中世和歌史論

木村 尚志

  本論文は、院政期から鎌倉中期の和歌史の展開を対象とする。院政期に存亡の危機に陥った和歌が新しく起こった歌人層である武家をも取り込みつつ、京・鎌倉の相互の文化的交流の中で、観念に対応する現実を見出して行く過程を具体的に捉えることを主旨とする。
 
 第一章 中世の歌枕

 第一節「中世の旅と歌枕―「浜名の橋」を中心として―」では、旧来その地名との縁語・掛詞によって詠むことを唯一の規範としていた遠江国の歌枕「浜名の橋」が、飛鳥井雅経や源光行の「浜名の海」の歌あたりから、浜名湖などの周辺の風景を含めて詠まれるようになった事実とその背景や影響について論じた。京の歌人が用い出した浜名湖を指した「入海」の呼称は、東国の歌人である宗尊親王や飛鳥井雅有らに受け入れられた。かくして羈旅歌の表現の裾野が拡がり、旧来の伝統における共同性が体験の現実性というものを通して鍛えられ、もう一度共同性を獲得したのである。
  第二節「新古今時代の歌枕―「水無瀬」をめぐって―」では、摂津・山城両国にまたがる歌枕「水無瀬」が新古今時代に後鳥羽院の離宮が置かれたことでその意義を新しくしたことを論じた。平安朝までの「水無瀬」は現実の風景とは無関係にその地名の言葉の上の繫がりだけによって詠まれていたが、漢詩における河陽文学と『伊勢物語』第八十二段は例外であり、月や花が描かれている。新古今時代になると、その現実の風景への眼差しが河陽文学や『伊勢物語』第八十二段を拠り所に回復される。その中で水無瀬山の花や紅葉が水無瀬川に散りかかる歌が、河陽文学の君臣の唱和詩を踏まえて定型化した。当時の水無瀬の離宮のあたりは、貴族の生活において重要な意味を持った「都市」空間であり、その現実と文学伝統の観念とが融合し、歌枕に新たな意義を与えたのである。
 第三節「中世の旅の歌枕と東国―新古今時代を中心に―」では、旅の中で目にする歌枕の現実の地理的状況が詠まれるようになった要因として、鎌倉の興隆の持つ意味を論じた。平安時代に『更級日記』に描かれた潮の満干に左右される旅の難所としての「鳴海」の風景が歌にはじめて詠まれるのは新古今時代であり、特に雅経の和歌に現実性が顕著である。藤原良経の「足柄の関路こえゆくしののめにひとむら霞む浮島が原」という歌を、後に千五百番歌合で顕昭が真似た歌を詠んだとき、判者定家はその重なりを非難した。と同時に定家は、良経の歌を『新勅撰集』に撰んだ。それは為家の『詠歌一体』に「只今其所に望て歴覧せんに、花も紅葉もあらば景気にしたがひてよむべし」「ことひとつしだしたる歌は、作者一人のものにて、撰集などにも入なり」と述べていることと重なる。それは定家が、鎌倉との政治的関係を象徴する東国の歌枕を重視し、漢詩の眺望表現に倣って羈旅の眺望を歌に取り入れていった九条家歌壇において体得した歌枕観であり、その流れの中に雅経ら実際にそこを旅した人々の歌枕詠の新しさも位置づけられる。
 第四節「東国の歌枕の生成と駒迎」では、東国の歌枕の生成の要因として駒迎を位置づけた。一一世紀半ば頃には、武蔵・上野・甲斐からの駒迎は事実上廃絶し、信濃国の望月の御牧からの駒迎のみ、中世まで続けられた。現実の駒迎が形骸化する中、大江匡房は『江家次第』の中で駒牽の儀式の故実を追求し、東国の駒を比喩に用いて日常の場面を歌にした。この駒迎の行事への、及び東国の御牧という地方への数寄者的関心のうち、中世和歌に主に受け継がれたのは後者であった。それは道行的な駒迎の詠み方の流行に表れている。一つには興隆著しい東国への現実の政治的意識が反映しており、また、俊成の同時代の信濃守藤原親隆を中心として、信濃の歌枕や信濃道の旅への関心が生まれたことも影響した。そこで形作られた東国意識は王朝時代の旅や歌枕の観念を変質させる現実の認識であった。また、信濃国の駒迎だけが詠み続けられたのは現実に即すものであるが、かの貫之と高遠の駒迎の名歌による観念の浸透力も働いていよう。駒迎は、政治や文化の現実と王朝和歌の観念を繫ぐ媒介であったと言えよう。

