタティックな「美」の捉え方とを批判的に浮き彫りにする。さらに「日本文化私観」は、「美」をめぐる如上の発想を理論的に示すだけでなく、発想を実践する過程をも、言葉によってパラレルに創り行っていくという構造上の特質を持つ。そうした特質に着目することにより、「日本文化私観」は、〈我々〉〈日本人〉という言葉づかいが創り出す抽象的で扁平なつながりに内側から分節線を引く形で、〈僕〉という回想主体が創り出す起伏に富んだ具体的なつながりの構築可能性を実践的に示してみせた作品であることを明らかにした。

 第五章では、「真珠」(『文芸』昭17・6)を取り上げ、アジア・太平洋戦争のコンテクストを踏まえた表現分析を行うことで、作品を、以下のような既存の境界線の変容をもたらし、時代に対する批判となりうるような意味内容を発生させるものと意味づけた。第一に、総力戦体制下に再編されつつあった「われわれ」日本国民を、独自の線引き――「一握りの前線の〈超人〉/大多数の前線・銃後の〈常人〉」――で再・再編成し、〈常人〉が容易に接近できない超越者を「われわれ」内部に創り出すことで、語り手の〈僕〉自身も含めた、銃後の人々の〈軽率な気焔〉を牽制すること。第二に、「超人/常人」の線引きを日本という共同体の外部にまで延長することで、〈あなた方〉〈超人〉との同胞意識によって形成される、自民族中心主義の根拠を揺さぶること。第三に、「超人/常人」の線引きそのものを無効化してしまう「不用意」な語りによって、〈あなた方〉〈超人〉が偉大であるという語り手自身の論拠を突き崩してしまうこと。そして最終的に以上のような「真珠」の言語戦略は、有事の際に形づくられる「政治の論理」を恣意的に組み替えてしまうような、〝文学による政治〟となりうる可能性を提示した。

 第六章では、「堕落論」(『新潮』昭21・4)を自立した一個の構造体として精読することで、以下の二点を作品の独自性として析出した。一点目は、戦時下の内的動揺を通じて小林秀雄が戦後に持ち越したフェータリスティックな歴史観を内面化しつつ、その上でそれを批判・克服していくような、歴史と人間との双方向的かつ力動的な相関関係の構築可能性を提示し、結果的にそうした身振りが、敗戦直後の小林秀雄の発言に対する内在批判となりえている点である。二点目は、主に作品末尾で展開される論旨――〈歴史の独創〉にもとづく虚構装置の、〈堕落〉を方法手段とした〈自分自身〉に固有なものへの組みかえ――の言葉による実践のサンプルが、「私語り」という形で作中に構造化されている点である。そして以上の考察をもとに、「堕落論」は、後年の小林秀雄批判に連なるような論点がいち早く示された作品であると同時に、虚構(フィクション)を虚構(フィクション)として対象化しつつ、それと絶えず理性的・批判的に対峙していくためのしなやかな思考のあり方が言葉によって作中に定着された、ジャンル越境的なユニークな作品であることを明らかにした。

 第七章では、「いづこへ」(『新小説』昭21・10)を取り上げ、敗戦直後の思想動向を踏まえた、作品の状況論的意味づけを試みた。『近代文学』同人によって端緒が開かれた戦後主体性論争は、その当初、高遠な「政治」の理想を、卑小なエゴイズムを凝視する「文学」との相関関係において不断に問い直すという、「政治」と「文学」の結合を可能にするような視座を内含していた。しかし、そうした視座を提示した『近代文学』グループに、〈私〉の〈実感〉を絶対化してしまう独我論的陥穽もまた、同時に内在していたために、その可能性はついえてしまう。以上のコンテクストの中に「いづこへ」を置いてみると、〈私〉の実体化・固定化を徹底して避け、ヒューマニスティックな〈自己犠牲[≒〈無償の行為〉]〉の確かなかたちを探し求める〈私〉が、〈最も卑小なエゴイスト〉である自分自身の現実と相争うプロセスそのものが構造化された「いづこへ」は、戦後主体性論争が最初期に有していた理論的可能性を、あらためて小説の形で提示してみせた作品と読むことができる。以上をもとに、「いづこへ」は、安吾文学が『近代文学』グループの〝内部批判者〟であることを指し示す作品であると同時に、戦後主体性論争の〝軌道修正〟という意義をも併せ持つ作品であることを明らかにした。

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