 第二章 宗尊親王の和歌

 第一節「宗尊親王の和歌の先行歌摂取」では、新古今時代に『近代秀歌』や『詠歌大概』等に定められた制限・制約を超えた先行歌からの表現摂取が一般化してゆく中世和歌において、そうした歌の詠み方がどのような意義を持ったのかを念頭に、宗尊の和歌を解釈した。まず古歌の場合、本歌の大部分の言葉を受け継ぎながら、少しの違いにより主題や主旨を変えることで、古歌の世界を越えようとしている。一方、飛鳥井雅有の歌と『新和歌集』の歌からの摂取では、何らかの新しさを取り入れながら、それが持っている欠点を補っている。古歌、及び近い時代の歌からの表現摂取に共通するのは、先行歌の「中心的趣向」を見定め、そこから縁語や古歌を連想し、言葉の相互関係として生かして行く発想である。それは「中心的趣向」に向かい合う心を古歌や言葉の伝統としての縁語を通じて歌人が体得してゆく「まねび」と密接に関わっている。
 第二節「宗尊親王の和歌―表現摂取の特質―」では、先行歌摂取に頼りすぎる傾向から歌人としての宗尊親王をディレッタントとする見方に対し、古歌や先行歌との表現上の関係性を見る必要があることを、事例を挙げて論証した。それは先行歌の内容をほぼ変えずに取り入れつつ、表現の上で差異化を図っているものであり、これを添削的改作方法と名づけた。その方向性は、為家の自歌の推敲に通じ、自他に方法的な自覚を促すものであった。つまり、古歌、乃至自身の歌をも含めた先行歌の特質を呈示し、その特質の別様な生かし方を併せて示すことで、人々を導く指導的意識が共通しているのであった。
 第三節「宗尊親王と『古今集』」では、中世における『古今集』の「聖典」化が万葉的なものの排除へ向かわなかったことの背景として、宗尊親王の『古今集』享受が、『万葉集』を含む同時代の東国の「古典」研究の中に位置づけられることを論じた。宗尊親王の和歌には「けむ」により何らかの事象の起源を探る歌が多く見られる。その読み方自体は古代和歌にあり、それを再生させたのは俊成であった。そこでは信仰、風物、季節感などの観念の起源への関心が主であるが、それを個別の歌や物語の本意の言葉による探求へと敷衍させたのが、宗尊であった。宗尊は歌人の〈いま〉の立場から、『万葉集』やその後の古典との関連も含め、『古今集』歌の言葉の本意を詠歌を通して示唆したのである。

 第三章 中世の万葉享受
 
 第一節「中世の万葉享受―「万葉の古風」について―」では、「万葉の古風」という言葉について、その用いられ始めた院政期を中心に、その本来の意味を探るものである。それを最初に用いたのは俊成であるが、それは基俊の「古質」と同じく、新旧の言葉の混在を戒める文脈で用いられている。混在がいけないのは、言葉と心が対応しないからである。「古風」は古語と同一ではなく、心も含めた歌の風体を表す言葉であった。それは、心と切り離した万葉の古語の享受に対抗し王朝的美意識を再興する、基俊から引き継いだ俊成の課題であった。映像化・言語化できない万葉の言葉の余情、「幽玄の体」に学ぶ機運が起こるのは俊頼・基俊の時代であっただろう。「古風」を取り込むことで、院政期以降の歌人たちは、「古風」と王朝的美意識の間に通じる「理」を見出し、自分たちの王朝的美意識そのものの再興を図ったのである。
 第二節「宗尊親王と『万葉集』」では、宗尊の万葉摂取の特質と同時代との関係について考えた。仙覚が校訂した『万葉集』の文永本が、文永二年(一二六五)に宗尊に献上されたことは特筆すべき事実である。宗尊は同時代における万葉の情趣の理解を前提とし、それを生かす方向で、その後の和歌からも言葉を選び抜いている。この共通項を媒介に万葉とその後の和歌や古語の接点を求める発想を縁語的発想と呼ぶこととする。それは万葉の言葉だけではなく、心も生かすための発想であった。その縁語的発想は、『五代簡要』『万葉集佳詞』の抄出、定家や為家らの和歌にも見られるものである。

 第四章 中世和歌雑考
 
 第一節「述懐歌の歴史」では、中世和歌における述懐歌の持つ意味の大きさを論じた。述懐歌は、院政期において自己の否定的状況のみならず、「願い」を詠むものになり、歌合などの題にもなった。大江千里の『句題和歌』の四季部の述懐歌と曾祢好忠の「好忠百首」には、時間の流れの中に間接的に我が身の述懐を込め、公的な歌の中に私的な思いを滑り込ませる高度な方法が看取される。俊頼は独詠歌であった述懐歌に、上句と下句の間での言葉の転意という贈答歌や連歌に通じる表現を持ち込んだ。俊成の「述懐百首」もその影響を受けた。そして、言葉の転移の一種である縁語・掛詞の言葉の結びつきに我が身の主情を込めることで、抑制的に主情を押し出す中世和歌に特有の方法に発展させた。
 第二節「琳賢の和歌と基俊の判詞―『中宮亮顕輔家歌合』注解―」では、中宮亮顕輔家歌合での琳賢の歌への基俊の判詞の、琳賢の作意やその歌の妥当な評価とのずれと同時に、琳賢の和歌一般における独創性を指摘することで、『無名抄』の説話にも見られる両者の対立関係とともに、当該歌合での「すれ違い」がこの時代の新旧両派の対立を象徴するものであることを指摘した。
 第三節「鷹百首」では、室町時代に鷹狩の道の伝授に用いられた「鷹百首」が、鷹と人間の関係をどのように描き、それを伝授に活用しているかを考察した。そこには現実の体験としての鷹狩とその言葉による表現との表裏一体の関係がある。声の面白さや身体感覚の喚起を伴う歌が「鷹百首」には多く、鷹に対する親愛の情を伝えている。

一覧へ戻る